第48話 タチカゼ、上の相手を見る【後半】
「どう見えますか」
春日が聞いた。
恒一は、タチカゼの背中から目を離さなかった。
「体は前より良くなっています。背腰も締まっている。踏み込みも深い」
「ええ」
「でも、勝ちに行きたがってます」
春日の目が細くなった。
「そこです」
タチカゼが動き出す。
前半はなめらかだった。
前走前より力みは少ない。
走りの中で、背中が無駄に跳ねない。
息の入りも悪くない。
だが、相手役の馬が少し前へ出た瞬間、反応が早かった。
早すぎる。
「今のです」
水沢が言った。
「捕まえに行きたがる」
「前なら武器だった」
「今も武器です。ただ、上では武器を見せるのが早いと、他に使われます」
タチカゼは直線で軽く伸ばされた。
反応はいい。
脚もある。
前の馬との差を詰める速さは、前より増している。
だが、前の馬を見た瞬間、少しだけ気持ちが先へ出た。
騎手が抑える。
半歩待たせる。
タチカゼは一瞬だけ首を使ったが、噛み切らない。
そこからもう一度、脚を出した。
「残ってる」
恒一が言う。
「残っています」
水沢が答えた。
「ただ、本番の流れで同じだけ残せるかは、まだ分かりません」
珍しく、水沢は言い切らなかった。
「勝ちに行ける馬になった。でも、上の相手で勝ちに行った時、どこまで我慢が残るか」
「それを見るレースですか」
「そうです」
春日が追い切りを最後まで見てから言った。
「次は、勝ちに行く競馬です。ただし、勝ちだけを取りに行く競馬ではありません」
美緒が、ぽつりと聞いた。
「負けてもいいんですか」
場の空気が少し止まった。
春日も、水沢も、坂口も、すぐには答えなかった。
恒一が先に口を開いた。
「よくない」
美緒がこちらを見る。
「負けていいレースなんかない」
「……うん」
「でも、勝ち急いで崩す方がもっと悪い」
美緒は黙った。
「次につながる負け方をするために走るわけじゃない。でも、勝てない時に何も残らない競馬はしたら駄目だ」
美緒は唇を結んだ。
「前は、勝ってほしいだけだった」
「ああ」
「今は、勝ってほしい。でも、勝ち方を間違えないでほしい」
「そうだな」
「……嫌だね」
「かなりな」
水沢が少しだけ笑った。
「いい感覚だと思います」
「嫌なのがですか」
「はい。上のレースは、大体嫌です」
坂口が出走予定表を畳んだ。
「クロノセイバーは、おそらく好位から長く脚を使います」
「前にいる」
「はい。ただ、早めに潰しに行くと、ゴールデンラダーに使われます」
「黒峰を見すぎれば、勝ち急ぐ。見なければ、残られる」
恒一は馬場を見る。
タチカゼは息を整えながら歩いていた。
勝った馬の顔をしている。
だが、まだ上の相手を知らない顔でもあった。
帰り際、春日が言った。
「榊原さん」
「はい」
「今回は、勝つために走ります」
「はい」
「でも、結果だけで見ないでください。どこで我慢できて、どこで脚を使えたか。そこを見てください」
「分かりました」
「次の勝ちを作るレースになるかどうかは、そこです」
帰りの車で、美緒はしばらく黙っていた。
それから、窓の外を見たまま言う。
「タチカゼ、強くなったのに、話がどんどん怖くなるね」
「強くなったからだ」
「弱い時の方が楽?」
「楽じゃない。ただ、見えるものは少なかった」
「今は?」
「勝てるものも、失うものも増えた」
美緒は膝の上で作業表を握った。
「ミカヅキノユメと同じだね」
「何が」
「良くなったから、動かしたくなる。タチカゼも、強くなったから勝ちに行きたくなる。でも、そこで急ぐと崩れる」
恒一は答えなかった。
それは、美緒の方が先に言葉にした。
牧場へ戻ると、玲奈がミカヅキノユメの作業表を持っていた。
「少し食べました。水も昨日より減っています」
「首は」
「まだ高いです。でも、朝よりは下がりました」
「そうか」
恒一は厩舎へ向かった。
ミカヅキノユメは乾草の前に立っていた。
食べてはいない。
だが、逃げてもいない。
タチカゼは、上の相手を見る。
ミカヅキノユメは、まだこちらを見る。
どちらも、急げない。
だが、止まるわけにもいかない。
視界に文字が浮かぶ。
――
ミカヅキノユメ
気性安定:C
環境変化耐性:D
飼葉食い:回復傾向
水分摂取:改善傾向
環境警戒:高め維持
管理反応:再調整に反応
推奨対応:現行制限継続/音管理徹底/接触人数固定
総評:回復途上。管理を変えず、同じ日を積むこと。
――
同じ日を積むこと。
勝ちを覚えた馬に、我慢を積ませる。
崩れかけた牝馬に、安心を積ませる。
どちらも派手ではない。
でも、次へ行くには必要な仕事だった。
美緒が馬房の前で言った。
「兄さん」
「なんだ」
「次のタチカゼ、怖い?」
「怖い」
「ミカヅキノユメも?」
「怖い」
美緒は少し笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「怖い馬ばっかりだね、うち」
「生きてるからな」
ミカヅキノユメが、乾草に鼻を近づけた。
食べるか。
食べないか。
恒一は動かなかった。
数秒後、ミカヅキノユメは乾草を一本だけ噛んだ。
たった一本。
それでも、美緒が息を止めたのが分かった。
「……食べた」
「ああ」
恒一は作業表を閉じた。
タチカゼは、初めて上の相手を見る。
ミカヅキノユメは、まだ榊原ファームを試している。
勝つためだけではなく、残るために。
急がず、止まらず。
次の勝負へ向かう。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:40%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B-
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
受託繁殖:ミカヅキノユメ 管理再調整中
配合確定:シラユキノハナ→レッドアーク
受託繁殖配合案:ミカヅキノユメ→サウスエンブレム
レース線:タチカゼが上位条件へ登録予定
次走方針:勝ち急がず、上位の流れで形を残す




