第54話 地味な馬に、人が止まる
黒峰スタッドのグランアステールを見た翌日、榊原ファームの空気は少し重かった。
負けたわけではない。
だが、見せつけられた。
立っているだけで人を止める馬。
歩かせるだけで値段が上がる馬。
売れる理由を、馬体そのものが持っている馬。
あれが黒峰の正解だった。
そして、榊原ファームには同じ正解はない。
「昨日の馬、すごかったね」
美緒が事務所の窓から厩舎を見ていた。
手元には、シラユキノハナの仔の成長記録がある。
「悔しいくらい」
「ああ」
「うちの仔、ああいうふうには見えない」
「見えないな」
「じゃあ、どうするの?」
「同じ見せ方はしない」
美緒が振り向いた。
「勝てないから?」
「同じ土俵で見せたら負けるからだ」
少しきつい言い方だった。
だが、必要な言葉だった。
グランアステールと同じ場所にシラユキノハナの仔を並べれば、たぶん負ける。
見映え。
立ち姿。
初見の華。
そこでは勝てない。
けれど、あの仔には別の見方がある。
「今日は、佐伯さんが来る」
「片桐さんも?」
「来る。三雲も、もう向かってる」
「黒峰さんは?」
「呼んでない」
「来るかな」
「来ない方がいい」
美緒は少し息を吐いた。
「でも、見る人はいるよね。黒峰さんのところの人とか」
「ああ」
「嫌だね」
「嫌だな」
「でも、見せるんだ」
「売らないから見せる」
美緒は、昨日よりその言葉を分かっている顔をした。
午前、三雲が来た。
手には薄い資料だけを持っている。
「今日は派手な紙はいらないよ」
「分かってる」
「配合説明と成長記録だけ。値段は出さない。買える話もしない」
三雲は厩舎の方へ目を向けた。
「昨日のグランアステールを見たあとだと、きついよ。人は派手な馬に引っ張られる」
「ああ」
「だから、今日止まる人は本当に見る人だ」
その言葉は、少しだけ支えになった。
昼前、佐伯が来た。
片桐も少し遅れて到着した。
余計な人間は入れない。
見せる相手は絞る。
シラユキノハナの仔は、セリに出す馬ではない。
値段を競わせる馬でもない。
榊原ファームが、何を残すのかを見せる馬だ。
「昨日、黒峰さんの馬を見ました」
佐伯が事務所で言った。
「良い馬でした。かなり売れるでしょう」
「そう思います」
「その翌日にこの仔を見るのは、少し酷ですね」
「分かっています」
恒一は正直に答えた。
片桐が小さく笑った。
「でも、だから意味があるのよ。派手な馬を見た翌日に、地味な馬を見続けられる人がいるかどうか。そこで止まる人は、本当に見る人よ」
厩舎へ向かう。
シラユキノハナは落ち着いていた。
母の横で、仔が立っている。
派手ではない。
やはり、派手ではない。
昨日のグランアステールのように、立っているだけで人を吸い寄せる馬ではない。
首の出方も、肩の見せ方も、初見の華も、あちらには及ばない。
だが、母の横から一歩出た時の戻り方が違う。
慌てない。
無駄に首を上げない。
後ろ脚が、前より深く体の下へ入る。
前に見せた時より、ほんの少しだけ馬が締まっている。
佐伯は黙って見ていた。
何も言わない。
その沈黙が、今日の勝負だった。
仔が母から二歩離れた。
通路の音に耳を動かす。
だが、跳ねない。
少し止まり、母を見る。
それから、自分で戻る。
片桐が小さく頷いた。
「良くなったわね」
「どこがですか」
美緒が聞く。
「戻り方。前は、少し母に逃げていた。今は、自分で戻っている」
「同じ戻るでも違うんですね」
「違うのよ。こういうところを見る人は、見ているわ」
佐伯がようやく口を開いた。
「踏み込みも少し良くなっています」
「はい」
「派手に伸びたわけではない。でも、紙と馬の距離が縮まっている」
美緒が息を止めていた。
佐伯は値段の話をしない。
片桐も急がせない。
三雲も黙っている。
その沈黙の中で、仔がもう一度歩く。
短い距離だけだ。
だが、止まったあとに左右へふらつかない。
母の横に戻ってから、首を下げた。
恒一の視界に文字が浮かぶ。
⸻
シラユキノハナの仔
心肺:A
成長力:A
気性安定:B-
哺育安定:B+
歩様安定:B
踏み込み:B
母系反応:良好
説明一致度:A-
自家保留価値:A
短期売却価値:B+
限定見学適性:A-
総評:派手さはないが、成長記録と実馬の印象が揃いつつある。分かる相手を止める馬
⸻
分かる相手を止める馬。
それが、この仔の今の価値だった。
派手な馬に人は集まる。
だが、地味な馬にも、人が止まる瞬間がある。
佐伯が少しだけ後ろへ下がった。
「売る気はないんですね」
「ありません」
「条件を出しても?」
「話は聞きます。でも、今は売りません。この仔は、うちが残す馬です」
佐伯は怒らなかった。
むしろ、少し満足そうだった。
「それを聞きに来ました」
美緒が思わず顔を上げる。
「見て、欲しいと言うだけなら誰でもできます。でも、売らない理由を持っているかどうかを知りたかった」
「理由はありましたか」
恒一が聞く。
佐伯は仔を見たまま答えた。
「あります。昨日の黒峰の馬とは違う。あれは市場で値段を作る馬です。この仔は、牧場の中で時間をかけて価値を作る馬です」
「……」
「今売れば、買う側は得かもしれません。でも、牧場は損をする」
その言葉に、美緒が小さく息を吐いた。
助かったような、苦しくなったような顔だった。
売らなくていいと言われた。
でも、金は入らない。
どちらも現実だった。
その時、通路の向こうに、見慣れない男が立っているのが見えた。
三雲が小さく言う。
「黒峰のところの人だね」
「やっぱり来たか」
「遠巻きに見てるだけ。近づけないよ」
男は、馬房の外から短く見ているだけだった。
おそらく、黒峰へ伝えるのだろう。
榊原ファームの地味な仔に、佐伯と片桐が足を止めたと。
それで十分だった。
事務所へ戻ると、片桐が言った。
「今日の見せ方は悪くなかった。でも、広げすぎないこと」
「はい」
「“売らないのに見せる”は、扱いを間違えると嫌味になるの。買えないものを見せびらかすように見える」
美緒がメモの端を押さえた。
「見せる相手を選ぶ。見せる理由も選ぶ」
「そう」
三雲が資料に書き込む。
「限定見学は今日の三人までで一度止めよう。黒峰側に見られたのも、情報としてはもう動く」
佐伯が静かに言った。
「榊原さん。この仔を買うなら、今のうちに話を始めたいとは思っています」
「……」
「でも、今すぐ買わせてほしいとは言いません。関わり方を考えたい」
「関わり方」
「売買だけではなく、将来の優先交渉や、育成先、馬主候補の紹介も含めてです」
美緒が帳簿を見るような顔になった。
「それは、お金が入る話ですか」
「今すぐ大きな金が入る話ではありません」
「……」
「だから、帳簿上は苦しい話です」
「正直ですね」
「正直に言わないと、この仔に失礼です」
佐伯の声は静かだった。
「私は、この仔を買えるなら買いたい。でも、榊原さんが残す理由も分かる。なら、その間の形を探しましょう」
「次の話ですね」
「ええ。次の話です」
売るか、売らないか。
その二択だけでは済まない。
売らずに、関係を残す。
だが、都合よく金だけ受け取るわけにもいかない。
難しい話になる。
それでも、完全に断って終わるよりは前へ進んでいる。
夕方、三雲から黒峰の伝言が届いた。
『地味な馬に、人が止まったそうですね』
短い一文だった。
美緒が画面を見て、眉を寄せる。
「嫌な言い方」
「でも、見てる」
「褒めてるの?」
「たぶんな」
「本当に嫌な人」
少し間を置いて、もう一文が届いた。
『ただし、人が止まることと、市場で値段がつくことは別です』
美緒の顔がさらに渋くなる。
「やっぱり嫌な人」
「ああ」
「でも、正しい」
「それが一番嫌だな」
三雲が肩をすくめた。
「釘を刺してきたね。今日のは前進。でも、現金化ではない」
「分かってる」
恒一は窓から厩舎を見た。
シラユキノハナの仔は、母の横で何も知らずに立っている。
今日、あの仔は売れなかった。
値段も付かなかった。
現金も増えていない。
だが、佐伯は止まった。
片桐も止まった。
黒峰側の目も止まった。
それは、値段の前に生まれるものだった。
夜、恒一はもう一度だけ馬房へ行った。
仔は眠そうにしていた。
母の横で、脚を休めている。
「今日は、お前で人が止まった」
当然、仔は何も答えない。
それでいい。
馬は、値段のために立っているわけではない。
それでも人間は、その立ち姿に未来を見て、値段をつけようとする。
恒一の視界に、静かに文字が浮かんだ。
⸻
シラユキノハナの仔
見学反応:良好
限定見学評価:上昇
佐伯評価:継続交渉希望
片桐評価:見せ方は限定継続
外部反応:黒峰側が注視
総評:売却未定のまま、牧場の未来候補として外部の関心を獲得。現金化は未達。次は関係をどう残すかが課題
⸻
現金化は未達。
その一文が、やはり冷たい。
だが、今日の前進を浮かれさせないためには、必要だった。
地味な馬に、人が止まった。
それは勝利ではない。
だが、次の交渉へ進む理由にはなった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:44%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
限定見学:シラユキノハナの仔に佐伯・片桐が継続関心




