第49話 負け方にも値段がつく【前半】
レース当日の朝、恒一はミカヅキノユメの馬房を見てから競馬場へ向かった。
乾草は、昨日より減っている。
水も、浅くはない。
まだ完全に戻ったとは言えない。
それでも、馬房の奥に固まっていた昨日までとは違う。
こちらを見て、耳を動かし、それから乾草へ戻る。
その一動作だけで、少し息がしやすくなった。
「兄さん」
美緒が作業表を持って横に立つ。
「こっちは、昨日と同じでいくよ。人も、音も、手順も」
「ああ」
「タチカゼは?」
「同じにはできない」
「……相手が違うから?」
「そうだ」
「急がせない、でも変える。ややこしいね」
「馬より、人間の方がややこしくしてるだけだ」
美緒は作業表を閉じた。
「どっちも難しいね」
「かなりな」
「ミカヅキノユメは、戻すために急がない。タチカゼは、勝つために急がない」
「そうだな」
「勝つために急がない、か。言葉だけ見ると、かなり変」
「俺も、できれば言いたくない」
「でも今日は、それをやるんだ」
「ああ」
玲奈が馬房の横から言った。
「帰ってきた時、ミカヅキノユメに嘘をつかなくて済む競馬をしてきなさい」
「勝てってことか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「勝てなくても、雑に使わなかったと言える競馬」
恒一は少しだけ笑った。
「朝から厳しいな」
「馬の方が、もっと厳しい顔をします」
その言葉を背中に受けて、恒一は競馬場へ向かった。
競馬場の空気は、前走までと違っていた。
人気の中心ではない。
だが、見られてはいる。
連勝して上がってきた馬。
下では強かった馬。
上で通じるかどうかを試される馬。
タチカゼは、そういう目で見られていた。
パドックに着くと、春日が先にいた。
坂口は出走表を折りたたんでいる。
水沢は馬場の方を見ていた。
「おはようございます」
恒一が頭を下げる。
「おはようございます」
春日が返した。
「タチカゼは」
「悪くありません」
「良い、とは言わないんですね」
「今日は、良いと言い切るより、崩れていないことの方が大事です」
「……分かりました」
「はい。今日はそれで十分です」
坂口が出走表を広げる。
「クロノセイバーは四番人気。タチカゼは六番人気です」
「六番人気か。思ったより買われているな」
「連勝分でしょうね。見ている人は見ています」
「ゴールデンラダーは」
「一番人気です。こちらは素直に強い評価です」
「そうか」
紙面の数字が、少しだけ重く見えた。
ゴールデンラダー。
中団から外を回し、長く脚を使う馬。
タチカゼが早く動けば、最後にまとめて使われる。
クロノセイバー。
黒峰スタッドの馬。
好位から自分で動ける、見映えのある馬。
そして、タチカゼ。
勝ち方を覚えた馬。
だが、上の流れはまだ知らない。
「今日は、黒峰の馬を見すぎないことです」
坂口が言う。
「見すぎないで済む相手じゃないでしょう」
「ええ。だから厄介です」
「ゴールデンラダーは」
「もっと目を離せません」
「嫌な並びだな」
「はい。だから、今日の三着にも二着にも意味が出ます」
水沢が短く言った。
「今日は、我慢が三つあります」
「三つ」
「一つ目は、序盤で前へ出たくなった時です」
「はい」
「二つ目は、クロノセイバーが動いた時」
「そこで動きたくなる」
「かなり」
「三つ目は」
「直線で、一度前を捕まえた時です」
「そこでまだ我慢ですか」
「そこで全部使うと、外から来る馬に食われます」
美緒が小さく息を呑んだ。
「差される話を、先に聞くの嫌ですね」
「嫌でいいです」
水沢が答える。
「差される形を知っている方が、まだ残せます」
春日が頷く。
「勝ちに行きます」
「はい」
「ただ、勝ちに行く形を間違えないこと」
「……」
「今日、勝てなくても、形を残せば次につながります」
「負ける前提の話は、好きじゃありません」
恒一が言うと、春日は少しだけ目を細めた。
「私も好きではありません」
「……」
「でも、上へ行く馬は、負けた時に何を持ち帰るかも問われます」
その時、坂口の携帯が短く震えた。
画面を見た坂口が、少しだけ眉を動かす。
「佐伯さんからです」
「佐伯さん?」
美緒が反応する。
「今日のレース、見ています、と」
「……」
「シラユキノハナの仔を見続けるなら、タチカゼの上での走りも見ておきたいそうです」
恒一は、思わず出走表から顔を上げた。
佐伯は馬を見る人間だ。
紙だけで動かない。
なら、タチカゼの勝ち方だけでなく、負け方も見る。
そういう相手だった。
「余計に、安い競馬はできないな」
恒一が言うと、水沢が静かに頷いた。
「はい。形を崩さないことです」
パドックに、タチカゼが出てきた。
体は悪くない。
前走より胸前が少し張って見える。
背中も沈まない。
後ろ脚の踏み込みは、前より体の下へ入っている。
ただ、目が前を見ていた。
前にいる馬を探す目だ。
「勝ちに行く顔だね」
美緒が言った。
「ああ」
「いい顔なのに、怖い」
「いい顔だから怖いんだ」
タチカゼの周回の外側に、クロノセイバーが見えた。
黒鹿毛の見映えのいい馬だった。
歩かせると肩が出る。
首の使い方も大きい。
人が足を止める。
美緒が言った。
「……あれは売れるね」
「そうだな」
「しかも、見た目だけじゃない」
「ああ。走る方にも寄ってる」
黒峰本人の姿は見えなかった。
それが逆に、不気味だった。
馬だけで十分圧がある。
それが、大手の強さだった。
少し離れたところに、ゴールデンラダーもいた。
派手さはクロノセイバーほどではない。
だが、歩きに無駄が少ない。
馬体を大きく見せようとしないのに、体が減らない。
一歩ごとに、地面を静かに拾っていく。
春日が言う。
「あれが一番厄介です」
「見た目はクロノセイバーの方が目立ちます」
「ええ」
「でも」
「ゴールデンラダーは、最後まで減りません」
「派手に見えない強さですか」
「はい。勝ち馬に一番多い嫌な強さです」
恒一はタチカゼへ視線を戻した。
視界に文字が浮かぶ。
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タチカゼ
気性安定:B-
折り合い:B
心肺:B+
芝適性:B
距離適性:マイル~1800
背腰の張り:B
踏み込み:B+
右手前の雑さ:残存・軽減
反応速度:B
前進気勢:A-
上位対応:未知
脚の使い所:要判断
本日評価:上位挑戦
推奨方針:中団差し/クロノセイバーを目標にしすぎない/ゴールデンラダーの仕掛けを待つ
総評:勝ちに行く力はある。だが、勝ち急げば外から使われる。上で残るための我慢が必要
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上で残るための我慢。
今日の答えは、そこにある。




