第62話 逃げたと言われても
春日は、電話の向こうでしばらく黙っていた。
その沈黙の間、タチカゼは馬房で乾草を噛んでいた。
左前を休めてはいない。
痛そうにも見えない。
だからこそ、きつい。
『榊原さん』
春日の声は硬かった。
『出走を見送る、という判断ですね』
「はい」
言った瞬間、喉の奥が重くなった。
「今回は、出しません」
美緒の手の中で、見学予定のメモが小さく鳴った。
春日はすぐには返さない。
『水沢は乗れると言っています』
「聞きました」
『私も、使えない状態とは見ていません』
「分かっています」
『なら、止める理由をもう一度聞かせてください』
責めている声ではなかった。
だが、軽くもなかった。
恒一はタチカゼの左前を見た。
何もないと言えば、何もない。
でも、戻りがわずかに遅い。
見てしまった。
それだけだ。
「前走の反動が抜け切っていないように見えます。今日使えば、走れるかもしれません。でも、その後の選択肢を狭めるかもしれない」
『……』
「タチカゼは、一回で使い切る馬ではありません」
春日の息が、電話越しに少し揺れた。
『その言い方は、ずるいですね』
「すみません」
『責めているわけではありません。私も、同じことを考えています』
その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、春日の声はまだ硬い。
『ただ、現場としては悔しい。時計は出ていました。水沢も、今日は乗れると言っていました』
「はい」
『だからこそ、納得はしますが、気持ちよくはありません』
「分かっています」
『出走投票はしません。こちらからも水沢に伝えます』
「ありがとうございます」
『礼を言う話ではありません。これは、馬を残すための判断です』
電話が切れた。
事務所の空気が、急に静かになった。
美緒は見学予定のメモを机に置いた。
紙の端には、すでに折り目がついている。
「返事、しないと」
「ああ」
「出走を見送るので、見学日は再調整できますか、でいい?」
「いや」
恒一は首を振った。
「左前にわずかな硬さがあり、出走を見送ります。見学は延期のご相談をさせてください。そう書いてくれ」
「硬さって、書くの?」
「書く」
「嫌がられない?」
「隠して後で伝わる方が悪い」
美緒は唇を噛んだ。
「……分かった」
短い文を打って、送信する。
返事は、思ったより早く来た。
美緒の顔が固まる。
「兄さん」
「どうした」
「延期じゃない」
画面をこちらへ向ける。
そこには、丁寧な言葉が並んでいた。
今回は見学を見合わせます。
また機会がありましたら。
断りの文面だった。
乱暴ではない。
怒ってもいない。
だが、線は引かれていた。
美緒は電話メモの横に赤い線を引いた。
見学キャンセル。
たった七文字。
それだけで、事務所の空気が少し冷えた。
「減ったね」
美緒が言った。
「電話じゃなくて、未来が一件」
「そうだな」
「正しい判断でも、減るんだ」
「ああ」
そこへ、水沢から電話が入った。
春日から聞いたのだろう。
『榊原さん』
「はい」
『見送り、聞きました』
「すみません」
『謝られると、余計にきついです』
電話の向こうで、鞍を置くような硬い音がした。
声に棘はなかった。
ただ、悔しさは隠れていなかった。
『今日なら、乗れました』
「分かっています」
『勝てると言うつもりはありません。でも、試せる状態ではありました』
「はい」
『前走の借りも、俺にはあります』
「水沢さんの借りではありません」
『そう言ってもらっても、残ります』
水沢の声が一段低くなった。
『でも、先生にも言われました。タチカゼを一回で使い切る馬にするな、と』
「……」
『だから、今回は飲み込みます。ただ、次に乗る時は、今日止めた意味が残るように乗ります』
「お願いします」
『タチカゼ、見ておいてください』
「もちろんです」
『あいつ、走るつもりの顔をしていたので』
電話が切れた。
恒一はしばらくスマホを握ったままだった。
走るつもりの顔。
それを止めた。
馬のために止めた。
だが、馬が納得しているわけではない。
午後、三雲から連絡が入った。
『噂、早いよ』
「もうか」
『もう。タチカゼ見送りって、関係者の間で回ってる』
「弱気に見えるか」
『見える人には見える』
「三雲は?」
『僕は理由を知ってるから、違う見方をする。でも外はそんなに丁寧に見ない』
美緒が横で聞いていた。
帳簿の上に、見学キャンセルのメモが置かれている。
『黒峰さんからも、たぶん来るよ』
「来なくていい」
『来る人だよ、あの人は』
三雲の予想通りだった。
夕方、黒峰から電話が来た。
恒一は一度だけ画面を見てから、通話を押した。
「榊原です」
『タチカゼ、見送りだそうですね』
「はい」
『左前ですか』
「わずかな硬さです」
『出られないほどではない』
「はい」
美緒が息を止める。
黒峰の声は静かだった。
『勝負から下りたようにも見えます』
言い方は丁寧だった。
だが、鋭かった。
恒一はタチカゼの馬房の方を見た。
乾草を噛む音が、遠くに聞こえる。
「馬を残すために下りました」
電話の向こうが、少しだけ沈黙した。
『言い切りますね』
「逃げたと言われても、今回は出しません」
『その判断で、見学は減るでしょう』
「もう一件、消えました」
『でしょうね』
「分かっていて、止めました」
黒峰は笑わなかった。
『榊原さん』
「はい」
『走らせない判断は、走らせる判断より説明が難しい』
「分かっています」
『結果で証明できませんから』
「はい」
『記録を残すことですね。残していないなら、逃げと同じに見られます』
「残します」
『左前を見た人間、追い切り時計、歩様、見送った理由、次にどう戻すか。そこまで残さなければ、外からはただの弱気です』
「……」
『セリでも同じです。売らない、出さない、見せない。そういう判断は、言葉だけでは信用されません』
「肝に銘じます」
『では、次は市場で』
電話は切れた。
嫌な電話だった。
だが、雑な嫌味ではなかった。
美緒が小さく息を吐く。
「腹立つ」
「ああ」
「でも、最後のは正しい」
「それが一番腹立つな」
恒一は作業表を引き寄せた。
タチカゼの欄を新しく作る。
追い切り時計:良好。
左前:戻りに微硬化。
出走可。反動リスク中。
判断:出走見送り。
理由:前走反動残りの可能性。次走以降の選択肢を守るため。
美緒が横から見ていた。
「これ、誰に見せるの?」
「まず、うちに残す」
「外には?」
「必要な人だけ」
「見学キャンセルした人には?」
「今すぐは送らない。言い訳に見える」
美緒は赤線を引いたメモを見た。
「このメモ、捨てていい?」
「いや」
「残すの?」
「残す」
「見るたびに嫌な気持ちになるよ」
「だから残す」
美緒は黙った。
それから、メモを作業表の後ろに挟んだ。
夜、恒一はタチカゼの馬房へ行った。
タチカゼは乾草を食べ終え、水桶に鼻を寄せていた。
左前を極端に気にする様子はない。
だが、踏み替えた時の一瞬は、やはりある。
「今日は、出さなかった」
タチカゼは耳を動かした。
「走れる顔をしてたのは、分かってる」
言ってから、恒一は小さく息を吐いた。
「でも、お前を今日のためだけに使うつもりはない」
馬は何も答えない。
その沈黙が、少し痛かった。
視界に文字が浮かぶ。
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タチカゼ
追い切り評価:B+
出走可否:可
左前反応:微硬化
反動リスク:中
出走判断:見送り
外部反応:見学キャンセル一件
推奨対応:軽め調整/左前経過観察/次走予定白紙化も含め再検討
総評:出走可能な状態での見送り。短期評価機会は失うが、反動悪化を避ける管理判断
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短期評価機会は失う。
その文字は、分かっていても冷たい。
事務所へ戻ると、美緒が請求書を並べていた。
飼料代。
獣医代。
輸送費。
種付け関連費用。
その横に、赤線を引いた見学キャンセルのメモ。
「今日、何が残ったんだろうね」
美緒が言った。
「タチカゼ」
恒一は答えた。
美緒は、少しだけ目を伏せた。
「うん」
「それだけじゃ、請求書は消えない」
「分かってる」
「でも、タチカゼがいなくなったら、もっと消えない」
「……うん」
外では、夜の厩舎が静かに息をしていた。
正しい判断をした。
そう思いたい。
だが、事務所には、線を引かれたメモと、減らない請求書が残っている。
逃げたと言われてもいい。
そう言い切るには、まだ少し痛かった。
翌日のレースで、この判断の意味が問われる。
タチカゼが走らなかった場所で、別の馬たちが走る。
その結果を、恒一は見なければならない。
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榊原恒一
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:45%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
タチカゼ:出走見送り/左前微硬化/反動リスク中
タチカゼ見学予定:一件キャンセル
ミカヅキノユメ:種付け後管理継続/受胎未確認
セリ候補:買い手候補整理中
次の勝負:走らなかった判断の意味を翌日のレースで問われる




