第60話 値段の前に、相手を見る
翌朝、ミカヅキノユメは馬房の真ん中に立っていた。
乾草は、少し減っている。
完食ではない。
けれど、昨日の夜より確かに減っている。
水桶も悪くない。
恒一は作業表に書いた。
種付け二日後。乾草少量継続。水分摂取あり。立ち位置中央。
美緒が横から覗き込む。
「良くなった、って書かないんだ」
「書かない」
「書きたい?」
「かなり」
「じゃあ、我慢だね」
美緒はそう言って、自分のペンで横に小さく追記した。
安心しすぎない。
恒一は少し笑った。
「それ、記録か?」
「私用の注意書き」
厩舎の外で車の音がした。
三雲だった。
手には薄い封筒が二つ。
それを見た瞬間、美緒の顔から少し眠気が消えた。
「買い手候補?」
「うん。嬉しくない紙と、少し嬉しい紙」
「最初から嫌な分け方ですね」
三雲は事務所の机に封筒を置いた。
「まず、アオバノミチ」
紙には、二件の候補が書かれていた。
一件目は、地方で堅実に使いたい馬主。
高値ではない。
ただ、無理な仕上げはしない。使い出しも急がない。
二件目は、転売前提に近い業者。
提示額は少し高い。
ただし、買った後の行き先が見えにくい。
美緒の指が、二件目の金額で止まった。
「こっちの方が高い」
「そう」
三雲はあっさり頷いた。
「でも、榊原さんは嫌な顔をしてる」
「してるか」
「してる。眉間が桐生さんの請求書を見た時と同じ」
美緒が吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
厩舎の方を見る。
ミカヅキノユメは反応していない。
美緒は小声で言った。
「笑うのも小さく」
「だいぶ牧場に染まったね」
三雲が笑う。
恒一は二件目の紙を見た。
金額だけなら、こっちだ。
桐生へ見せる資料としても、数字は強い。
飼料代の猶予分にも、少しは説明がつく。
だが、アオバノミチの行き先として考えると、胸の奥が硬くなる。
「転売が悪いとは言わない」
恒一は言った。
「でも、この馬は派手に見せて回す馬じゃない。堅く使う相手の方が合う」
三雲は頷いた。
「僕もそう思う」
美緒が帳簿を見た。
「でも、金額差はある」
「ああ」
「この差、嫌だね」
「嫌だな」
「安い方を選ぶって、奇麗な話じゃないよ。支払いは高い方の金額を見てくれない」
「分かってる」
美緒は黙った。
責めているわけではない。
ただ、帳簿を見ている。
その沈黙が、一番重い。
三雲が次の紙を出した。
「ハルノトーチは、もっと面倒」
候補は一件だけだった。
育成に時間をかけられる相手。
見映えは評価している。
ただし、気性の幼さを理由に、価格は抑えたい。
美緒が紙を見て、眉を寄せる。
「見映えは欲しい。でも幼いから安くしたい」
「そういうこと」
「ずるい」
「でも、普通」
三雲の返しは軽かったが、目は笑っていなかった。
「ハルノトーチは、説明を間違えると買い叩かれる。見映えだけを押すと、実馬を見た時に落とされる。幼さだけを言うと、最初から安くなる」
「じゃあ、どう書く」
恒一が聞くと、三雲は紙の余白を指で叩いた。
「幼さを欠点としてだけ書かない。時間をかける理由として書く」
美緒がペンを持った。
「成長待ちを許容できる相手向き、だけじゃ足りない?」
「足りない。もう一段、買った後の絵がいる」
「絵?」
「この馬をどう育てると困らないか」
恒一は、ハルノトーチの馬房を思い出した。
通路の音に首を上げる。
見映えはある。
人目も引く。
ただ、まだ心が先に走る。
「急がせない。環境を変えすぎない。最初から完成度を求めない」
「それを売り文句にするの?」
美緒が言った。
「弱いところなのに」
「弱いところを隠すよりはいい」
「でも、それだけだと安くなる」
「だから、見映えとセットにする」
恒一は紙に書いた。
見映えはある。ただし、完成を急がせる馬ではない。時間をかけて、心と体を揃える相手向き。
三雲がそれを見て、少しだけ頷いた。
「悪くない。きれいすぎないのがいい」
「褒めてるのか」
「褒めてる。榊原さんの説明、きれいすぎると逆に嘘っぽくなるから」
美緒が小さく笑った。
「兄さん、馬のことになると重いから」
「悪かったな」
「悪くはない。でも、買う人には少し重い」
三雲が封筒をまとめた。
「桐生さんに出すなら、こうだね。アオバノミチは候補二件。ただし推奨は堅実馬主。ハルノトーチは候補一件、価格交渉中。見映えと幼さを両方開示」
「数字は弱い」
「でも、嘘はない」
「桐生さんは請求書を見る」
「だから、販売見込みも見る」
三雲の声が少し硬くなった。
「ただし、これで猶予が伸びるとは限らないよ」
美緒の手が止まった。
「伸びないかも?」
「当然。桐生さんは善意だけで商売してない」
「分かってるけど、言われると腹立つ」
「腹立てていい。でも、資料は出す」
昼前、桐生へ送る資料を整えた。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
候補、想定価格、説明方針。
そして、ミカヅキノユメの管理記録は添付しない。
美緒が気づいて、顔を上げる。
「ミカヅキノユメの種付け、書かないの?」
「今回は書かない」
「進んだのに?」
「進んだ。でも、受胎していない」
三雲も頷いた。
「今出すと、良い話を盛ってるように見える。桐生さんに出すのは、売る馬の資料。ミカヅキノユメは管理記録として別に残す」
美緒は少し悔しそうに作業表を見た。
「進んだこと全部、使えるわけじゃないんだ」
「ああ」
「もったいない」
「馬のために残す記録と、金のために出す資料は違う」
美緒はその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「それ、今日のやつだね」
帳簿の端に書く。
記録と資料は違う。
夕方、ミカヅキノユメは乾草を少し食べた。
アオバノミチは、いつも通り黙々と飼葉を食べている。
ハルノトーチは、外の物音に一度だけ首を上げたが、すぐ戻った。
売る馬。
売らない馬。
受胎を待つ馬。
それぞれ、違う時間を生きている。
恒一は事務所へ戻り、桐生宛の資料を封筒に入れた。
美緒が見ている。
「これを出しても、支払いは消えない」
「ああ」
「でも、何も出さないよりはいい」
「そうだな」
「高い方に売らないって、怒られるかな」
「怒られるかもしれない」
「桐生さんに?」
「桐生さんにも、帳簿にも」
美緒は嫌そうに笑った。
「帳簿が一番怖い」
夜、恒一は最後にミカヅキノユメの馬房へ行った。
馬は奥にいなかった。
真ん中で、乾草を噛んでいる。
種付けは終わった。
受胎はまだ分からない。
アオバノミチとハルノトーチは動き始めた。
売却はまだ決まっていない。
紙は増えた。
金はまだ増えていない。
視界に文字が浮かぶ。
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榊原ファーム販売整理
アオバノミチ:買い手候補二件/堅実馬主筋を優先検討
ハルノトーチ:買い手候補一件/価格交渉余地あり
ミカヅキノユメ:種付け済/受胎未確認/管理記録継続
シラユキノハナの仔:自家保留継続/第一交渉権案調整中
総評:販売候補は動き始めたが、現金化は未達。信用を削らない売り方を選ぶため、短期回収は限定的
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短期回収は限定的。
嫌な文字だ。
だが、その嫌な文字を避けたら、また馬を困らせる。
恒一は封筒を机に置いた。
明日、桐生へ出す。
その紙で、支払いが軽くなる保証はない。
それでも、牧場がどう売るのかは示せる。
値段の前に、相手を見る。
今日の答えは、それだった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:45%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
セリ候補:アオバノミチ 買い手候補二件
セリ候補:ハルノトーチ 買い手候補一件
受託繁殖:ミカヅキノユメ 種付け後管理継続/受胎未確認
佐伯関与:シラユキノハナの仔 第一交渉権案調整継続
次の勝負:桐生への販売見込み資料提出/価格と買い手の選別




