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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第48話 タチカゼ、上の相手を見る【前半】

 ミカヅキノユメの乾草が、朝までに少し減っていた。


 完食ではない。

 水桶の減りも、まだ安心できる量ではない。


 それでも、昨日よりは食べている。


 恒一は馬房の前で、作業表に目を落とした。


 昨夜の記録。

 今朝の記録。

 馬房の前を通った人間。

 物音。

 乾草の減り方。

 水桶の位置。


 勝ち馬の成績表ではない。

 配合説明の紙でもない。


 ただの作業表だ。


 でも今は、この紙が一番牧場を支えていた。


「兄さん」


 美緒が横に来た。

 手には帳簿ではなく、昨日の記録用紙がある。


「少しだけ食べてる」


「ああ」


「安心していい量じゃないけど」


「戻った顔はしてない」


 恒一が言うと、美緒は馬房の奥を見た。


 ミカヅキノユメは、こちらを見ていた。

 首はまだ高い。

 耳も完全には落ち着いていない。


 ただ、昨日のように人の足音すべてを追う感じではなかった。


「今日は変えないんだよね」


 美緒が言う。


「変えない」


「人も、音も、作業も」


「増やさない。急がせない」


 美緒は記録用紙の端を指で押さえた。


「乾草屋さんも、獣医さんも、請求は急がせてくるのにね」


 恒一は返せなかった。


 馬は急がない。

 だが、金は待たない。


「……だから、変えないことを進める」


 ようやくそう言うと、美緒は小さく息を吐いた。


「最近、それが少しだけ分かってきた」


 事務所へ戻ると、電話が鳴った。


 美緒が受話器を取り、すぐに顔を上げる。


「春日先生」


 恒一は受話器を受け取った。


「榊原です」


『春日です。タチカゼの次走について、共有しておきたい話があります』


「はい」


『坂口オーナーとも話しました。次は、条件を一つ上げる方針で進めます』


 受話器を持つ手に、少し力が入った。


「……相手が上がるんですね」


『はい。今度は、勝って当然の相手ではありません』


 タチカゼは勝った。

 連勝した。

 勝ち方も覚えた。


 だが、それは今までの場所での話だ。


 上へ行けば、相手の脚が違う。

 流れも違う。

 騎手の判断も違う。


『今日、来られますか。追い切りを見たうえで、榊原さんの目でも確認してほしい』


「行きます」


 電話を切ると、美緒が机の上の作業表を見た。


「ミカヅキノユメは?」


「午前は今の管理を続ける。玲奈に頼む」


「タチカゼの方に頭を持っていかれすぎないでよ」


 美緒の言葉は軽くなかった。


「分かってる」


「兄さんの“分かってる”は、馬の前だと信用が少し落ちる」


「……言い返せないな」


 玲奈にも話を通すと、彼女は馬房の方を見たまま言った。


「ミカヅキノユメは、まだ戻ったわけじゃありません」


「ああ」


「でも、タチカゼも止める話ではないんですよね」


「そうだ」


「牧場は一頭ずつ見られても、時間は一頭ずつ待ってくれません」


 それが今の榊原ファームだった。


 馬は待ってくれない。

 けれど、人間が急げば壊れる。


 トレセンへ着くと、春日と坂口が馬場脇にいた。

 少し遅れて、水沢も来る。


 春日は挨拶もそこそこに、出走予定表を広げた。


「今までの相手より、最後の脚が長い馬がいます」


「直線だけで終わらない馬、ですか」


「はい。前を捕まえれば終わり、ではありません」


 水沢が腕を組む。


「早く捕まえに行くと、外から別の馬に使われます」


「タチカゼが目標にされる」


「そうです」


 坂口が一頭の名前を指で押さえた。


「ゴールデンラダー。中団から外を回して、長く脚を使うタイプです」


「嫌な馬ですね」


「かなり嫌です」


 続いて、坂口は別の欄を指した。


「黒峰スタッドの馬も来ます。クロノセイバー」


 黒峰スタッド。


 その名前だけで、空気が少し重くなる。


「好位から長く脚を使える馬です。見映えもありますし、売れる馬で、走る方にも寄っている」


「黒峰の馬を見すぎると危ないですね」


 恒一が言うと、春日が頷いた。


「無視はできない。でも、捕まえに行くのが早いと、ゴールデンラダーに使われます」


「遅いと、クロノセイバーに残られる」


 嫌な話だった。


 前にいる黒峰の馬。

 外から来る格上馬。


 タチカゼは、その両方を見ながら走らなければならない。


「追い切りを見てください」


 春日が言った。


 タチカゼが馬場へ出てきた。


 前走後の疲れは見えない。

 体は細くなっていない。

 むしろ、使ったことで中身が詰まったように見える。


 胸前の張り。

 背中の沈まなさ。

 後ろ脚が地面を押す角度。


 良くなっている。


 ただ、その分だけ、気持ちも前へ出ていた。


 前の馬を見る目が早い。


 勝つことを覚えた馬の目だった。


 恒一は、そこが少し怖かった。


 視界に文字が浮かぶ。


 ――


 タチカゼ


 気性安定:B-

 折り合い:B

 心肺:B+

 芝適性:B

 距離適性:マイル~1800

 背腰の張り:B

 踏み込み:B+

 右手前の雑さ:残存・軽減

 反応速度:B

 前進気勢:A-

 上位対応:未知

 脚の使い所:要判断


 本日評価:上位挑戦可

 推奨方針:中団差し/早仕掛け回避/目標にされない位置取り


 総評:勝ち方は覚えた。次は、勝ち急がず上位の流れに残れるかが課題。


 ――


 勝ち急がず、上位の流れに残れるか。


 恒一は表示を見て、ミカヅキノユメの作業表を思い出した。


 戻すために、急がない。

 勝つために、急がない。


 まるで違う話のようで、同じところに戻ってくる。

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