第59話 種付けの翌朝
夜の間、恒一は三度起きた。
日付が変わる前。
午前三時。
空が白み始める少し前。
そのたびに厩舎へ行き、ミカヅキノユメの馬房の前で足を止めた。
乾草。
水桶。
立ち位置。
触らない。
声をかけすぎない。
安心したくて近づくことを、しない。
種付けは終わった。
だが、終わったのは種付けだけだ。
受胎したわけではない。
輸送の疲れが、これから出るかもしれない。
種付け場の音や匂いを思い出して、また食いが落ちるかもしれない。
午前三時のミカヅキノユメは、馬房の真ん中より少し奥に立っていた。
昨日の帰厩直後よりは下がっている。
だが、壁に張りついているわけではない。
水桶は減っている。
乾草も、少しだけ動いていた。
恒一は作業表に書いた。
午前三時。立ち位置やや奥。後退固定なし。水分摂取あり。乾草少量。
文字にしても、安心にはならない。
だが、書かなければ怖さだけが残る。
朝になって、美緒が事務所に来た。
目の下が赤い。
髪も少し跳ねている。
「寝た?」
「少し」
美緒は恒一の顔を見て、ため息をついた。
「それ、寝てない人の少し」
机の上には、作業表と帳簿が並んでいた。
美緒は先に作業表を取った。
ページをめくる指が、少し硬い。
「乾草、少量か」
「ああ」
「食べてないわけじゃない。でも、戻ったとも言わない」
「言わない」
美緒はペンを持ち直した。
「じゃあ、今日の言い方は?」
「種付け後としては、大きく崩れていない」
「便利だけど、全然安心できない言い方」
「安心させるための言葉じゃない」
「分かってる。……分かってるけど、腹立つ」
美緒はそう言って、作業表の端を親指で押さえた。
玲奈が入ってきた。
髪を一つに束ね、記録板を机に置く。
「夜間の記録、見ます」
玲奈は座らずに、立ったまま目を通した。
「水は飲んでいる。乾草は少量。立ち位置はやや奥。便は?」
「今のところ悪くない」
「発汗は?」
「目立つものはない。呼吸は、夜中に少し速い時間があった」
「今は?」
「落ち着いてる」
玲奈は頷いた。
「悪くはない」
美緒がすぐに顔を上げた。
「良い、ではなく?」
「良いと言うと、人が緩む」
「またそれ」
「でも本当。今日一日は、成功の余韻を出さない方がいい」
玲奈は厩舎の方へ目を向けた。
「人を増やさない。確認を増やさない。戻ってきた馬に“よく頑張ったね”をやりすぎない」
美緒が眉を寄せる。
「褒めるのも駄目ですか」
「駄目じゃない。でも、人間が安心したくてやるなら駄目」
恒一は何も言わなかった。
耳が痛かった。
馬房の前に立つと、ミカヅキノユメがこちらを見た。
耳が動く。
首は高い。
ただ、目は荒れていない。
玲奈は馬房に入らなかった。
馬房の外から、少し距離を取って見る。
「体温は、まだ測りません」
美緒が先に作業表へ書きかけて、手を止めた。
「理由も書くんですよね」
「書いて」
玲奈は短く言った。
「接触刺激を避けるため。食い、水、汗、呼吸、便に異常が重なった場合のみ測定」
美緒は一文字ずつ書いた。
体温測定見送り。理由:接触刺激を避け、自然行動を優先確認。
書き終えると、少しだけ息を吐く。
「何もしないのに、紙だけ増える」
「何もしないための紙だ」
恒一が言うと、美緒は嫌そうに笑った。
「兄さんのそういう言い方、嫌いじゃないけど、腹立つ」
午前八時、小田切へ電話を入れた。
呼び出し音は一度だけだった。
『どうですか』
待っていた声だった。
「大きく崩れてはいません」
『……食べていますか』
「少量です。完食ではありません」
『水は』
「飲んでいます」
『奥に戻っていますか』
「やや奥です。ただ、張りついてはいません」
電話の向こうが静かになった。
小田切が、たぶん言葉を選んでいる。
『それは、喜んでいい話ではないんですね』
「まだです」
『ですよね』
苦笑に近い息が聞こえた。
「種付け後としては、今のところ大きな崩れはありません。ただ、今日一日は余計な刺激を入れません」
『分かりました』
「受胎確認までは、結果とは言えません」
『はい』
「でも、昨日は進みました」
その言葉だけは、言えた。
小田切は少し黙ったあと、静かに言った。
『あの馬を無理に運んで壊したのではなく、戻して、朝を迎えた。今は、それで十分です』
「ありがとうございます」
『礼を言うのはこちらです。……怖いまま、待ちます』
電話を切ると、美緒が机に額をつけそうな姿勢になった。
「待つの、しんどい」
「しんどいな」
「種付けしたら終わりじゃないんだね」
「ああ」
「牧場って、ずっと待ってるね」
「待ちながら、やることはある」
その時、三雲から電話が入った。
『ミカヅキノユメ、どう?』
「大きく崩れてはいない」
『なら、悪くないね』
「よかったとは言わないぞ」
『言わせない空気なのは分かってるよ』
三雲の声が少しだけ軽くなる。
『こっちは、アオバノミチとハルノトーチの問い合わせが動いてる』
美緒が顔を上げた。
帳簿の端を、反射的に引き寄せる。
「誰から?」
恒一が聞く。
『アオバノミチは、地方で堅実に使いたい馬主筋。ハルノトーチは、育成に時間をかけられるところが一件』
「値段は」
『強くない』
美緒が目を細めた。
「売れそうだけど、すごく高くはない、って顔してますね」
電話の向こうで三雲が笑った。
『美緒ちゃん、もう顔が見えるみたいに言うね』
「嬉しくない正解は、だいたい分かるようになりました」
『その通り。信用を削らない売り方を選んだら、最初はこうなる』
恒一は窓の外を見た。
ミカヅキノユメは種付けを終えた。
だが、受胎はまだ分からない。
アオバノミチとハルノトーチには問い合わせが来た。
だが、高値にはまだ遠い。
進んでいる。
だが、現金はまだ薄い。
「買い手候補、紙にしてくれ」
『桐生さんに見せる資料にも使うんでしょ』
「ああ。盛るなよ」
『そっちこそ、地味にしすぎないでよ。欲しくなる理由まで書くって、昨日決めたばかりでしょ』
「分かってる」
電話を切ると、美緒がぽつりと言った。
「種付けの朝に、セリの電話」
「牧場だからな」
「一頭を待ってる間に、別の馬を売る準備」
「ああ」
「ごちゃごちゃしてる」
「それが普通だ」
美緒は帳簿を閉じなかった。
昼、ミカヅキノユメの乾草が少し減った。
大きな変化ではない。
だが、食べた。
美緒は声を出さず、作業表に書いた。
昼。乾草少量摂取。水分摂取あり。人接近時、後退なし。
「声、出さなかったな」
恒一が言うと、美緒は小さく睨んだ。
「出したら、喜びすぎるって言われる」
「俺は言ってない」
「顔が言う」
少しだけ笑いが落ちた。
その笑いに、ミカヅキノユメの耳が動く。
全員が黙った。
ミカヅキノユメは、こちらを見る。
乾草へ戻る。
噛む。
美緒が口の端を押さえた。
「……笑うのも、小さくしないと」
「そうだな」
夕方、佐伯から短い連絡が入った。
第一交渉権案の文面を、後日あらためて詰めたいという内容だった。
恒一は画面を美緒に見せる。
「今日は長く返さない。ミカヅキノユメの管理中だ」
「了解だけ?」
「後日、文面確認します。それでいい」
美緒が打ち込む。
大きな金は入らない。
だが、道は残っている。
夜、ミカヅキノユメの馬房の前に立つ。
乾草は、朝より減っている。
完食ではない。
水桶も減っている。
便も悪くない。
立ち位置は、馬房の真ん中。
昨日、輸送から帰ってきた馬としては、悪くない。
だが、良いと言い切るにはまだ早い。
視界に文字が浮かんだ。
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ミカヅキノユメ
種付け:実施済
受胎:未確認
種付け翌日反応:大崩れなし
飼葉食い:少量回復
水分摂取:維持
立ち位置:馬房中央
輸送後疲労:軽度
環境警戒:中程度
推奨対応:接触人数固定/夜間観察継続/翌朝再評価
総評:種付け翌日としては大きな崩れなし。ただし受胎未確認。安定と判断するには、今夜から翌朝の継続観察が必要
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大きな崩れなし。
それは勝利ではない。
だが、昨日の馬運車、種付け場、帰厩を考えれば、十分すぎる一行だった。
事務所に戻ると、美緒が今日の紙を並べていた。
ミカヅキノユメの作業表。
アオバノミチの買い手候補メモ。
ハルノトーチの問い合わせメモ。
佐伯への返信控え。
種付け費用の支払い予定。
「今日、何が進んだんだろう」
美緒が言った。
「分からなくなったか」
「うん。全部少しずつで、どれも終わってない」
「それでいい」
「いいの?」
「牧場は、一日で全部終わらない」
美緒は紙を一枚ずつ重ねた。
種付け費用の紙だけ、少し強く押さえた。
「じゃあ、今日のまとめは?」
恒一は少し考えた。
「種付けは終わった。受胎はまだ。売る馬は動き始めた。金はまだ」
「最後が嫌」
「一番大事だ」
美緒は帳簿の端に書いた。
終わったことと、決まったことは違う。
「今日のこと」
「ああ」
外で、ミカヅキノユメが小さく鼻を鳴らした。
恒一は顔を上げる。
見に行きたくなる。
だが、行きすぎてもいけない。
ここでも、待つ。
待つことも、仕事だ。
種付けの翌日は、静かに過ぎた。
だが、その静けさの下で、牧場は少しずつ次の勝負へ動いていた。
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榊原恒一
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:45%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
受託繁殖:ミカヅキノユメ 種付け翌日管理中
ミカヅキノユメ:種付け済/受胎未確認/大崩れなし
セリ候補:アオバノミチ・ハルノトーチに問い合わせ発生
佐伯関与:シラユキノハナの仔 第一交渉権案調整継続
次の勝負:受胎確認までの管理継続/セリ候補の買い手候補整理




