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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第61話 出せる馬を、出さない朝

 タチカゼの追い切り時計は、悪くなかった。


 むしろ、数字だけなら出せる。


 坂路の最後まで脚は鈍らず、息の入りも許容範囲。

 水沢が無理に押したわけでもない。


 それでも、恒一は画面の数字から目を離せなかった。


 速い。

 悪くない。

 出せる。


 だから、怖い。


 調教場の端で、水沢がタチカゼの左前を見ていた。


 手綱を緩めても、すぐには歩き出さない。

 蹄を置くたびに、ほんの少しだけ戻りが遅い。


 見逃そうと思えば、見逃せる。


 だが、水沢は見逃さなかった。


「時計は出ました」


 水沢はヘルメットを外しながら言った。


 汗で額の髪が張りついている。


「乗っていて、走れない感じはありません」


 その言い方で、恒一は胸の奥が重くなった。


「走れない感じはない、か」


「はい。今日だけなら乗れます」


 水沢はそこで、タチカゼの左前へ視線を落とした。


「でも、戻りが少し硬いです。気のせいで済ませられるくらいですけど、気のせいにしたくないくらいには」


 春日が腕を組んだまま、黙っていた。


 調教師としての顔だった。


「使えない状態ではありません」


 春日は短く言う。


「獣医に見せても、出走不可とは言われないでしょう」


「なら、使えますか」


 美緒が聞いた。


 問い方が少し強かった。

 帳簿を見ている時の声に近い。


 春日はすぐには答えなかった。


「使えます。けど、使ったあとに何が残るかは別です」


 横にいた坂口が、タチカゼの肩から脚元へ目を走らせた。


「前走、上で残った。あれで評価は上がりました。でも、見えない疲れは残ります」


「見えない疲れ」


「時計に出ない疲れです。歩様にも、はっきりは出ない。でも、次に強く使った時に出る」


 美緒が持っていたメモを握った。


 その紙には、タチカゼ目当ての見学予定が一件入っている。


 次走に出るなら、レース後に見たい。

 できれば、タチカゼと同じ母系の説明も聞きたい。


 そんな内容だった。


「出たら、見学は生きる」


 美緒は小さく言った。


「回避したら?」


 三雲が隣で口を挟む。


「延期になるかもしれないし、消えるかもしれない」


「消える、か」


「うん。向こうは勢いを見に来るつもりだから」


 タチカゼは、少し離れた場所で首を下げていた。


 追い切り後の息は戻り始めている。

 水を欲しがる仕草もある。


 馬自身は、今日走ると言われても文句は言わないだろう。


 だからこそ、人間が決めなければならない。


 恒一の視界に文字が浮かぶ。



---


タチカゼ

追い切り評価:B+

心肺戻り:B

走行意欲:B+

左前反応:微硬化

出走可否:可

反動リスク:中

推奨判断:慎重

総評:出走は可能。ただし前走後の疲労が完全には抜けていない。使えば評価機会は得られるが、反動で次の選択肢を狭める可能性あり



---


 出走可。


 その文字が、一番重い。


 出られないなら、諦められる。

 出せないなら、説明できる。


 だが、出せる。


 出せる馬を、出さないかもしれない。


 美緒が作業表ではなく、見学メモを見ていた。


「兄さん」


「なんだ」


「この人、たぶんタチカゼが走ると思ってる」


「ああ」


「回避したら、うちが弱気になったと思うかな」


「思うかもしれない」


「黒峰さんも?」


「言うだろうな」


「嫌だね」


「嫌だな」


 水沢がタチカゼの汗を拭きながら、低く言った。


「俺は、今日なら乗れます」


 恒一は水沢を見た。


「乗りたいか」


「乗りたいです」


 即答だった。


 だが、その目は軽くなかった。


「前走で、俺は少し遅れました。脚を使わせる場所を、もう一つ早く作れたかもしれない」


「水沢さんのせいじゃありません」


 美緒が口を挟むと、水沢は首を振った。


「そう言ってもらうために言ってるんじゃないです。乗り役として、もう一回試したい。それだけです」


 春日が横から言った。


「水沢の気持ちは分かります。私も、使いたい気持ちはあります」


「先生もですか」


「当然です。状態が最悪なら止めます。でも、今日は最悪ではない」


 春日はタチカゼを見た。


「出せば、注目は来ます。好走すれば、榊原ファームの信用はさらに上がる」


「回避すれば?」


「弱気に見られるかもしれません」


 春日はそこで、少し声を落とした。


「ただ、無理に使って反動が出れば、もっと悪い。あの馬はまだ、上で何度も走って評価を作る馬です。一回で使い切る馬ではありません」


 坂口が頷いた。


「今日の時計を見て“いける”と言う人はいます。でも、左前の戻りを見て止める人もいます」


「どっちが正しいですか」


 美緒の声が揺れた。


 坂口は苦く笑った。


「結果が出るまで、誰にも分かりません」


 その答えは、逃げではなかった。


 馬の仕事は、そういうものだ。


 恒一はタチカゼの前に立った。


 タチカゼは鼻を寄せてきた。

 いつものように、強く主張するわけではない。


 ただ、こちらの手を探す。


「お前は、行ける顔をしてるな」


 タチカゼは耳を動かした。


「でも、行ける顔をしてる馬を止めるのが、一番きつい」


 美緒が背後で息を呑む。


 恒一はタチカゼの首筋に触れた。

 汗の熱が、まだ残っている。


 見学予定。

 問い合わせ。

 黒峰の視線。

 前走の三着。

 クロノセイバーへの先着。


 全部が、背中を押してくる。


 出せ。

 今なら見られる。

 ここで逃げるな。


 だが、左前の戻りが、ほんの少しだけ遅い。


 それだけが、前から手綱を引いている。


 昼前、事務所に戻った。


 美緒が見学メモを机に置いた。


 紙の角が、少し折れている。


「出走投票の締切、今日の夕方だよ」


「ああ」


「見学予定の返事も、今日中にしないといけない」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「嫌だから、分かりたくない顔だ」


 美緒は黙って、見学メモを押さえた。


「出せば、電話は減らないと思う」


「ああ」


「回避したら、減るかもしれない」


「そうだな」


「でも、タチカゼが壊れたら、電話どころじゃない」


 その言葉は、静かだった。


 帳簿だけを見ていた妹の声ではなかった。


 三雲が壁にもたれたまま言う。


「榊原さん、外から見たら難しいよ」


「何が」


「“出走可”の馬を止めるのは、説明が難しい」


「逃げたと言われるか」


「言われる。特に黒峰さんにはね」


「だろうな」


「でも、出して反動が出たら、それは説明じゃ取り戻せない」


 恒一は机の上の電話を見た。


 春日へかければ、判断が動く。

 出すか。

 止めるか。


 その前に、もう一度だけタチカゼを見に行った。


 馬房の前で、タチカゼは乾草を噛んでいた。


 左前を休める仕草はない。

 だが、踏み替えた時に、ほんのわずか間がある。


 見ようとしなければ、見えない。


 見えてしまったら、無視できない。


 恒一はスマホを取り出した。


 春日の番号を開く。


 指が止まる。


 美緒が横に来た。


 何も聞かない。


 ただ、見学予定のメモを半分に折った。


 破らなかった。

 捨てもしなかった。


 けれど、すぐ返事できるように手元へ置いた。


「兄さん」


「なんだ」


「電話、するなら今だよ」


「ああ」


「出すためでも、止めるためでも」


「……」


「どっちにしても、こっちが決めたって言えるようにして」


 恒一は頷いた。


 春日に電話をかける。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。

 二回。


 タチカゼが、乾草を噛む音がする。


 春日が出た。


『榊原さん』


 恒一は、タチカゼの左前を見たまま口を開いた。


「先生。タチカゼの出走投票の件で、相談があります」


 その言葉を出した瞬間、見学メモの紙が、美緒の手の中で小さく鳴った。



---


榊原恒一の現状


牧場経営力:A-


配合読解:B


繁殖観察:A


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:B+


交渉・信頼:A


牧場再建度:45%



榊原ファーム経営状況


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:上昇中


牧場ブランド:B


倒産危険度:高



補助表示


タチカゼ:出走可/左前に微硬化/反動リスク中


タチカゼ見学予定:出走前提で一件あり


ミカヅキノユメ:種付け後管理継続/受胎未確認


セリ候補:買い手候補整理中


次の勝負:タチカゼを出すか、出さないかの最終判断

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