第52話 売らない決断は、支払いを重くする
翌朝、美緒は帳簿を閉じなかった。
昨日から、同じページを開いたままだ。
シラユキノハナの仔。
自家保留。
限定見学のみ。
その一行を書いたことで、牧場の未来は少し残った。
だが、支払い予定は一円も減っていない。
「兄さん」
美緒がペン先で紙を叩いた。
「今日、ちゃんと見て」
「見てる」
「見てる顔じゃない」
「嫌だから、見えてないだけだ」
「じゃあ、もっと見て」
紙には、逃げ場のない文字が並んでいた。
飼料代。
獣医代。
人件費。
輸送費。
種付け関係の前払い。
古い給水設備の修理費。
文字だけなら冷たい。
けれど、その向こうには馬がいる。
食わせる馬。
診てもらう馬。
運ぶ馬。
来年へつなぐ馬。
どれも削れば、馬に返る。
「アオバノミチとハルノトーチを出しても」
美緒が言った。
「足りないか」
「全部は無理」
「……」
「かなり楽にはなる。でも、シラユキノハナの仔を売った時の楽さとは違う」
恒一は帳簿を見た。
シラユキノハナの仔を売れば、今月と来月に余白ができる。
桐生へ頭を下げる必要も、少しは減る。
修理も、種付けの前払いも、獣医代も、まとめて見られる。
売れば、楽になる。
売らないと決めた瞬間、その楽になる道を自分で閉じた。
「兄さんが売らないって言った時」
美緒がぽつりと言った。
「嬉しかった」
「……」
「あの仔を残すんだって思った。父さんの代からの母系を、ちゃんと残すんだって」
「ああ」
「でも、帳簿を見ると怖い」
「……」
「売らないって、こんなに痛いんだね」
自家保留。
言葉だけなら格好がいい。
未来へ投資する判断。
牧場の看板を残す判断。
だが実際は、今日入るはずだった金を捨てて、まだ来るか分からない未来を買うことだ。
「売らないって書いたら」
美緒は続けた。
「馬房に残るんじゃなくて、支払いが残るんだね」
「ああ」
「嫌な言い方だけど」
恒一は立ち上がった。
「桐生さんに行く」
「今?」
「ああ」
「猶予を頼むの?」
「頼む」
「……」
「頭を下げる」
美緒は何か言いかけて、やめた。
「資料、持っていって」
「どれを」
「タチカゼの前走結果。上位条件三着。クロノセイバーに先着したこと」
「ああ」
「でも、それだけじゃ駄目。勝ち馬自慢に見える」
「分かってる」
「ミカヅキノユメの作業表も。悪い報告を隠さなかった記録」
「預託管理の資料か」
「うん」
「あと、アオバノミチとハルノトーチの販売見込み」
「ああ」
「それから、シラユキノハナの仔を売らない理由」
「一番嫌な資料だな」
「一番必要な資料」
美緒はもう紙をまとめていた。
タチカゼの結果。
ミカヅキノユメの管理記録。
セリ候補の販売方針。
シラユキノハナの仔の自家保留理由。
全部、牧場の未来を説明する紙だった。
午前、恒一は桐生の事務所へ向かった。
桐生は飼料や資材の取引で長く付き合いのある相手だ。
父の代からの関係がある。
だからこそ、甘くはない。
「榊原さん」
桐生は机の向こうで資料を受け取った。
「今日は支払いの話ですね」
「はい」
「先に言っておきます。勝ったから払える、という話なら聞きません」
「分かっています」
「負けても評価された、という話でも同じです」
「はい」
「評価は請求書を消しません」
「分かっています」
恒一は頭を下げた。
「短期の支払いについて、一部猶予をいただきたいです」
「理由は」
「シラユキノハナの仔を売らない判断をしました」
「売れば払える?」
「かなり楽になります」
「では、なぜ売らないんですか」
「牧場の次の看板候補だからです」
「看板は、今月の支払いをしてくれません」
「はい」
「それでも残す?」
「残します」
桐生の表情は変わらなかった。
「根拠を見せてください」
恒一は資料を出した。
タチカゼの上位条件三着。
クロノセイバーには先着。
ゴールデンラダーには届かず。
「勝っていませんね」
「はい」
「でも、消えていない」
「そこを見ていただきたいです」
次に、ミカヅキノユメの作業表。
飼葉食い低下。
環境警戒上昇。
作業音の記録。
小田切への報告。
作業表の見直し。
桐生はそこを長く見た。
「悪い報告も入っている」
「はい」
「普通、こういう資料は外に出したがらない」
「隠す方が信用を失います」
桐生は一度だけ目を上げた。
「少し変わりましたね」
「何がですか」
「勝った馬の話だけをしに来たのかと思いました」
「それだけなら来ません」
次に、アオバノミチとハルノトーチの資料を出す。
「この二頭は売る」
「はい」
「高値は?」
「見込みません」
「正直ですね」
「盛れば、あとで信用を失います」
「今、信用が欲しいのに?」
「だからです」
最後に、シラユキノハナの仔の紙が残った。
「これを売らない」
「はい」
「短期売却価値はある」
「あります」
「売れば楽になる」
「はい」
「でも、自家保留価値が高い」
「そう見ています」
「走る保証は?」
「ありません」
「それでも残す?」
「残します」
沈黙が落ちた。
ここで「必ず走ります」と言えば、楽かもしれない。
だが、そんな保証はない。
見えても、未来は確定しない。
馬は生き物だ。
だから、嘘はつけなかった。
「これは勝算です。でも保証ではありません」
恒一は言った。
「売らない判断は苦しいです。今月の支払いも重くなります」
「でしょうね」
「それでも、ここで全部売って今を楽にしたら、来年、榊原ファームは何を見せるのか分からなくなる」
「……」
「だから残します。その代わり、売る二頭はきちんと売ります。盛らずに、合う買い手へ出します」
「それで足りない分を、猶予してほしい」
「はい」
桐生は椅子に背を預けた。
「甘いですね」
「はい」
「でも、無計画ではない」
資料を揃え、桐生は淡々と言った。
「飼料代の三割だけ、今月末から翌月十日に回します」
「ありがとうございます」
「資材修理分の一部も、セリ後まで待ちます」
「はい」
「ただし、獣医代と人件費は動かせません」
「分かっています」
「次の支払いまでに、アオバノミチとハルノトーチの販売見込みを具体化してください。買い手候補、想定価格、出品時の説明方針までです」
「分かりました」
「猶予は勝利ではありません。支払いが先へ移動しただけです」
「……はい」
重い言葉だった。
猶予は、金が増えることではない。
未来の自分に、今の苦しさを渡しただけだ。
牧場へ戻ると、美緒が事務所の前で待っていた。
「どうだった」
「一部、猶予してもらえた」
「どれくらい?」
「飼料代の三割を翌月十日へ。資材修理分の一部はセリ後まで」
「獣医代は?」
「動かない」
「人件費は?」
「動かない」
「……そっか」
美緒は少しだけ目元を押さえた。
「よかった」
「勝ちじゃない」
「うん」
「支払いが消えたわけじゃない」
「うん」
「先に行っただけだ」
「それでも、今日潰れない」
午後、三雲から電話が入った。
『桐生さん、どうだった?』
「一部猶予」
『よかったね』
「よくはない」
『うん。よくはない。でも悪くもない』
「次で結果を出せと言われた」
『当然だね。セリ候補二頭、ちゃんと売ろう。ただし、焦って安くはしない』
「安くても現金になる」
『安く売ると、次が安くなる』
「……」
『今の榊原ファームは、値段の作り方も見られてる。忘れないで』
電話を切ると、美緒がぽつりと言った。
「売るって、難しいね」
「売らないのも難しい」
「結局、全部難しい」
「ああ」
夕方、恒一はシラユキノハナの馬房へ行った。
仔は母の横にいた。
小さく首を上げ、こちらを見る。
そして、また母のそばへ戻る。
売れば楽になる馬。
売らないと決めた馬。
まだ何も知らない顔で、母の横にいる。
「お前を残すために」
恒一は小さく言った。
「別の馬を売る。頭も下げる。支払いもずらす」
仔は何も分からない。
それでいい。
人間の帳簿の重さなど、馬に背負わせてはいけない。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
シラユキノハナの仔
心肺:A
成長力:A
気性安定:C+
歩様安定:B
踏み込み:B-
自家保留価値:A
短期売却価値:B+
総評:残す判断により、短期資金繰りは悪化。ただし牧場の中長期看板候補として保持価値は高い
⸻
残す判断により、短期資金繰りは悪化。
冷たい文字だ。
だが、冷たいからこそ信用できる。
事務所に戻ると、美緒が帳簿に新しい線を引いていた。
「猶予を入れても、余裕はない」
「知ってる」
「でも、一週間前よりは考える時間がある」
「ああ」
「その時間を、無駄にできないね」
美緒は帳簿の端に、小さく書いた。
売らないために、売る。
「変な言葉だな」
「でも、今日のこと」
「そうだな」
残すために、頭を下げる。
未来を買うために、今日を削る。
それが、自家保留だった。
夜、ミカヅキノユメの馬房を見に行くと、牝馬は乾草を噛んでいた。
こちらを見ても、すぐにはやめない。
昨日より、少しだけ首が低い。
いいことは少し。
悪いこともまだある。
牧場は、その間を進む。
売らない決断は、支払いを重くした。
それでも恒一は、その重さを持ったまま、次の朝を迎えるしかなかった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:43%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
自家保留判断:シラユキノハナの仔を売らない方針で継続
資金繰り:飼料代一部を翌月十日へ猶予/資材修理分一部をセリ後へ猶予/根本改善なし
セリ戦略:アオバノミチ/ハルノトーチを現金化候補として準備中




