第51話 セリに出す馬、出さない馬【後半】
三雲は、紙を机の中央に置いた。
シラユキノハナの仔。
その名前だけで、事務所の空気が変わった。
アオバノミチやハルノトーチの時とは違う。
売り方を考える紙ではない。
売らない理由を、どう作るかの紙だった。
「これは、見せるだけ」
三雲が言った。
「出品はしない」
「出したら」
美緒が口を開いた。
「値段、つきますよね」
「つく」
三雲は否定しなかった。
「今なら、かなりつく。佐伯さんが見ている。タチカゼの負け方も評価された。シラユキノハナの配合説明も効いてる」
「じゃあ」
美緒の声が少し詰まった。
「売れば、楽になる」
「今月はね」
三雲は短く返した。
今月は。
その言葉が、机の上に落ちた。
恒一は紙を見たまま黙っていた。
売れば、今月は越しやすい。
飼料代も、獣医代も、修理費も、少し息ができる。
だが、それで終わる。
シラユキノハナの仔は、榊原ファームが次に何を見ているかを示す馬だ。
ただの高く売れる仔ではない。
牧場の未来を背負わせるかもしれない馬だった。
「売らないなら、見せ方が大事になる」
三雲が言った。
「隠すのとは違うんですね」
美緒が聞く。
「違う。隠したら、ただの自信がない牧場に見える」
「見せたら、欲しがられる」
「そう」
「売らないって言ったら、嫌がられませんか」
「相手による」
三雲は紙の端を指で叩いた。
「でも、ちゃんと見せて、ちゃんと売らない理由を言えば、信用になる」
「売らないことも?」
「なるよ」
三雲は恒一を見た。
「榊原さんが本当に残す価値があると思っているならね」
「思っている」
恒一は即答した。
美緒が少しだけこちらを見た。
「早いね」
「ここは迷わない」
「お金の話になると、黙るのに」
「馬の話だからな」
「……うん。知ってる」
美緒はペンを握り直した。
その顔は、反対している顔ではなかった。
ただ、数字を消せない人間の顔だった。
「片桐さんには?」
三雲が聞いた。
「見せる」
「佐伯さんは?」
「見せる」
「他は」
「絞る」
「いい」
三雲は頷いた。
「誰にでも見せる馬じゃない。見せる相手を選ぶことで、逆に価値が出る」
「でも、見せるだけで売らない」
「そう」
「嫌な顔をされるな」
「されるね」
三雲は笑った。
「でも、そこで揺れたら終わり」
「揺れたら?」
「“本当は売りたいんだな”と思われる」
恒一は息を吐いた。
それはまずい。
売りたいと思われれば、足元を見られる。
資金繰りが苦しい牧場だと見られれば、値段ではなく弱みに話が流れる。
売らないと決めた馬は、売らない。
そこに迷いが見えれば、信用ではなく、弱さになる。
「見せ方を決める」
三雲は新しい紙を広げた。
⸻
シラユキノハナの仔
扱い:自家保留候補
出品:なし
見学:限定
見せる相手:佐伯/片桐/信頼できる馬主候補のみ
説明方針:配合意図、母系価値、成長待ちの余地を示す
注意点:売却前提に見せない
目的:榊原ファームの将来価値を示す
⸻
美緒が、その紙をじっと見た。
「目的が、売却じゃない」
「そう」
三雲が言う。
「この仔は、値段をつけるために見せるんじゃない。榊原ファームが、何を残す牧場なのかを見せるために使う」
「使うって言い方、少し嫌ですね」
「嫌なら、見せるでもいい」
「見せる、の方がいいです」
「じゃあ、見せる」
三雲はすぐに言い直した。
「この仔は、榊原ファームの判断を見せる馬だ」
恒一は、窓の外を見た。
厩舎の方から、若馬の小さな嘶きが聞こえる。
まだ何も知らない声だ。
セリの値段も。
馬主の視線も。
牧場の資金繰りも。
何も知らない。
だからこそ、人間が決めなければならない。
「佐伯さんには、どう伝える?」
美緒が聞いた。
「売らない、と先に言う」
恒一が答える。
「見せてからじゃなくて?」
「先に言う」
「……強いね」
「弱く見せたら、馬に悪い」
三雲が少し笑った。
「それでいい」
「本当に?」
「うん。売らない馬を見せる時は、最初に線を引いた方がいい。相手に無駄な期待をさせないし、こちらも逃げ道を作らない」
その時、恒一の携帯が震えた。
画面には、佐伯の名前があった。
事務所の空気が止まる。
「噂をすれば、ですね」
美緒が小さく言った。
恒一は通話を押した。
「榊原です」
『佐伯です。今、お時間よろしいですか』
「はい」
『シラユキノハナの仔について、あらためて相談したいと思いまして』
恒一は、机の上の紙を見た。
見学、限定。
出品、なし。
自家保留候補。
「先にお伝えしておきます」
恒一は言った。
「はい」
「シラユキノハナの仔は、現時点では売却予定はありません」
美緒のペンが止まった。
三雲も黙った。
電話の向こうで、少し間が空いた。
『……そうですか』
「はい」
『見せていただくことは』
「可能です。ただ、売却前提ではありません」
『分かりました』
佐伯の声は、不機嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ楽しそうだった。
『最初にそう言っていただける方が、こちらも見やすい』
「ありがとうございます」
『売りたい馬と、残したい馬は違いますからね』
「はい」
『ただ、見れば欲しくなるかもしれません』
「その時は、困ります」
『正直でいいですね』
佐伯が短く笑った。
『では、見学だけお願いできますか』
「はい。日程は美緒から調整します」
『よろしくお願いします』
電話が切れた。
事務所に、しばらく音がなかった。
外では、風が乾草の匂いを運んでいる。
美緒が、ようやく息を吐いた。
「言ったね」
「ああ」
「売らないって」
「言った」
「今月の支払い、残ってるのに」
「残ってるな」
「兄さん」
美緒は帳簿を閉じなかった。
閉じずに、指で端を押さえたまま言った。
「売らないなら、別のところで作るよ」
「ああ」
「本当に作るよ。アオバノミチとハルノトーチの売り方、手を抜かない。預託の話も詰める。資料も出す。電話もする」
「頼む」
「頼む、じゃない」
美緒は顔を上げた。
「兄さんもやるの」
「分かってる」
「その“分かってる”、今日は帳簿の前でも言って」
恒一は、少しだけ笑った。
「分かってる」
「よし」
三雲が手を叩いた。
「じゃあ、次は実務」
「まだあるのか」
「あるよ。売らないって決めた瞬間から、売る馬の責任が重くなる」
「きついな」
「牧場経営だからね」
三雲はアオバノミチとハルノトーチの紙を並べ直した。
「この二頭で現金を作る。シラユキノハナの仔で未来を見せる。タチカゼで信用を広げる。ミカヅキノユメで管理力を見せる」
「全部つながってるな」
「そう。だから、どこかで雑をすると全部に響く」
恒一は机の上の紙を見た。
売る馬。
出さない馬。
見せるだけの馬。
どれも同じではない。
だが、どれも榊原ファームの馬だった。
午後、恒一は厩舎へ向かった。
シラユキノハナの仔は、母馬のそばで立っていた。
まだ幼い。
体の線も完成していない。
だが、首の付け根から背中への流れに、妙な深さがある。
ただ高く売れる馬ではない。
残したい馬だ。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
シラユキノハナの仔
成長力:A-
芝適性:B+
距離適性:中距離寄り
体質:B
気性:B-
母系価値:A
繁殖将来性:A-
競走期待:B+
自家保留価値:A
売却即金価値:A-
長期牧場価値:A
推奨方針:自家保留/限定見学/売却交渉不可
総評:今売れば資金繰りは楽になる。しかし、残せば牧場の将来価値を作る核になり得る。
⸻
今売れば、楽になる。
残せば、苦しくなる。
けれど、残した先にしか見えない景色がある。
恒一は柵に手を置いた。
仔馬がこちらを見た。
まだ、何も知らない顔だった。
「悪いな」
恒一は小さく言った。
「お前には、うちの我慢を背負ってもらう」
仔馬は答えない。
ただ、母馬の腹の下へ鼻を寄せた。
その仕草を見て、恒一は少しだけ息を吐いた。
命を見ている。
帳簿を見ている。
どちらかだけでは、牧場は続かない。
夕方、事務所に戻ると、美緒がホワイトボードに予定を書き込んでいた。
アオバノミチ:写真撮影。
ハルノトーチ:歩様動画。
佐伯:限定見学日程調整。
片桐:資料送付。
三雲:セリ説明文確認。
ミカヅキノユメ:管理継続。
その一番下に、美緒はもう一行を書いた。
シラユキノハナの仔:自家保留。限定見学のみ。
書いた瞬間、美緒が帳簿を閉じなかった。
それが答えだった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:42%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
セリ戦略:アオバノミチ/ハルノトーチを出品候補へ
限定見学:シラユキノハナの仔
自家保留判断:シラユキノハナの仔を売らない方針で確定




