第64話 シラユキノハナ、検査前夜
夕方の厩舎は、乾草を噛む音まで小さく聞こえた。
恒一は、シラユキノハナの馬房の前で足を止めた。
乾草は減っている。
水桶も悪くない。
立ち位置は奥ではなく、通路側へ半歩寄ったあたり。
悪い兆候ではない。
だが、それだけで安心できるほど、繁殖は優しくない。
シラユキノハナが、ゆっくり顔を上げた。
耳がひとつ、こちらへ動く。
若い牝馬のように跳ねる強さではない。
だが、こちらを見返す目には、長く牧場にいた馬だけが持つ静かな重みがあった。
「明日だね」
背後で、美緒が言った。
手には作業表ではなく、帳簿を抱えている。
「受胎してたら……嬉しい」
「ああ」
「嬉しいけど、楽にはならない」
「そうだな」
美緒は馬房の柵に寄りかからなかった。
帳簿を抱く手に力が入っている。
たぶん、その震えを馬に伝えたくないのだ。
「受胎してたら、獣医代も増える。飼料も気を使う。毎日の管理も増える。何かあったら、またお金が飛ぶ」
「分かってる」
「分かってるけど、言わないと忘れそうになる」
美緒は少し笑おうとして、口元で失敗した。
「喜ぶ準備だけしてると、帳簿に殴られる」
白い母系を残す。
言葉だけなら、綺麗だ。
だが実際には、明日からの支払いと、神経を削る世話が増えるということでもある。
残れば、未来が一つ増える。
同時に、その未来を守る責任も増える。
厩舎の入口から、玲奈が入ってきた。
手には検査道具の入ったケース。
足音は小さかった。
「今夜は、余計な確認を増やしません」
玲奈は馬房の前で止まり、シラユキノハナを見た。
「食い、水、立ち位置は悪くありません。でも、高齢牝馬です。検査前夜に、人間が期待をぶつけるのが一番よくない」
美緒が帳簿を抱き直す。
「期待って、馬に分かるんですか」
「分かります。急に優しくなる。近づきすぎる。声をかけすぎる。そういう変化を、馬は見ています」
「……私、やりそう」
「だから、紙に書いてください」
美緒は渋い顔で作業表を引き寄せた。
検査前夜。接触人数固定。声かけ最小限。長時間滞在なし。
書き終えると、美緒が恒一を見た。
「長時間滞在なし。これ、兄さんのことだよね」
「俺か」
「馬房の前で石みたいになるから」
玲奈も否定しなかった。
「榊原さんも、今日は長く立たないでください」
「分かりました」
「分かってない顔です」
美緒がぼそっと言う。
「私もそう思う」
恒一は苦笑しそうになり、やめた。
シラユキノハナの耳が、こちらへ動いたからだ。
片桐から電話が入ったのは、その少し後だった。
『明日、検査なのね』
「はい」
『期待してる?』
恒一は少し黙った。
「しています」
『いい答えね。期待していないふりをする方が、馬にも人にも失礼よ』
「ただ、その期待を押しつけないようにします」
『それでいいわ。白い母系は、残れば大きい。でも、残った瞬間から守る仕事が始まる』
「はい」
『美緒ちゃんにも言っておいて。泣くなら短く』
電話を切ると、美緒が眉を寄せた。
「片桐さん、何て?」
「泣くなら短く、だそうだ」
「ひどい」
「たぶん、優しさだ」
「分かるのが嫌」
美緒は帳簿の端に、小さく書いた。
泣くなら短く。守るのは長く。
恒一はその文字を見た。
嫌になるほど、美緒らしいまとめだった。
夜、恒一はもう一度だけ馬房へ行った。
長く立たない。
そう決めていた。
乾草はさらに少し減っている。
水も飲んでいる。
便も悪くない。
シラユキノハナは、静かにこちらを見た。
恒一は柵に手をかけなかった。
「明日、見るだけだ」
低く言う。
「急がなくていい。騒がなくていい。いつも通りでいい」
シラユキノハナが、小さく鼻を鳴らした。
それ以上、恒一は言わなかった。
願いはある。
あるに決まっている。
だが、今夜それを、あの白い馬体に背負わせてはいけない。
視界に文字が浮かぶ。
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シラユキノハナ
食欲:維持
水分摂取:良好
立ち位置:安定
年齢リスク:高
受胎確認:翌朝予定
環境反応:安定
推奨対応:接触人数固定/検査前夜の刺激抑制/長時間滞在回避
総評:検査前夜として状態は大きく崩れていない。ただし高齢牝馬のため、受胎確認までは楽観不可
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楽観不可。
冷たい文字だった。
だが、今夜はその冷たさが必要だった。
事務所に戻ると、美緒が明日の予定表を置いていた。
玲奈の来場時間。
検査道具の準備。
シラユキノハナの確認項目。
小田切へのミカヅキノユメ経過報告。
桐生へ出す販売見込み資料の控え。
「明日、シラユキノハナだけじゃないんだね」
「牧場だからな」
「分かってる。でも、明日は白い母系のことだけ考えたくなる」
「ああ」
「考えたいけど、帳簿が許してくれない」
「それも牧場だ」
美緒は予定表の端を押さえた。
「残ってたら、嬉しいね」
「ああ」
「でも、嬉しいだけじゃ済まない」
「そうだな」
「……それでも、残っててほしい」
その声は小さかった。
恒一は何も返さなかった。
同じことを思っていたからだ。
翌朝。
まだ冷たい空気の中、玲奈の車が厩舎前に止まった。
玲奈は検査道具のケースを持ち、まっすぐシラユキノハナの馬房へ向かう。
美緒が作業表を抱え直した。
恒一は、馬房の前で一歩だけ下がった。
期待が、馬に触れない距離まで。
玲奈がケースを床に置く。
金具の小さな音が、朝の厩舎に響いた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:45%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
シラユキノハナ:受胎確認前夜/状態安定
ミカヅキノユメ:種付け後管理継続/受胎未確認
タチカゼ:出走見送り継続/次走予定白紙
セリ候補:買い手候補整理中
次の勝負:シラユキノハナの受胎確認




