第51話 セリに出す馬、出さない馬【前半】
信用は、朝の電話で増える。
けれど、飼料代は現金で払う。
翌朝、美緒は事務所の机に三枚の紙を並べた。
一枚目は、セリの出品候補。
二枚目は、今後三か月の支払い予定。
三枚目は、シラユキノハナの仔の見学記録。
恒一は、その三枚を見ただけで胃が重くなった。
「兄さん」
美緒は、二枚目の紙を手前へ滑らせた。
「最初からそこか」
「最後にしても減らないから」
「嫌な並べ方だな」
「嫌な話だから」
美緒はペンで線を引いた。
飼料代。
獣医代。
人件費。
輸送費。
種付け関係の前払い。
古い設備の修理費。
馬は待ってくれない。
金も待ってくれない。
「今すぐ倒れる数字じゃない」
美緒が言う。
「でも、余裕がある数字でもない」
「かなり楽じゃないな」
「兄さん、そういう時だけ言い方が軽い」
「軽くしないと、紙を見ていられない」
美緒は返事をしなかった。
ペン先だけが、支払い予定の上で止まっている。
「タチカゼの負け方で信用は上がった。佐伯さんも前倒しで見に来た。小田切さんの預託も続いてる」
「ああ」
「でも、現金はまだ増えてない」
「そうだな」
美緒は一枚目の紙を指で押さえた。
「だから、セリの話をする」
「分かってる」
「何を出すか。何を出さないか。何を見せるだけにするか」
正しい。
正しいから、嫌だった。
午前、三雲が来た。
いつもの軽い足取りではある。
だが、手に持ったファイルは厚い。
「榊原さん」
三雲はファイルを軽く持ち上げた。
「夢と現実、どっちから聞きたい?」
「その厚さなら、現実の方が多いだろ」
「正解」
「帰っていいか」
「帰る場所、ここでしょ」
三雲は机にファイルを置いた。
「セリ候補、整理してきた」
「助かる」
「まず、出せる馬。次に、出したら値段はつくけど出さない方がいい馬。最後に、出さないけど見せた方がいい馬」
「美緒と同じ分類だな」
「美緒ちゃん、分かってきてるね」
「分かりたくなかったです」
美緒が真顔で返す。
三雲は苦笑して、一枚目を広げた。
「まず、出す候補。この二頭は現金化した方がいい」
紙には、二頭の名前が並んでいた。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
どちらも悪い馬ではない。
だが、牧場の未来を背負わせる馬かと言われれば、違う。
「アオバノミチは?」
「堅実」
三雲が即答した。
「ダート寄り。短めからマイルくらい。大きな夢は見せにくいけど、買う側が使い道を想像しやすい」
「上限は見えるな」
「見えるね。でも、今の榊原ファームなら“堅実に使える馬”として説明できる。高くはないけど、売れない馬じゃない」
恒一は黙って頷いた。
アオバノミチは、牧場で見ても悪い馬ではなかった。
飼葉も食う。
脚元も極端に悪いわけではない。
ただ、ここから牧場の看板になるほどの芯は見えない。
走るかもしれない。
でも、牧場に残す理由は薄い。
「ハルノトーチは?」
「見映えはこっちの方がある」
三雲が言った。
「肩が出る。セリ会場ではアオバノミチより目を引くと思う」
「気性は」
「幼い。そこを隠して売ると、あとで揉める」
「写真と歩かせ方で値段は作れるか」
「作れる。でも、完成品みたいに言ったら駄目」
「看板には」
「ならない」
三雲ははっきり言った。
「なるかもしれない、とは言わない。榊原ファームが残すべき馬ではない」
美緒が小さく息を吐いた。
「売る馬って、悪い馬って意味じゃないんですね」
「違うよ」
三雲が答える。
「悪い馬は、そもそも売るのも大変。売る馬っていうのは、今の牧場より、買った先の方が活きる馬でもある」
「……」
「榊原ファームが全部を抱えたら潰れる。買い手の方で活きる馬は、ちゃんと売った方がいい」
恒一は二頭の名前を見た。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
どちらも、自分の牧場で生まれ、育ってきた馬だ。
紙の上で簡単に線を引ける存在ではない。
それでも、線を引かなければ牧場は回らない。
「この二頭は出す」
恒一が言った。
美緒のペンが止まる。
「……本当に?」
「ああ」
「兄さんが先に言うと、少し安心する」
「どういう意味だ」
「全部残すって言い出したら、請求書で殴る準備はしてた」
「物騒だな」
「殴るのは紙だけ。たぶん」
「たぶんか」
「でも、言いたい気持ちはあるんでしょ」
「ある」
恒一は二頭の名前から目を逸らさなかった。
「ある。でも、それをやったら潰れる」
三雲が静かに頷いた。
「そう。全部残す牧場は潰れる。全部売る牧場は、未来がなくなる」
「嫌なこと言いますね」
美緒が言う。
「嫌なことだから言うんだよ」
三雲はそこで、ファイルから別の紙を二枚出した。
「この二頭は、今日のうちに軽く歩かせて見たい」
「今からか」
「今から。出すって決めたなら、売り方を考えないと」
「早いな」
「セリは、馬を連れていけば勝手に値段がつく場所じゃないからね」
最初に見たのは、アオバノミチだった。
鹿毛の、派手さのない馬だ。
顔つきは素直で、余計なところに気を散らさない。
歩かせると、踏み込みは深くないが、歩様は崩れにくい。
「いい意味で、分かりやすい」
三雲が言った。
「派手ではない」
「うん。でも、買った人が困りにくい」
「説明は?」
「“堅実に使える馬”でいい。夢を盛らない。距離も欲張らない」
「短めからマイル」
「そう。ダート寄り。丈夫さと扱いやすさを前に出す」
「地味だな」
「地味な馬を派手に売ると、あとで信用を失うよ」
恒一はアオバノミチの首筋を見た。
この馬は、ここで残す馬ではない。
だが、雑に売っていい馬でもない。
次に、ハルノトーチを出した。
こちらは見映えがある。
肩の出方が良く、写真にすれば映えるだろう。
歩き始めた瞬間、少しだけ人の目を引く。
だが、周囲の音に反応して、首が上がった。
「そこ」
三雲が指を差す。
「気性の幼さ」
「写真だけなら隠せる」
「隠したら駄目」
「だろうな」
「“成長待ちの見映え”くらいに抑える。完成品みたいに言ったら危ない」
「買い手は減るか?」
「一部は減る。でも、合わない買い手に渡すよりいい」
美緒がメモを取っていた。
「セリの説明って、よく見せることじゃないんですね」
「よく見せることではある」
三雲が言う。
「でも、嘘をついてよく見せることじゃない」
「……」
「榊原ファームがせっかく得た信用を、ここで使い潰したら意味がない」
恒一はハルノトーチを見た。
見映えはある。
ただ、まだ幼い。
この馬は、正しく伝えれば買い手がつく。
盛れば値段は上がるかもしれないが、あとで馬が困る。
結局、ここでも同じだった。
紙で期待を作り、馬で信用を守る。
売る馬でも、それは変わらない。
事務所へ戻ると、三雲は二枚のメモを机に並べた。
⸻
アオバノミチ
売り方:堅実型
強み:扱いやすさ/ダート短め〜マイル適性/大崩れしにくい
注意点:上限を盛らない
方針:使い道が明確な買い手へ
ハルノトーチ
売り方:見映え型
強み:肩の出方/写真映え/歩かせた時の目立ち
注意点:気性の幼さを隠さない
方針:成長待ちを許容できる買い手へ
⸻
「こうやって出す」
三雲が言った。
「派手な売り文句じゃないな」
「榊原ファームは、今それをやる段階じゃない」
「段階?」
「勝ったあとだからこそ、盛れる。でも、ここで盛ると次がなくなる」
「……」
「信用で値段を作るなら、信用を削る売り方はできない」
その言葉は重かった。
タチカゼで上がった信用。
ミカヅキノユメの管理で積み始めた信用。
シラユキノハナの仔を見せることで生まれた信用。
それを、セリの一言で削るわけにはいかない。
次に、三雲は二枚目を出した。
「これは、見せるだけ」
恒一は、紙に書かれた名前を見る前に分かった。
「シラユキノハナの仔だな」
三雲が頷いた。
「そう。ここからが、もっと嫌な話」
美緒のペンが止まった。
「売る話より嫌なんですか」
「売らない話の方が、だいたい嫌だよ」
事務所の外で、馬が一頭、鼻を鳴らした。
恒一はその音を聞きながら、紙の上の名前を見た。
シラユキノハナの仔。
売れば、今月は楽になる。
売らなければ、牧場の未来が残る。
だが、未来は今月の請求書を払ってくれない。




