第56話 ミカヅキノユメ、初めて腹を見せる
ミカヅキノユメの乾草が、朝までに半分近く減っていた。
完食ではない。
けれど、馬房の隅に残った山は、昨日までより明らかに低い。
水桶も減っている。
汚れ方も悪くない。
恒一は作業表に目を落とした。
夜間、飼葉反応あり。
水分摂取、改善。
夜間見回り時、馬房奥へ後退せず。
耳の反応、やや低下。
地味な文字ばかりだ。
だが、その地味な文字の一つ一つが、今は勝ち星より重い。
「兄さん」
美緒が隣に来た。
手には昨日の帳簿ではなく、ミカヅキノユメ用の作業表を持っている。
「食べてる」
「ああ」
「昨日より、かなり」
「戻ったとは言わない」
「言わない」
美緒はすぐにそう返した。
前なら、たぶん「もう大丈夫?」と聞いていた。
今は違う。
良く見える日ほど、言葉を急がない。
「でも」
美緒が続ける。
「戻る方には、ちゃんと向いてる」
「ああ」
ミカヅキノユメは馬房の奥ではなく、少し手前に立っていた。
こちらを見ている。
首はまだ高い。
だが、以前のように体全体で壁を作っている感じは薄い。
恒一が半歩だけ横へずれると、耳が動いた。
逃げない。
食いを止めても、奥へ下がらない。
それだけで、十分だった。
玲奈が後ろから来た。
足音は小さい。
手には体温計と記録板。
「今朝は?」
玲奈が聞く。
「食いは改善」
恒一が答える。
「水も?」
「減ってる」
「馬房の位置は?」
「手前寄り」
「人への反応は?」
「警戒は残る。でも、後退はしていない」
玲奈は馬房の前で止まった。
すぐには入らない。
入れる距離でも、入らない。
「測る?」
美緒が聞いた。
玲奈は少し考えてから首を振った。
「今は測らない」
「良くなってるのに?」
「良くなってるから」
「……」
「ここで“良さそうだから触る”をやると、また崩すことがある」
美緒は作業表に書き込んだ。
体温測定見送り。理由:状態改善中につき、接触刺激を増やさないため。
書き終えてから、美緒が小さく言った。
「良くなった時ほど、やりたくなることを止める」
「そう」
玲奈が頷く。
「人間は、安心したくて確認したがる。でも、馬は確認されるたびに疲れることがある」
「……」
「この馬は特に」
ミカヅキノユメは、乾草へ鼻を下げた。
恒一たちが見ている前で、一本、二本と噛む。
止まる。
こちらを見る。
また噛む。
美緒が息を止める。
「数えない」
玲奈が言った。
「……分かってる」
「でも数えてた」
「心の中で」
「それもやめる」
「厳しい」
恒一は少しだけ笑った。
その時、小田切が来た。
予定より少し早い。
厩舎に入る前に、通路で足を止める。
以前より、歩き方が静かだった。
「おはようございます」
小田切が頭を下げる。
「おはようございます」
恒一が返す。
「見ても?」
「ここからお願いします」
「分かりました」
小田切は馬房から少し離れた位置で止まった。
ミカヅキノユメが耳を向ける。
首が少し上がる。
だが、奥へ逃げない。
小田切の顔が、静かに変わった。
「……この馬、こんな顔をするんですね」
その一言に、恒一はすぐ返せなかった。
小田切は笑おうとして、少し失敗した。
その顔を見るまでが、きっと長かったのだ。
小田切は、ミカヅキノユメを知っている。
預けた側の人間だ。
その人間が、初めて見る顔。
それが今、榊原ファームの馬房で出ている。
「まだ安心ではありません」
玲奈が言った。
「はい」
小田切は頷く。
「でも、前より近い」
「近い?」
「人の近くにいることを、少しだけ許しています」
「……」
「ただ、許しただけです。信じ切ったわけではありません」
小田切は苦笑した。
「厳しいですね」
「厳しく見ないと、戻ったことにしてしまいます」
「それが怖い?」
「はい」
玲奈ははっきり答えた。
「良くなった時に、人が増えて、手が増えて、確認が増えて、崩れる。よくあります」
美緒が作業表を握り直した。
「じゃあ、人は増やさない」
「増やしません」
恒一が言った。
小田切がこちらを見た。
「触れる人を増やした方が、今後は楽では?」
「楽です」
「でも?」
「今はやりません」
「理由は」
「この馬が楽ではないからです」
小田切は黙った。
恒一は続ける。
「管理する側としては、人を増やした方が回しやすい。誰でも触れる方が、作業は楽になる」
「はい」
「でも、この馬はまだ“誰でも大丈夫”にはなっていない」
「……」
「ここで人を増やして、また食いが落ちたら、昨日まで積んだものを崩します」
小田切は馬房の中を見た。
ミカヅキノユメは乾草を噛んでいた。
小田切の視線にも、すぐには止まらない。
「任せます」
小田切が言った。
「ありがとうございます」
「正直、見ていると触りたくなります」
「分かります」
「良くなったか確かめたくなる」
「はい」
「でも、今は見ているだけにします」
その言葉で、空気が少し緩んだ。
玲奈が記録板に書いた。
小田切来訪。馬房外から確認。接触なし。食い継続。
美緒がそれを見て、小さく言った。
「接触なし、も記録なんだ」
「大事」
玲奈が答える。
「何もしなかったことが、後で一番効く時がある」
昼過ぎ、ミカヅキノユメは馬房の真ん中あたりで立っていた。
以前は奥にいた。
壁に逃げるように立っていた。
今日は違う。
通路側に近づきすぎるわけではない。
だが、奥に張りついてもいない。
恒一は馬房の前で、静かに立った。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
ミカヅキノユメ
気性安定:C+
環境変化耐性:D+
飼葉食い:改善
水分摂取:改善
環境警戒:中程度まで低下
管理反応:安定方向
接触許容量:限定的に改善
受胎準備:可
推奨対応:接触人数固定/作業表継続/輸送負荷注意
総評:完全回復ではないが、榊原ファームの管理環境に適応しつつある。良化時ほど刺激を増やさないこと
⸻
受胎準備、可。
その文字を見て、恒一は息を止めた。
ようやく、次の段階が見えてきた。
だが、同時に怖くもなる。
受胎準備ができる。
つまり、種付けの現実が近づく。
輸送。
環境変化。
発情のタイミング。
サウスエンブレムとの調整。
ミカヅキノユメにとって、一つ間違えればまた崩れる要素ばかりだ。
「見えた?」
玲奈が聞いた。
「ああ」
「何が」
「受胎準備は、可」
「……そう」
「でも、輸送負荷注意」
「当然」
「ここからの方が怖いな」
「そうね」
玲奈は静かに言った。
「立て直した馬を動かす時が、一番怖い」
美緒が顔を上げる。
「せっかく良くなったのに?」
「せっかく良くなったから」
玲奈が答える。
「動かす理由ができる。だから怖い」
「……」
「良くならなければ動かせない。良くなったら動かしたくなる。でも、動かせば崩れるかもしれない」
「そればっかりだね」
「馬の仕事は、大体それ」
小田切が、静かに聞いていた。
「種付けは、近いですか」
「近づいています」
玲奈が答える。
「ただ、日程ありきでは動かしません」
「サウスエンブレムの予定もありますよね」
「あります」
「逃すと?」
「次を待つことになります」
「……」
「でも、この馬をまた崩すよりは、待つ方がいい場合があります」
小田切の喉が動いた。
一回逃す怖さは、預けた側にもある。
種付けのタイミングは、牧場の都合だけで動かせるものではない。
だが、この馬は日程だけで動かしていい馬ではない。
「榊原さんは、どう見ますか」
小田切が聞いた。
恒一はミカヅキノユメを見た。
乾草を噛む。
顔を上げる。
こちらを見る。
また噛む。
その小さな繰り返しが、ようやくここまで来た証拠だった。
「今は、増やしません」
「何を?」
「人も、作業も、接触も」
「……」
「種付け準備には入ります。でも、管理は変えない」
「輸送の練習などは?」
「急にはしません」
「分かりました」
小田切はすぐには笑わなかった。
ただ、深く頷いた。
「待つのも、仕事なんですね」
「はい」
「前なら、たぶん焦っていました」
「私も焦っています」
恒一は言った。
「でも、この馬の前では、焦っている顔をしないようにしています」
美緒が横で小さく笑った。
「兄さん、顔に出るけどね」
「出てるか」
「帳簿見る時と同じ顔」
「最悪だな」
「かなり」
少しだけ空気が軽くなった。
夕方、ミカヅキノユメが馬房の中で横腹を見せるように立った。
完全に腹を預けたわけではない。
眠るわけでもない。
ただ、こちらへ真正面に壁を作る立ち方ではなくなっていた。
体の向きが変わっただけだ。
だが、恒一には大きな変化に見えた。
「……見た?」
美緒が小声で言う。
「ああ」
「今、少し腹を見せた」
「ああ」
「これ、いいの?」
「いい」
「すごく?」
「かなり」
玲奈も頷いた。
「ただし、喜びすぎない」
「分かってる」
美緒が即答する。
「でも、書いていい?」
「書いて」
「何て?」
「立ち位置変化。側腹を見せる角度あり。警戒継続」
「嬉しいのに、硬い」
「記録だから」
美緒はそれでも、少し嬉しそうに書いた。
十七時二十分。立ち位置変化。側腹を見せる角度あり。警戒継続。
恒一はその文字を見た。
ミカヅキノユメが初めて腹を見せた。
それは、大げさに言えば勝利だった。
だが、勝利として扱えば、次に余計なことをしたくなる。
だから、記録に留める。
夜、小田切に報告を入れた。
「今日、食いは安定しました」
『戻りましたか』
「戻ったとは言いません」
『はい』
「ただ、馬房での立ち位置が変わりました。少し側腹を見せる角度がありました」
『……本当ですか』
「はい」
『あの馬が』
「はい」
『そうですか』
電話の向こうで、小田切が息を吐く音がした。
『ありがとうございます』
「まだ礼を言う段階ではありません」
『分かっています』
「種付け準備には入れます。ただし、日程より状態を優先します」
『……分かりました』
「一回逃す可能性もあります」
『怖いですね』
「怖いです」
『でも、今日の報告を聞いた後だと、無理に動かす方がもっと怖い』
「そう言っていただけると助かります」
電話を切ると、美緒が作業表を見ていた。
「悪い報告の時も、良い報告の時も、言い切らないんだね」
「ああ」
「戻りました、とは言わない」
「言わない」
「大丈夫です、とも言わない」
「言わない」
「でも、前に進んでます、は言う」
「それは言う」
美緒は作業表を閉じなかった。
今日は帳簿ではない。
作業表だった。
「この紙も、閉じない方がいいね」
「そうだな」
「良くなった時ほど、開いておく」
「ああ」
恒一は厩舎の方を見た。
売らないための交渉。
セリに出す馬の準備。
支払いの猶予。
そして、ミカヅキノユメの種付け準備。
どれも終わっていない。
だが、今日ひとつだけ分かった。
この馬は、少しだけ榊原ファームを許した。
勝ったわけではない。
戻り切ったわけでもない。
それでも、腹を見せた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:44%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
受託繁殖:ミカヅキノユメ 管理安定方向
ミカヅキノユメ:受胎準備可/輸送負荷注意
次の勝負:種付け日程と輸送負荷の判断




