第50話 負けても、牧場は進む
翌朝、電話は勝った時と同じくらい鳴った。
いや、少し違う。
勝った時の電話は、声が明るい。
祝いと、驚きと、勢いがある。
今日の電話は、もっと静かだった。
けれど、軽くはない。
美緒が受話器を置き、メモに一本線を引く。
「兄さん」
「なんだ」
「三雲さんから。問い合わせ、減ってないって」
恒一は作業表から顔を上げた。
「減ってない?」
「むしろ、内容が変わったって」
「内容?」
「“勝った馬”じゃなくて、“上で残った馬”として見られてるって」
美緒はメモを見たまま、少し首を傾けた。
「負けたのに?」
「負けた」
「三着だよね」
「三着だ」
「なのに、問い合わせが減らない」
「そういう負けだったんだろうな」
言いながら、恒一自身もまだ納得しきれていなかった。
勝てなかった。
ゴールデンラダーには届かなかった。
外から減らない脚で交わされた瞬間の悔しさは、まだ胸に残っている。
だが、タチカゼは消えなかった。
上の流れで脚を使い、クロノセイバーには先着した。
それを、外の人間も見ていた。
電話がまた鳴った。
今度は三雲本人だった。
『おはよう、榊原さん』
「朝からよく鳴るな」
『いいことだよ。負けた翌朝に電話が鳴るのは』
「嫌な言い方だ」
『でも本当。普通は負けたら静かになる』
「今回は違うのか」
『違う。昨日の負けは、消えた負けじゃない』
「……」
『効いてるのは二つ。上の流れで三着に残ったこと。もう一つは、黒峰のクロノセイバーに先着したこと』
「勝ったわけじゃない」
『勝ってない。でも、比べられる相手には勝った』
「ゴールデンラダーには届いてない」
『だから次がある』
「みんな簡単に言うな」
『簡単じゃないから、見る価値があるんだよ』
三雲の声は、いつもより少し真面目だった。
『それで、佐伯さんが再見学を前倒ししたいって』
「シラユキノハナの仔か」
『そう。昨日のタチカゼを見て、あの母系の見方が変わったんだと思う』
「シラユキノハナの仔はタチカゼじゃない」
『分かってる人ほど、そこも分かって見る』
「……」
『でも、牧場の見立てはつながる。昨日の負け方は、その材料になった』
電話を切ったあと、美緒が黙っていた。
「どうした」
「負けても、牧場って進むんだね」
「ああ」
「でも、勝った時より分かりにくい」
「分かりにくいな」
「説明しないと駄目?」
「説明しないと駄目だ」
「また説明か」
「今回は、負け方の説明だ」
美緒は少し苦い顔をした。
「勝った時より難しそう」
「たぶんな」
午前、片桐からも電話が入った。
『昨日、見たわ』
「ありがとうございます」
『いい負けだったわね』
「まだ、そう言われると複雑です」
『複雑でいいのよ。負けて喜んでいたら、それは違う』
「はい」
『でも、上で通じた負けは、下で勝っただけより信用になることがある』
「……」
『昨日のタチカゼは、上の流れで消えなかった。あれは大きい』
「勝ち馬には届きませんでした」
『だからいいの』
「いい?」
『届いていないから、まだ伸びる余地がある。届かない相手が見えた。しかも黒峰の馬には先着した』
「……」
『これは、牧場の看板としては悪くない負けよ』
片桐はそこで、少し声を落とした。
『ただし、言い方を間違えないこと』
「どういう意味ですか」
『“黒峰に勝った”を前に出しすぎると、安くなる』
「……」
『“上の流れで残った”を前に出しなさい。黒峰に先着したのは、その中の一要素でいい』
「分かりました」
『競馬は、相手を下げて自分を上げると、あとで自分も下がるの』
「重いですね」
『重いわよ。だから面白いの』
電話を切ると、美緒がメモに書いていた。
負け方の説明:黒峰に勝った、ではなく、上で消えなかった。
「いいまとめだ」
恒一が言うと、美緒は頷いた。
「黒峰に勝ったって言いたくなる」
「ああ」
「でも、それを言いすぎると、タチカゼの負け方が小さくなる」
「そういうことだな」
「難しい」
「難しいな」
昼前、小田切が来た。
ミカヅキノユメの様子を見るためだった。
昨日のタチカゼのレースも知っているようだったが、最初に向かったのは厩舎だった。
ミカヅキノユメは、乾草の前にいた。
小田切が少し離れた位置で止まると、耳を動かす。
だが、馬房の奥へ下がらない。
乾草を一度噛み、顔を上げる。
また少し噛む。
玲奈が静かに言った。
「昨日より続いています」
「戻りましたか」
小田切が聞く。
「戻ったとは言いません」
「でも」
「戻る方へは向いています」
「……そうですか」
小田切の肩から、わずかに力が抜けた。
「悪い報告を聞いた時は、正直怖かったです」
「すみません」
「いえ」
小田切は首を振った。
「でも、今は前より安心しています」
「崩れたのに?」
「はい」
「……」
「崩れた時に、何をしているかが見えたので」
その言葉は、昨日の三着よりも重く感じた。
小田切は馬房の前から下がり、作業表を見た。
「毎日、これを?」
「必要な間は」
「大変ですね」
「大変です」
「でも、この馬には必要なんですね」
「はい」
小田切は少しだけ笑った。
「預けてから、良い報告ばかりではありませんでした」
「はい」
「でも、良い報告だけの時より、今の方が任せている感じがします」
「……」
「変な話ですね」
「変ではないと思います」
美緒が小さく言った。
「悪いところを隠されないから、かも」
「そうですね」
小田切が頷いた。
「悪いところを知らされるのは怖い。でも、知らされない方がもっと怖い」
午後、佐伯が来た。
昨日の夜に連絡を入れてきた通り、シラユキノハナの仔の再見学を前倒しするためだった。
佐伯は事務所に入るなり、まず言った。
「昨日のタチカゼを見ました」
「ありがとうございます」
「勝てませんでしたね」
「はい」
「でも、消えませんでした」
「……」
「そこが大きい」
佐伯は配合説明の紙を見ずに、先に厩舎へ向かった。
前とは順番が違う。
シラユキノハナの仔は、母の横にいた。
まだ派手ではない。
クロノセイバーや、黒峰の馬のように、一目で人を止める馬ではない。
それでも、前に見た時より、戻りが自然になっている。
首を無駄に上げない。
小さく動いて、母の横へ戻る。
佐伯は黙って見ていた。
「昨日の負け方で、見方が変わったと聞きました」
恒一が言う。
佐伯は仔を見たまま答えた。
「変わりました」
「どう変わりましたか」
「この母系は、楽なところで勝っただけではないかもしれない、と」
「……」
「上で通じる余地がある。そう見えました」
「タチカゼとこの仔は同じ馬ではありません」
「もちろん」
「血も違う部分があります」
「分かっています」
「それでも?」
「それでも、牧場の見立てはつながります」
佐伯はそこで、ようやく恒一を見た。
「勝った馬を見て、仔を見る人は多いです」
「はい」
「でも、負けた馬を見て、仔を見る人は少ない」
「……」
「昨日のタチカゼは、負け方まで見られる馬でした。だから、この仔ももう一度見たいと思いました」
美緒が息を止めて聞いていた。
「値段の話ですか」
恒一が聞く。
「まだです」
「まだ」
「ええ。値段ではなく、順番の話です」
「……」
「この仔を見る順番を、私は上げます」
「ありがとうございます」
「ただし、焦らせません」
「はい」
「昨日のタチカゼも、焦らなかったから三着に残った。なら、この仔も焦らせない方がいい」
その言い方は、ありがたかった。
今すぐ買う。
今すぐ値段を出す。
そういう話ではない。
でも、次へ残る話だった。
事務所へ戻ると、美緒が帳簿を見ながら言った。
「お金はまだ入ってない」
「ああ」
「でも、順番は上がった」
「ああ」
「これ、経営的にはどう見るの?」
「難しいな」
「嬉しいけど、支払いは待ってくれない」
「その通りだ」
美緒は帳簿を閉じなかった。
「兄さん」
「なんだ」
「信用が上がるのと、現金が増えるのは違うんだね」
「ああ」
「かなり違う」
「かなり違う」
「でも、信用がないと現金にもならない」
「そうだな」
「じゃあ、今は途中?」
「途中だ」
その途中が、いちばん苦しい。
夕方、三雲からまた電話が入った。
『今日の動き、聞いたよ』
「耳が早いな」
『仕事だからね。佐伯さん、前倒しで見たんだって?』
「ああ」
『いい流れだね』
「金にはなってない」
『まだね』
「まだ、か」
『まだ、だよ』
「……」
『あと、黒峰から伝言』
「本人じゃないのか」
『今回は伝言だけ』
「何て?」
『次はセリで会いましょう、だって』
恒一は少しだけ黙った。
セリ。
売る場所。
値段がつく場所。
馬が比べられる場所。
黒峰はそこで来る。
レースで先着したから終わりではない。
むしろ、次は黒峰の得意な場所だ。
『榊原さん』
三雲の声が少しだけ低くなる。
『レースでは、タチカゼが見せた。次は、牧場が見せる番だよ』
「セリで?」
『そう。売る馬、売らない馬、見せるだけの馬。そこを間違えると、せっかくの信用が現金にも未来にも変わらない』
「分かってる」
『たぶん、まだ半分くらいしか分かってない』
「お前まで黒峰みたいなことを言うな」
『あれと一緒にしないでよ』
「似てるぞ」
『ひどいな』
電話を切ると、事務所が少し静かになった。
美緒が帳簿を見ている。
机の上には、タチカゼのレース結果、シラユキノハナの仔の見学メモ、ミカヅキノユメの作業表が並んでいる。
勝った紙ではない。
売れた紙でもない。
でも、全部が少しずつ牧場を前へ押している。
夜、恒一は最後にミカヅキノユメを見た。
乾草は減っていた。
水も、昨日よりは減っている。
こちらを見ても、食べるのをすぐにはやめない。
まだ完全ではない。
でも、進んでいる。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
ミカヅキノユメ
気性安定:C
環境変化耐性:D
飼葉食い:回復傾向
水分摂取:改善傾向
環境警戒:高め維持
管理反応:安定方向
総評:悪い報告後の管理継続に反応。完全回復ではないが、預託先への適応が進みつつある
⸻
次に、タチカゼの結果をもう一度見る。
⸻
タチカゼ
本日評価:上位条件三着
上位対応:C+
脚の使い所:改善余地あり
対クロノセイバー:先着
対ゴールデンラダー:未到達
総評:勝利ではないが、上位で消えなかった負け。牧場評価への波及あり
⸻
勝てなかった。
売れたわけでもない。
金が入ったわけでもない。
それでも、電話は鳴った。
人は見に来た。
次の順番が動いた。
負けても、牧場は進む。
ただし、進んだ先には、また別の支払いと、別の勝負が待っている。
次はセリだ。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:42%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
レース線:タチカゼ上位条件三着の評価波及中
次の勝負:セリ戦略/売る馬・売らない馬・見せる馬の選別




