第55話 売らないための値段交渉
佐伯は、午後いちばんに来た。
昨日とは顔が違った。
馬を見る人間の顔ではある。
だが、今日はそれだけではない。
値段。
条件。
関わり方。
事務所の机には、美緒が三枚の紙を並べていた。
シラユキノハナの仔の見学記録。
三か月分の支払い予定。
桐生に延ばしてもらった支払い条件。
その横に、白紙が一枚。
美緒はその紙を見ながら、口を結んでいる。
「売らないんだよね」
確認ではなかった。
祈るような声だった。
「ああ」
「でも、値段を聞いたら揺れるよ」
「揺れる」
恒一は正直に答えた。
「揺れても、売らない」
美緒は帳簿の端を指で押さえた。
紙が少し歪む。
「それ、強いんじゃなくて、痛いね」
「そうだな」
佐伯は椅子に座ると、すぐに頭を下げた。
「今日は、先に条件を出します」
鞄から一枚の紙が出された。
恒一は受け取り、そこに書かれた額を見た。
息が止まりかけた。
高い。
アオバノミチとハルノトーチを予定通り売っても、まだ届かない額だった。
桐生に頭を下げて延ばしてもらった飼料代の三割も、資材修理分の猶予も、一気に帳簿から軽くなる。
古い給水設備の修理まで、先送りしなくて済む。
美緒も横から見て、何も言わなくなった。
沈黙だけで、帳簿が動いた。
「かなり良い条件です」
恒一は紙を机に置いた。
佐伯は頷く。
「今なら、です」
「今なら」
「はい。こちらが早くリスクを取る代わりに、早く確保したい。買う側には得があります。売る側には、今の資金繰りを楽にする意味がある」
佐伯はそこで、少しだけ声を低くした。
「ただし、牧場にとって得かは別です」
分かっている相手だった。
だから、断りにくい。
高値で押してくるだけの相手なら、まだ楽だった。
佐伯は、この仔を今売る痛みまで見ている。
「兄さん」
美緒の声は小さかった。
「この額なら、かなり楽になる」
「分かってる」
「売らないって言ったのも覚えてる。でも、これを見ると怖い」
「俺も怖い」
恒一はもう一度、紙を見た。
売れば楽になる。
売らなければ苦しい。
それでも、答えは変わらない。
「佐伯さん」
「はい」
「この条件でも、今は売れません」
美緒が息を呑んだ。
佐伯は怒らなかった。
驚きもしなかった。
「そう言うと思っていました」
「なら、なぜ条件を?」
「本気で欲しいと示すためです。それから、榊原さんが本当に売らないのかを確認するためでもあります」
佐伯は紙を引き戻さなかった。
「売らない理由を、もう一度聞かせてください」
恒一は、厩舎の方を見た。
そこにいる仔馬は、自分に値段がついたことなど知らない。
「この仔は、牧場の次の看板候補です。タチカゼが作った信用を、一頭の勝ちで終わらせたくない。シラユキノハナの母系を、ここで次へつなげたい」
「今売れば、榊原ファームは楽になる」
「はい」
「でも、来年何を見せるかが薄くなる」
「そうです」
佐伯は静かに頷いた。
「分かりました。ただし、買えないなら、こちらが出せるものは限られます」
美緒の手が止まった。
「所有権が動かないのに、同じ額を支援金として出すことはできません。それをやると、実質的な予約購入になります。あとで揉める」
「揉める、ですか」
「価格、権利、育成方針、売却時期。全部が曖昧になる。だから、大きなお金だけ入れる形にはしない方がいい」
美緒の顔から、少しだけ色が引いた。
「お金は、入らないんですね」
「大きな金は入りません」
「正直ですね」
「正直にしないと、この話は壊れます」
佐伯はもう一枚の紙を出した。
そこには、短い案が並んでいた。
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シラユキノハナの仔に関する関与案
* 所有権は榊原ファームに残す
* 現時点での購入予約ではない
* 佐伯には、将来売却または共同所有を検討する場合の第一交渉権を付与
* 価格は将来の馬体、育成状況、実績を踏まえて再協議
* 佐伯は育成先、馬主候補、将来の販売先候補について情報提供する
* 見学は榊原ファームの管理方針に従い、回数と人数を制限
* 金銭支援ではなく、信用支援と情報支援に留める
⸻
美緒がゆっくり読んだ。
「お金は入らない。でも、道が残る」
「そうです」
「佐伯さんは、何を得るんですか」
「順番です」
「順番」
「この仔が将来、売却や共同所有の話になった時、最初に話をする権利。買える保証はありません。価格も決めません。それでも、順番だけでも取りに来ました」
分かりやすい金ではない。
だが、分かりやすい誠意だった。
三雲も同席していた。
「現実的だと思う」
「金は入らないぞ」
「だから現実的なんだよ。都合よく金だけ入る形にしたら、あとで壊れる」
三雲は紙を指で叩いた。
「書面には、購入予約ではない、所有権は移らない、価格は未定、榊原ファームに売却義務はない、佐伯さんに購入義務もない。そこまで入れる」
「細かいな」
「細かくしないと、馬が揉め事に巻き込まれる」
片桐にも電話で確認を取った。
『悪くないわ。ただし、第一交渉権は“最初に話す権利”まで。それ以上にしないこと』
「金銭支援は?」
『入れない方がいい。牧場が苦しいから金を出した、となると力関係が歪む。この仔を残すなら、最初の関係はきれいにしておきなさい』
電話を切ると、美緒は帳簿と佐伯の案を交互に見た。
「苦しい」
ぽつりと言った。
「でも、変にお金をもらうよりは、いいと思う。帳簿上は助からない。でも、後で揉める借りを作らない」
佐伯は黙って聞いていた。
恒一は、あらためて向き直った。
「この形で進めたいです。ただし、所有権は榊原ファームに残す。売却義務は負わない。価格は今決めない。見学は、こちらの管理方針に従ってもらいます」
「もちろんです」
「育成先や馬主候補の紹介は受けます。ただし、決定はこちらです。この仔を焦らせる話には乗りません」
「その方がいいと思います」
佐伯は、少しだけ笑った。
「では、私は順番をいただきます」
「順番だけです」
「順番は大きいですよ。良い馬は、値段がつく前に順番が動きますから」
その場で、簡単な覚書案を作った。
署名はまだしない。
三雲が文面を整え、片桐に確認してもらう。
それでも、紙には重さがあった。
⸻
覚書案
シラユキノハナの仔について、現時点で所有権は榊原ファームに帰属する。
本覚書は購入予約ではなく、佐伯に購入義務を負わせるものでも、榊原ファームに売却義務を負わせるものでもない。
将来、売却または共同所有を検討する場合、榊原ファームは佐伯と最初に協議する。
価格、時期、条件は、その時点の馬体、育成状況、双方協議により決定する。
見学、情報共有、育成先候補の協議は、榊原ファームの管理方針を優先する。
⸻
美緒がその紙を見て、息を吐いた。
「お金は入らない。でも、道が残る」
「今日の答えだな」
佐伯は帰る前に、もう一度だけシラユキノハナの仔を見た。
近づきすぎない。
声もかけない。
ただ、少し離れて見ていた。
「急がない方がいいですね」
「はい」
「焦らせる馬ではない。なら、私も焦りません。ただし、見続けます」
「見られるように育てます」
車が出ていったあと、美緒は事務所の椅子に座り込んだ。
「売ってないのに疲れた」
「俺もだ」
「お金も入ってないのに、何か進んだ」
「そういう日だったな」
三雲が覚書案を鞄にしまった。
「今日のは大事だよ。金になる前の関係を作った。ただし、これで安心しないこと」
「分かってる。支払いは残ってる」
「ならいい」
夕方、恒一はシラユキノハナの馬房へ向かった。
仔は、母の横で乾草を噛む真似をしていた。
まだ本当に食べているわけではない。
ただ、母の真似をしている。
この仔は、今日、自分の値段を知らない。
交渉されたことも知らない。
第一交渉権など、当然分からない。
それでいい。
人間が勝手に未来を見て、勝手に値段を想像しているだけだ。
だからこそ、人間が責任を持たなければならない。
視界に文字が浮かぶ。
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シラユキノハナの仔
自家保留価値:A
短期売却価値:B+
限定見学評価:A-
佐伯関与:第一交渉権案で調整
現金化:未達
外部支援:信用支援/情報支援
総評:売却せず、関係を残す方向へ進行。短期資金繰りは改善しないが、将来の販売・育成導線が形成されつつある
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短期資金繰りは改善しない。
やはり、そこが出る。
だが、今日はその冷たさを受け止められた。
売らない。
だが、閉じない。
関係を残す。
それが、今日の答えだった。
夜、美緒が帳簿の端に新しく書いた。
お金は入らない。でも、道が残る。
「また変な言葉だな」
「今日のこと」
厩舎の方で、小さく馬が鳴いた。
金は入っていない。
支払いも消えていない。
それでも、完全に閉じていた道が一本残った。
売らないための交渉は、勝利ではなかった。
だが、未来を切らないための線にはなった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:44%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
佐伯関与:第一交渉権案で調整
現金化:未達/信用支援・情報支援のみ
次の勝負:ミカヅキノユメの管理安定と種付け準備




