第63話 走らなかった馬の評価
タチカゼが出るはずだったレースを、恒一は事務所の小さな画面で見た。
大きなテレビではない。
机の上に置いたノートパソコン。
横には、赤線を引いた見学キャンセルのメモ。
その下には、タチカゼの出走見送り理由を書いた作業表。
美緒は椅子に座らず、机の横に立っていた。
座ったら、最後まで見なければならなくなる。
そんな顔をしている。
三雲も来ていた。
手にはコーヒーを持っているが、湯気が薄くなるまで口をつけていなかった。
「……ここにタチカゼがいないの、変な感じ」
美緒が画面を見たまま言った。
「昨日、自分たちで決めたのにな」
恒一が答えると、美緒は見学キャンセルのメモを指で押さえた。
「決めたのは分かってる。でも、空いてる場所を探しちゃう」
三雲が小さく息を吐いた。
「それ、僕も」
出走馬がゲートに入る。
そこにタチカゼはいない。
分かっていた。
自分で止めた。
それでも、画面の中に栗毛の馬体を探してしまう。
ファンファーレが鳴った。
ゲートが開く。
レースは、最初から速かった。
前に行きたい馬が二頭。
それを見ながら、黒峰のクロノセイバーが外目の三番手につける。
前走でタチカゼが先着した馬だ。
今日は無理に前へ行かない。
鞍上が折り合いをつけ、速い流れを見ながら位置を取っている。
「黒峰さんの馬、嫌なくらい良い場所にいるね」
美緒が言った。
三雲は画面から目を離さない。
「うん。あれ、上手い。前が潰れたら拾えるし、遅くなったら自分で動ける」
「タチカゼなら?」
美緒の声が少し細くなる。
三雲はすぐに答えなかった。
恒一も答えなかった。
たぶん、中団。
脚を溜める。
だが、今日の馬場で外を回せば削られる。
内に入れば詰まる。
楽な競馬ではない。
向こう正面で、先行馬の一頭が早めに動いた。
流れが、さらにきつくなる。
馬たちの首の使い方が荒くなる。
画面越しでも、脚を使わされているのが分かった。
クロノセイバーはまだ我慢していた。
だが、三コーナーで外から押し上げる馬が来ると、鞍上の手が動いた。
「もう行くの?」
美緒が机の端を握った。
「行かされてる」
三雲の声が低い。
「自分で行ったんじゃない。周りが動いたから、置かれないために出してる」
クロノセイバーは反応した。
やはり力はある。
外へ持ち出し、前を捕まえに行く。
直線入口で、先頭との差は二馬身。
歓声が画面の向こうで膨らむ。
残り二百。
クロノセイバーは伸びた。
伸びたが、前を完全には捕まえられない。
後ろから一頭、内をすくってくる。
最後は三頭が並んだ。
勝ったのは、内から来た馬だった。
クロノセイバーは二着。
好走だった。
ただ、ゴール板を過ぎたあと、勝った馬でさえ首を下げるのが早かった。
クロノセイバーの鞍上も、すぐに手綱を抑える。
画面が切り替わる一瞬、歩き出しに硬さが見えた。
ほんの少し。
気のせいで済ませられる程度。
でも、恒一は見てしまった。
三雲も、同じところを見ていた。
「出してたら、評価は上がったと思う」
三雲の声は低かった。
「タチカゼも、あの流れなら目立てた」
美緒が、ゆっくり振り向いた。
「じゃあ、出した方がよかったの?」
三雲はコーヒーを机に置いた。
冷めた紙カップが、小さく鳴る。
「分からない。出していたら、たぶん見られた。褒められたかもしれない。でも、あれは脚を使うレースじゃなくて、脚を削るレースだった」
「脚を使うのと、削るのって違うんだ」
「違う。今日のは、次の日に残るやつ」
美緒は黙った。
画面では、勝ち馬の映像が流れている。
派手な実況。
笑う陣営。
その後ろで、クロノセイバーがゆっくり引き上げていく。
黒峰の馬は負けたわけではない。
二着だ。
評価は上がった。
だが、無傷ではない。
恒一のスマホが震えた。
片桐からだった。
『見た?』
「見ました」
『きついレースだったわね』
「はい」
『出していたら、タチカゼも評価は上がったと思う』
片桐は慰めなかった。
『でも、脚も削った』
「……そう見えました」
『出さない判断って、こういう時が一番つらいのよ。勝った負けたの数字が残らないから』
「はい」
『正しかったと思うわ。ただし、失ったものもある。そこをごまかさないこと』
恒一は、赤線のメモを見た。
「見学キャンセルは、残しています」
『ならいい。嫌な紙ほど、捨てない方がいいわ』
電話を切ると、美緒が赤線のメモを取った。
捨てるのかと思った。
違った。
タチカゼの作業表の裏に、クリップで留める。
「これ、見るたびに嫌だと思う」
「ああ」
「でも、タチカゼが残ったことも、一緒に見る」
「そうだな」
三雲が小さく頷いた。
「次走予定、白紙にした方がいい」
恒一は画面から目を離した。
「完全にか」
「完全に。今日のレースを見たあとで次を決めると、出さなかった穴を埋めに行く感じになる」
「焦って正しさを証明しに行くな、か」
「うん。それ、一番危ない」
美緒が作業表を開く。
少し迷ってから、ペンを走らせた。
次走予定:白紙。左前経過観察後、再検討。
その文字は、弱く見えた。
でも、弱い文字ではなかった。
守るための空白だった。
夕方、黒峰から短いメッセージが入った。
今日の流れなら、タチカゼも評価を上げられたでしょうね。
美緒が画面を見て、眉を寄せる。
「この人、本当に嫌なところから刺してくる」
「続きがある」
もう一文、届いた。
ただし、こちらも脚は使いました。
恒一はしばらく画面を見た。
黒峰は、勝ち誇っていなかった。
クロノセイバーは二着。
評価は上がった。
だが、脚も使った。
向こうも、無傷ではない。
「返すの?」
美緒が聞いた。
「返す」
恒一は短く打った。
見ていました。こちらはタチカゼの次走予定を白紙に戻します。
送信すると、黒峰からすぐ返った。
それができるなら、逃げではありません。次で見せてください。
美緒が口を曲げる。
「腹立つ」
「ああ」
「でも、ちょっとだけ認めてる」
「だから余計に腹立つな」
恒一はタチカゼの馬房へ向かった。
タチカゼは、いつもより静かだった。
レースを知っているわけではない。
自分が走らなかったことを、人間のように理解しているわけでもない。
だが、調教後の張りがまだ少し残っている。
左前の踏み替えは、朝より悪くはない。
良くなったとも言わない。
「今日は、別の馬が走った」
タチカゼが耳を向ける。
「お前が走っていたら、たぶん見られた。褒められたかもしれない」
鼻が、恒一の袖に触れた。
「でも、今日は残した」
恒一はタチカゼの首に手を置いた。
「それが正しかったかは、次で見せるしかない」
馬は何も答えない。
ただ、ゆっくり息を吐いた。
視界に文字が浮かぶ。
---
タチカゼ
出走判断:見送り継続
左前反応:微硬化継続
本日レース評価:消耗戦
仮想出走評価:短期評価上昇見込み/脚元負荷大
次走予定:白紙
推奨対応:軽め調整/左前経過観察/再始動時期未定
総評:出していれば評価機会はあったが、反動悪化の危険も高かった。走らなかった判断を、今後の管理記録と次走で示す必要あり
---
走らなかった判断を、次で示す必要あり。
それが今日の答えだった。
正しかった。
そう言いたい。
だが、見学は一件消えた。
タチカゼの評価機会も一つ消えた。
それでも、馬房にはタチカゼがいる。
それだけで十分だと言い切るには、まだ金が足りない。
事務所に戻ると、美緒が帳簿を閉じずに待っていた。
「シラユキノハナの検査日、玲奈さんから連絡あった」
恒一は顔を上げた。
「いつだ」
「明後日の朝」
美緒は、見学キャンセルのメモの横に、新しい紙を置いた。
シラユキノハナ 受胎確認予定。
「待ってるだけでもしんどいのに、次の紙まで来るんだね」
「ああ」
「この牧場、紙だけは減らない」
美緒はそう言って、少しだけ笑った。
笑ったあと、すぐに目を伏せる。
「白い母系、残ってるといいね」
「まだ分からない」
「うん。分かってる。……分かってるけど、今日はそれくらい言わせて」
恒一は何も返さなかった。
机の上には、見学キャンセルのメモ。
タチカゼの次走白紙の作業表。
そして、シラユキノハナの検査予定。
走らなかった馬の判断が終わらないうちに、次の母系の答えが来る。
タチカゼは残った。
だが、次はシラユキノハナだ。
白い母系が、本当に残るのか。
その答えが、明後日に来る。
---
榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:45%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
タチカゼ:出走見送り継続/次走予定白紙
タチカゼ見学予定:一件キャンセル継続
ミカヅキノユメ:種付け後管理継続/受胎未確認
シラユキノハナ:受胎確認日決定
次の勝負:シラユキノハナの検査前夜を崩さず越える




