第57話 一年を失う日程
ミカヅキノユメが腹を見せた翌朝、事務所の机には帳簿ではなく、カレンダーが置かれていた。
赤い丸が三つ。
発情確認。
輸送予定。
サウスエンブレムの種付け枠。
美緒はその赤丸を見たまま、ペンの尻でこつこつ机を叩いていた。
「昨日、少し安心したのに」
声が低い。
「今度は、動かす話なんだね」
恒一は答えず、カレンダーを見た。
良くなった。
その言葉は嬉しい。
けれど、繁殖牝馬にとっては別の意味を持つ。
動かせるかもしれない。
種付けに進めるかもしれない。
そして、動かした瞬間、昨日まで積んだ静けさを壊すかもしれない。
美緒は帳簿も開いた。
種付け料の前払い。
輸送費。
検査費。
向こうで一泊になった時の預かり費。
もし止めるなら、馬運車のキャンセル料。
「行ってもお金がかかる。止めてもお金がかかる」
「そうだな」
「それで、行って崩れたら一番悪い」
「ああ」
「……嫌な選択ばっかり」
厩舎から戻ってきた玲奈が、手袋を外しながら記録板を机に置いた。
「卵胞だけなら、急ぎたいところです」
美緒が顔を上げる。
「じゃあ、行くべきなんですか」
「馬の顔が、それを簡単には許していません」
玲奈は椅子に座らなかった。
立ったまま、カレンダーの赤丸を見る。
「発情は近い。受胎準備としては悪くない。でも、この馬は卵胞だけで決める馬じゃありません」
「輸送で崩れる?」
「輸送。知らない場所。知らない人。種付け場の音。全部です」
美緒は黙って、カレンダーの赤丸を指で押さえた。
「サウスエンブレムの枠は、明後日の午前」
「次は?」
「四日後。ただ、向こうの予定次第で確定じゃない」
恒一はその赤丸を見た。
明後日を逃しても、終わりではない。
だが、次が確実にあるわけでもない。
繁殖は、レースより静かだ。
でも、失うものは軽くない。
「一回外すと」
美緒が呟いた。
「一年、消えるかもしれないんだよね」
その言い方は、大げさではなかった。
発情を逃す。
種付け枠を逃す。
受胎しない。
そうなれば、来春に産まれるはずだった仔は、馬房にも帳簿にも残らない。
存在する前に、消える。
小田切に電話を入れると、すぐにつながった。
『状態はどうですか』
「発情は近いです。繁殖上は、動ける可能性が出ています」
『良かった』
「ただ、輸送負荷があります」
電話の向こうが静かになった。
「明後日の午前にサウスエンブレムの枠があります。逃すと次は四日後。ただし、確定ではありません」
『明後日が一番いいんですね』
「日程だけ見れば、そうです」
『馬を見れば?』
恒一は、机の上の作業表に目を落とした。
昨日の記録。
腹を見せた角度。
乾草の減り。
水桶の減り。
「明日の朝まで見たいです」
『明日まで』
「今日、馬運車への反応を見ます。乗せません。エンジンもかけません。まず、そこにあることを見せます」
『キャンセル料は?』
「発生する可能性があります」
『それは、こちらで持ちます』
「いえ、まずはこちらで――」
『榊原さん』
小田切の声が少し硬くなった。
『この馬を預けたのは、安く済ませるためではありません。無理に動かさないための費用なら、必要な費用です』
金の話なのに、少し救われた気がした。
『でも、行けるなら行きたいです』
「分かっています」
『一年は、長いので』
「はい」
電話を切ると、美緒が小さく息を吐いた。
「小田切さんも怖いんだね」
「ああ」
「逃すのも怖い。無理に動かすのも怖い」
「どっちも怖い」
「じゃあ、どう決めるの?」
恒一は厩舎の方を見た。
「馬を見る」
美緒は何か言いかけて、やめた。
代わりに作業表を引き寄せる。
「食い、水、立ち位置、人への反応。馬運車を見た時の耳」
「全部だ」
玲奈が頷いた。
「今日は馬運車を置くだけ。乗せない。エンジンもかけない」
「扉は?」
「最初は閉めたまま。夕方、状態が崩れていなければ扉だけ開けます」
美緒は書いた。
馬運車接近確認。乗車なし。エンジンなし。反応確認のみ。
「これも、何もしない管理?」
美緒が聞くと、玲奈は少しだけ笑った。
「そう。何もしないために、準備する管理」
昼前、馬運車が厩舎の外に置かれた。
エンジンは切っている。
扉も閉めたまま。
ただ、そこにあるだけだ。
ミカヅキノユメは、馬房の中で耳を動かした。
首が上がる。
乾草を噛む動きが止まる。
恒一も玲奈も、美緒も、動かなかった。
人間が慌てれば、馬も慌てる。
十秒。
二十秒。
ミカヅキノユメは馬運車の方を見たまま、鼻を鳴らした。
それから、乾草へ戻った。
噛む。
一本。
また一本。
美緒の肩から、少しだけ力が抜けた。
「食べた」
「数えない」
玲奈が釘を刺す。
「今のは、見ただけ」
「ならいい」
恒一は作業表に書いた。
馬運車視認。首上げあり。後退なし。乾草再開。
小さな前進だった。
だが、決定にはまだ足りない。
夕方、もう一度確認した。
今度は、馬運車の扉を開ける。
乗せない。
音だけを増やす。
金具が鳴った瞬間、ミカヅキノユメの首が上がった。
耳が強く向く。
一歩、後ろへ下がる。
美緒のペンが止まった。
恒一は動かなかった。
玲奈も動かない。
ミカヅキノユメは、しばらく扉を見ていた。
そして、奥へ逃げ切る前に止まった。
自分で止まった。
そこから、馬房の真ん中へ戻る。
「下がった」
美緒が言った。
「ああ」
「でも、戻った」
「ああ」
「これ、行けるの?」
恒一はすぐに答えなかった。
「行ける理由にも、止める理由にもなる」
美緒は嫌そうに顔をしかめた。
「一番困る答え」
「一番正しい答えだ」
視界に文字が浮かぶ。
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ミカヅキノユメ
発情状態:接近
受胎準備:可
輸送耐性:D
環境変化耐性:D+
馬運車視認:警戒あり/後退なし
扉音反応:警戒上昇/後退小/自力停止
飼葉食い:維持
水分摂取:維持
推奨判断:明朝再確認
総評:種付け適期は近い。ただし輸送負荷で崩れる危険あり。明朝の食い・水・立ち位置で出発可否を最終判断
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明朝再確認。
表示は、逃げ道をくれなかった。
今すぐ決めない。
だが、明日には決める。
夜、小田切へ報告した。
「馬運車への反応を見ました」
『どうでしたか』
「視認では後退なし。扉音で一歩下がりました。ただ、自力で止まりました」
『行けそうですか』
「明日の朝で決めます」
『……分かりました』
「食いが落ちていれば止めます。水が落ちていても止めます。馬房の奥へ戻っていたら、止めます」
『その場合、明後日の枠は』
「使いません」
電話の向こうで、小田切が息を呑んだ。
『一年を、失うかもしれませんね』
「はい」
『それでも?』
「この馬を崩して一年を取りに行っても、次がありません」
長い沈黙があった。
『任せます』
短い言葉だった。
だが、重かった。
事務所へ戻ると、美緒がカレンダーの赤丸を見ていた。
「行けば怖い。止めても怖い」
「ああ」
「でも、何も決めないのが一番駄目」
「そうだな」
美緒は赤丸の横に、小さく書いた。
馬を見て決める。日程で決めない。
「今日のこと」
「そうだな」
恒一は厩舎の方を見た。
ミカヅキノユメは、もう乾草へ戻っている。
明日の朝、食べているか。
水を飲んでいるか。
馬房のどこに立っているか。
それだけで、一年が動く。
種付けは、勝負だった。
レースより静かで、セリより地味で、帳簿より冷たい。
だが、一頭の未来を作る勝負だった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:44%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
受託繁殖:ミカヅキノユメ 種付け可否判断前夜
ミカヅキノユメ:発情接近/受胎準備可/輸送負荷注意
配合確定:ミカヅキノユメ→サウスエンブレム
次の勝負:明朝の状態確認で輸送実施か中止かを決める




