第49話 負け方にも値段がつく【後半】
騎手が跨る。
タチカゼは少しだけ首を使った。
だが、暴れない。
水沢が近づき、軽く首を撫でる。
「前を見すぎるなよ。今日は、見たあとに待て」
馬に言ったのか、自分に言ったのか分からない声だった。
本馬場入場。
タチカゼは前走よりも気合いが乗っていた。
ただ、入れ込みではない。
走る気がある。
それが、今日は少し怖い。
ゲート裏で輪乗りに入る。
クロノセイバーは落ち着いている。
ゴールデンラダーは、さらに静かだ。
「嫌な静かさですね」
美緒が言う。
「ああ」
「ああいう馬、最後まで来そう」
「来るだろうな」
ゲートが開いた。
スタートは悪くない。
タチカゼは前へ行きたがった。
だが、水沢は出しすぎない。
前走より一列後ろ。
中団の少し前。
クロノセイバーは好位。
きれいに三、四番手を取る。
ゴールデンラダーはタチカゼの少し後ろ。
外へ出せる位置にいる。
「位置、嫌ですね」
美緒が言う。
「かなりな」
前半の流れは速い。
ただ、乱れてはいない。
上の相手は、速くても崩れない。
下の条件なら緩むところで、緩まない。
タチカゼはその流れの中で、少しだけ行きたがる。
「一つ目」
恒一が呟いた。
序盤で前へ出たくなるところ。
そこを水沢は抑え込まない。
行かせすぎもしない。
半歩だけ、流れに乗せる。
それ以上は出さない。
タチカゼは我慢した。
向正面。
クロノセイバーは楽に見えた。
好位で脚を溜めている。
馬体がきれいに見える。
タチカゼから見れば、前に捕まえたい馬がいる。
だが、さらに後ろにゴールデンラダーがいる。
見えない圧がある。
「黒峰の馬、動きそう」
美緒が言う。
その言葉の通り、三角手前でクロノセイバーが少しだけ位置を上げた。
派手な動きではない。
だが、前を射程に入れる。
タチカゼも反応した。
「二つ目」
恒一の声が低くなる。
ここで追えば、クロノセイバーを捕まえに行ける。
だが、それは早い。
水沢は待った。
半歩。
いや、一拍。
タチカゼは首を使う。
前へ行きたい。
クロノセイバーを捕まえたい。
だが、まだ行かない。
春日が小さく言った。
「いい。そこで飲み込むな」
タチカゼが伸びる。
前走までの脚とは違った。
速いだけではない。
我慢した分、脚が残っている。
直線へ向く。
クロノセイバーが先頭に並びかける。
タチカゼはその外。
さらに外に、ゴールデンラダー。
まだ来ていない。
だが、来る。
「来る」
恒一が言った。
残り三百。
クロノセイバーが抜け出しかける。
タチカゼとの差は一馬身。
タチカゼは追う。
クロノセイバーも止まらない。
残り二百。
差が半馬身になる。
「届く」
美緒が言った。
「まだだ」
恒一は返した。
届く。
だが、届いたあとがある。
残り百五十。
タチカゼがクロノセイバーに並ぶ。
クロノセイバーは抵抗する。
馬体を並べても、簡単には譲らない。
強い。
やはり強い。
だが、タチカゼも引かない。
残り百。
タチカゼが、わずかに前へ出た。
「交わした」
美緒の声が震える。
黒峰の馬を交わした。
その瞬間だった。
外から、ゴールデンラダーが来た。
派手な脚ではない。
爆発するような脚でもない。
ただ、減らない。
四角からずっと加速していた馬が、直線半ばでもまだ止まらない。
タチカゼがクロノセイバーを交わすために使った脚の外を、静かに通ってくる。
「外」
春日が言った。
水沢は分かっていた。
それでも、もう一度タチカゼに求める。
タチカゼは応えた。
もう一伸びした。
だが、ゴールデンラダーの脚は長かった。
残り五十。
外の馬が半馬身前に出る。
タチカゼは止まっていない。
止まっていないのに、前に出られる。
これが上の相手だった。
ゴール。
一着はゴールデンラダー。
二着にもう一頭、内から粘った馬。
三着、タチカゼ。
クロノセイバーには、わずかに先着した。
勝てなかった。
だが、消えなかった。
美緒はしばらく声を出さなかった。
恒一も同じだった。
悔しい。
かなり悔しい。
だが、胸の奥に別の熱もあった。
「……負けた」
美緒が言う。
「ああ」
「でも、黒峰の馬には勝った」
「ああ」
「でも、一番欲しいところは取れなかった」
「そうだ」
その全部が、今日の結果だった。
春日が静かに言った。
「負け方としては、悪くありません」
「悔しいですね」
恒一が言う。
「ええ」
「かなり」
「それでいいです」
「……」
「悔しくない負けは、次の値段になりません」
水沢が戻ってきた。
タチカゼの息は上がっている。
だが、目は飛んでいない。
脚元も、今すぐ嫌な感じはない。
水沢は下りてから、少しだけ息を整えた。
「勝ち切れませんでした」
「はい」
「でも、早く行っていたら、クロノセイバーにも飲まれていました」
「……」
「待ったから、あそこまで残りました」
「ゴールデンラダーは」
「強かったです」
「届かなかった」
「はい」
「次は」
「もう少しだけ、我慢が残れば変わります」
坂口が出走表を折りたたむ。
「今日の意味は大きいです」
「三着でも?」
「はい」
「なぜ」
「下で勝った馬が、上で消えなかったからです」
「……」
「しかも、黒峰のクロノセイバーには先着した」
「でも、勝ち馬には届いていない」
「だから、次を売れます」
恒一はタチカゼの首元に触れた。
汗が濃い。
息も荒い。
だが、立っている。
「よく走った」
耳が一つ動いた。
勝ってはいない。
それでも、今日は言いたかった。
その後、黒峰からの電話は早かった。
競馬場の帰り道、車の中で携帯が鳴る。
表示を見て、美緒が眉を寄せた。
「黒峰さん?」
「ああ」
恒一は電話に出た。
「榊原です」
『黒峰です』
「はい」
『勝てませんでしたね』
「ええ」
『ですが、こちらには先着した』
「はい」
『面白くありません』
「でしょうね」
『面白くありませんが、認めます』
「……」
『タチカゼは、上でも消えませんでした』
「ありがとうございます」
『礼を言われると、さらに面白くありません』
「すみません」
『ただし、ゴールデンラダーには届かなかった』
「分かっています」
『そこが上です』
「はい」
『次は、もっと嫌な競馬になりますよ』
「それでも、行きます」
『でしょうね。では』
電話は切れた。
美緒がすぐに聞いた。
「何て?」
「面白くないって」
「それは黒峰さんらしい」
「でも、認めてはいた」
「じゃあ、少し勝った?」
「少しな」
「でも、負けた?」
「ああ」
「競馬って、面倒だね」
「今日は特にな」
牧場へ戻る頃には、夕方になっていた。
玲奈がミカヅキノユメの馬房前にいた。
「どうでした」
「三着」
「勝てなかったんですね」
「ああ」
「馬は」
「無事そうだ」
「なら、最初に言うことはそこです」
玲奈は短く頷いた。
「こっちは?」
恒一が聞く。
「食べました」
「どれくらい」
「昨日より少し長く」
「戻ったか」
「その言葉を使うには、まだ早いです」
「そうか」
恒一は少し笑った。
今日は、どこも同じだった。
勝ったとは言わない。
戻ったとは言わない。
でも、残った。
ミカヅキノユメは乾草を噛んでいた。
こちらを見て、すぐには止まらなかった。
それだけで、今日のもう一つの結果だった。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
タチカゼ
気性安定:B-
折り合い:B
心肺:B+
芝適性:B
距離適性:マイル~1800
背腰の張り:B
踏み込み:B+
上位対応:C+
脚の使い所:改善余地あり
本日結果:上位条件三着
総評:勝てなかったが、上位の流れで消えなかった。クロノセイバーには先着。ゴールデンラダーには届かず
⸻
ミカヅキノユメ
気性安定:C
環境変化耐性:D
飼葉食い:回復傾向
水分摂取:改善傾向
環境警戒:高め維持
管理反応:再調整に反応
総評:完全回復ではないが、同じ管理への反応あり。急がず継続
⸻
勝てなかった。
戻り切ってもいない。
だが、どちらも消えなかった。
その夜、佐伯から短い連絡が入った。
佐伯はこのレースを見ているはずだった。
シラユキノハナの仔を見続けると言った人間なら、タチカゼの負け方も見る。
だから、文面を見た時、驚きより先に納得があった。
『今日のタチカゼ、見ました。あの負け方なら、シラユキノハナの仔を見る目が変わります』
恒一はその文面をしばらく見ていた。
勝ちだけが値段になるわけじゃない。
負け方にも、値段がつく。
残り方にも、信用がつく。
今日、タチカゼは勝てなかった。
それでも、牧場の次へつながる負けを持って帰ってきた。
---
榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:41%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
レース線:タチカゼ上位条件三着
評価:クロノセイバーに先着/ゴールデンラダーに届かず




