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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第58話 馬房の朝で、行くと決める

 朝の厩舎は、まだ薄暗かった。


 通路のコンクリートに夜の冷えが残っている。

 乾草の匂いと、馬の息の湿り気が混じっていた。


 恒一は、ミカヅキノユメの馬房の前で足を止めた。


 まず、乾草。


 減っている。


 昨日の夜に入れた分が、半分以上なくなっていた。


 次に、水桶。


 減っている。

 汚れ方も悪くない。


 最後に、立ち位置。


 ミカヅキノユメは、馬房の奥ではなかった。


 真ん中より少し手前。

 こちらを見ている。

 首は高いが、壁を作ってはいない。


 後ろで、美緒が息を吸った。


「……食べてる」


 声が少し震えていた。


 玲奈はすぐには近づかなかった。

 記録板を持ったまま、馬房の前で止まる。


「水も落ちていない。立ち位置も、昨日の奥には戻っていない」


 美緒は作業表の端を握った。


「……食べてても、馬運車で崩れたら止めるんだよね」


「ああ」


「ここまで来ても?」


「止める」


 美緒は唇を噛んだ。


「嫌な判断」


「そうだな」


 玲奈が静かに言った。


「今朝の状態だけなら、動かせます。でも最後は馬運車への反応です」


 厩舎の外に、馬運車が置かれた。


 エンジンはまだかけない。

 扉だけを開ける。


 金具が鳴った。


 ミカヅキノユメの耳が向く。

 首が上がる。


 一歩も下がらない。


 乾草を見た。

 馬運車を見た。

 もう一度、乾草を噛んだ。


 美緒が、息を殺したまま作業表に書いた。


 馬運車扉音。首上げあり。後退なし。飼葉再開。


 恒一はそれを見て、ようやく言った。


「行く」


 その一言で、美緒のペンが止まった。


 行くと決めた瞬間、帳簿にも線が入る。


 種付け料。

 輸送費。

 検査費。

 戻ってからの管理費。


 止めても金は減る。

 行っても金は減る。


 だが、今日は行く。


 玲奈が頷いた。


「輸送中、無理に触らない。声をかけすぎない。着いてからも急がない」


「分かってる」


「向こうで人が増えたら?」


「俺と玲奈で前に立つ。余計な手は入れない」


 美緒が顔を上げた。


「私は?」


「記録」


「また紙?」


「一番大事だ」


 美緒は少しだけ口を曲げた。


「分かった。紙で守る」


 馬運車へ向かう時、ミカヅキノユメは二度止まった。


 一度目は厩舎の出口。

 二度目は馬運車のスロープ前。


 蹄が、ゴムの手前で止まる。


 首が高くなる。

 鼻が鳴る。


 恒一は引かなかった。

 押しもしなかった。


 ただ、綱を短く持ちすぎないようにして、横に立つ。


「大丈夫」とは言わない。


 大丈夫かどうかは、まだ分からない。


 風が吹いた。

 馬運車の金具が小さく鳴る。


 ミカヅキノユメの耳が動く。


 半歩。

 それから、もう半歩。


 前脚がスロープに乗った。


 美緒が喉を鳴らしたが、声は出さなかった。


 ミカヅキノユメは一度止まり、後ろを見た。


 厩舎。

 馬房。

 乾草の匂い。


 昨日まで少しずつ許した場所。


 そこから離れる。


 恒一は、小さく息を吐いた。


「……行こう」


 それだけ言った。


 ミカヅキノユメは、ゆっくり馬運車に乗った。


 扉が閉まる。

 金具の音。


 美緒が作業表に書く。


 乗車完了。後退なし。発汗軽度。呼吸やや速い。


 輸送は短くはなかった。


 馬運車の中で、ミカヅキノユメは何度か体を動かした。

 大きく暴れることはない。

 だが、静かでもない。


 玲奈は途中で何度も確認した。


 恒一はそのたびに、ミカヅキノユメの耳と首を見た。


 大丈夫ではない。

 でも、崩れてはいない。


 種付け場に着くと、音が増えた。


 別の馬のいななき。

 人の足音。

 金具の音。

 知らない乾草の匂い。


 ミカヅキノユメの首が上がる。


 美緒が作業表を握りしめた。


「兄さん」


「まだ止めない。でも、急がせない」


 サウスエンブレムの担当者が近づいてきた。


 恒一は先に頭を下げる。


「すみません。この馬は環境変化に弱いです。人を増やさず、手順もできるだけ静かにお願いします」


 担当者は一瞬だけ驚いた顔をした。


 だが、玲奈が記録板を見せると、すぐに頷いた。


「分かりました。必要最低限で進めます」


 それだけで、少し空気が変わった。


 種付けそのものは、短い。


 長く見せるものではない。

 派手な勝負でもない。


 だが、その短い時間に、一年が乗っている。


 ミカヅキノユメは落ち着いていたわけではない。

 何度か耳を絞り、首を上げた。


 それでも、最後まで崩れなかった。


 終わった時、恒一は勝ったとは思わなかった。


 ただ、膝の力が少し抜けた。


 美緒が作業表を見たまま言った。


「終わった、って書いていい?」


 玲奈が答える。


「種付けは終わった。でも、まだ何も決まっていない」


「受胎確認まで?」


「そう。ここからがまた長い」


 美緒は少しだけ笑った。


「ずっと、まだ、なんだね」


「馬はだいたいそう」


 帰りの馬運車で、ミカヅキノユメは行きより静かだった。


 疲れもある。

 諦めではない。

 ただ、行きより少しだけ首の高さが低い。


 榊原ファームに戻ると、恒一はすぐに馬房へ入れた。


 余計な確認はしない。


 水を置く。

 乾草を置く。

 人を下げる。


 ミカヅキノユメは馬房の真ん中に立っていた。


 しばらく水桶を見た。


 それから、鼻をつけた。


 水を飲む。


 美緒が、声を出さずに作業表へ書いた。


 帰厩後、水分摂取あり。馬房奥への後退なし。


 恒一は、そこでようやく小田切へ電話を入れた。


『どうでしたか』


 小田切の声は硬かった。


「種付けは終わりました」


 電話の向こうで、息を呑む音がした。


『無事に?』


「大きく崩れずに戻っています。ただし、まだ安心とは言いません」


『はい』


「帰厩後、水は飲みました。乾草はまだ様子見です。今夜の食いと、明日の朝の立ち位置を見ます」


『分かりました』


「受胎確認までは、結果とは言えません」


『それでも』


 小田切の声が少しだけ揺れた。


『今日、進んだんですね』


「はい」


 それだけは、言えた。


 電話を切ったあと、美緒が帳簿を開いた。


「種付け料、輸送費、検査費。全部、消えないね」


「ああ」


「でも、払う意味はできた」


「そうだな」


 玲奈が厩舎の方を見ながら言った。


「今夜が大事です。良かった、で人が増えると崩れます」


「増やさない」


 恒一は即答した。


 視界に文字が浮かぶ。



---


ミカヅキノユメ

発情状態:適期

種付け:実施済

受胎:未確認

輸送反応:警戒あり/大崩れなし

帰厩後反応:水分摂取あり/馬房奥への後退なし

飼葉食い:夜間確認待ち

推奨対応:接触人数固定/夜間観察/翌朝再評価

総評:輸送と種付けを大きく崩れず完了。ただし受胎未確認。今夜から明朝の食いと立ち位置で管理継続可否を判断



---


 種付けは終わった。


 だが、勝ったわけではない。


 受胎しているかは分からない。

 明日の朝、食いが落ちているかもしれない。

 また馬房の奥へ戻るかもしれない。


 それでも、今日、ミカヅキノユメは一つ進んだ。


 夜、恒一は最後にもう一度だけ馬房を見た。


 ミカヅキノユメは乾草の前に立っていた。


 食べてはいない。

 だが、奥にもいない。


 それだけで、今夜は十分だった。


 美緒が後ろで小さく言った。


「一年、消えなかった?」


「まだ分からない」


「うん」


「でも、一年を作るところまでは行った」


 美緒は作業表を胸に抱えた。


「じゃあ、明日の朝も見る」


「ああ」


 種付けは、終わった。


 けれど、結果はまだ見えない。


 見えない未来を、馬房の前で待つ。


 それもまた、牧場の仕事だった。



---


榊原恒一


牧場経営力:A-


配合読解:B


繁殖観察:A


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:B+


交渉・信頼:A


牧場再建度:45%



榊原ファーム


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:上昇中


牧場ブランド:B


倒産危険度:高



補助表示


受託繁殖:ミカヅキノユメ 種付け実施済


ミカヅキノユメ:種付け完了/受胎未確認/帰厩後観察中


配合実施:ミカヅキノユメ→サウスエンブレム


次の勝負:夜間の食いと翌朝の立ち位置確認

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