第47話 崩れた時こそ、牧場が見える
翌朝、恒一は目覚ましより早く起きた。
眠れた気がしなかった。
布団の中で考えていても、馬は戻らない。
外へ出ると、まだ薄暗い。
厩舎の戸に手をかけて、恒一は一度止まった。
今日は、音を立てない。
たったそれだけのことが、昨日はできていなかった。
戸を少しずつ開ける。
古い金具が鳴りかけて、恒一は手の力を緩めた。
ミカヅキノユメの馬房へ向かう前に、通路の奥を見る。
昨日、資材の車が入った場所。
古い扉。
跳ねた金具。
反響した音。
全部、今朝は敵に見えた。
馬房の前に立つ。
ミカヅキノユメは奥にいた。
昨日ほど首は高くない。
だが、耳はまだ忙しい。
乾草は、夜のうちに少し減っていた。
水も、ほんの少しだけ減っている。
戻ってはいない。
でも、切れてもいない。
「……よし」
声にしてから、恒一は口を閉じた。
いらない音を減らす日だ。
後ろから足音が近づく。
美緒だった。
いつもより歩き方が静かだ。
手には一枚の紙を持っている。
「兄さん、これ」
紙には、時間、作業者、作業内容、音、馬の反応、次回注意点の欄があった。
「作業表か」
「昨日みたいに、“たぶんあの音だったかも”で終わらせたくない」
美緒の字は硬かった。
昨日、自分が午前の接触から外れたことを、まだ引きずっている。
「美緒。昨日のは、お前のせいじゃない」
「分かってる」
美緒は紙の端を指で押さえた。
「でも、私もここで働いてる。謝って終わりにはしたくない」
恒一は返せなかった。
美緒は続ける。
「次に残す。私にできるのは、今はそれくらい」
「……それくらいじゃない」
美緒が少しだけ顔を上げた。
「それが、今一番いる」
そこへ玲奈が来た。
馬房へ近づく前に、通路の手前で止まる。
馬を見るより先に、扉と通路と人の位置を見た。
「札、出して」
美緒がすぐ頷く。
ミカヅキノユメ周辺 午前通行制限。
作業者以外立入禁止。
扉の開閉は一回ずつ記録。
事務所で作ったらしい札は、少し大げさだった。
だが、その大げささが今日は必要だった。
玲奈は馬房の外から、ミカヅキノユメを見る。
「食いは、少し戻りかけ」
「戻ったとは言わないんだろ」
「言わない」
玲奈は体温計を手にしたまま、すぐには入らなかった。
「今日は、測らない理由を記録してから、測らない」
美緒のペンが動く。
八時十分。
体温測定見送り。
理由、接触刺激を避けるため。
外観上、急性症状薄い。
「硬いな」
「硬い方が後で読める」
玲奈は短く返した。
「感情は馬房の前で使って。紙には残さない」
ミカヅキノユメはこちらを見ていた。
だが、昨日より目の奥が少し柔らかい。
恒一は一歩下がった。
「今日は、戻す日じゃない」
玲奈が言う。
「崩れる理由を増やさない日」
その言葉が、厩舎の湿った空気に落ちた。
午前中、厩舎は不自然なくらい静かだった。
普段なら戸の音がする。
バケツを置く音がする。
誰かの短い声が飛ぶ。
今日は違う。
音がしないことを、みんなで仕事にしている。
昼前、小田切が来た。
顔が硬い。
当然だった。
自分の馬が崩れたと聞いて、平気な顔で来られるはずがない。
「どうですか」
挨拶より先だった。
「昨日よりは少し食べました」
恒一は作業表を渡した。
「戻ったとは言いません。ただ、止まってもいません」
小田切は紙を見た。
扉の音。
通行人数。
乾草への反応。
水桶の減り。
指が、途中で止まる。
「ここまで書くんですか」
「書かないと、また馬のせいにしてしまうので」
小田切が顔を上げた。
「馬のせい?」
「気難しい馬だ、で終わらせられる。でも、昨日の音はこっちの管理です」
小田切は何も言わなかった。
玲奈が続ける。
「急変の兆候があれば処置します。ただ、今は薬で押すより、刺激を減らして食いの戻りを見る段階です」
「触らないんですか」
「必要なら触ります。でも、触ることでさらに固まるなら、それもリスクです」
小田切は馬房を見た。
ミカヅキノユメは奥からこちらを見ている。
近づきすぎない位置で止まると、耳が少し動いた。
「うちにいた時も、こういうことはありました」
小田切が低く言った。
「音も、人も。誰かが“少しだから大丈夫”と言った日に、食いが落ちる」
「……」
「でも、ここまで原因を分けてくれたことはありませんでした」
褒められているのではない。
それだけ、この馬が曖昧に扱われてきたということだった。
「戻します」
恒一は言った。
「時間はかかるかもしれません」
「かかってもいいです」
小田切は作業表を折らずに持った。
「隠さず言ってくれるなら」
午後、黒峰が来た。
呼んではいない。
だが来るだろうとは思っていた。
黒峰は馬房へは行かなかった。
事務所で作業表だけを見た。
「細かいですね」
「必要なので」
「これを毎日やるつもりですか」
「必要な間は」
「効率は悪い」
「でしょうね」
「うちなら、一頭にここまでは割けません」
黒峰は紙を机に置いた。
「やはり、うちの判断は間違っていません」
「そうですね」
恒一は答えた。
「黒峰スタッドなら、この馬は優先しない方が正しい」
美緒が横で息を止める。
黒峰の目が少し細くなった。
「それで、榊原ファームは?」
「うちが受けたのも、間違いにはしません」
「戻せますか」
「戻します」
「根拠は?」
「昨日より水が減った。乾草も少し減った。首の高さも下がった」
「弱いですね」
「弱いです」
恒一は馬房の方を見た。
「でも、この馬には、その弱い変化を見る必要がある」
黒峰はしばらく黙った。
「あなたのやり方は、拡大しにくい」
「分かっています」
「一頭に手間をかけるほど、頭数を増やせない。経営としては弱点です」
「そう思います」
「でも」
黒峰は間を置いた。
「この馬には合っているかもしれない」
それは、黒峰なりの認め方だった。
「見ていてください」
「もちろん」
黒峰は作業表をもう一度見た。
「崩れた馬を戻せるなら、配合説明より価値があります」
黒峰が帰ったあと、美緒がぽつりと言った。
「嫌な人だけど、見るところは見てる」
「ああ」
「拡大しにくいって、痛いね」
「痛いな」
美緒は帳簿の上に置いた作業表を見た。
「でも、今のうちが急に大きくしたら崩れる。馬も、人も」
「そうだ」
「じゃあ、弱点ごと方針にするしかない」
少数管理。
丁寧。
聞こえはいい。
実際は、頭数を増やせない。
売上も急には増えない。
人も足りない。
それでも、そのやり方でしか返せない馬がいる。
夕方、ミカヅキノユメが乾草を食べた。
一口ではない。
三口、四口。
途中で顔を上げたが、すぐにまた乾草へ戻った。
美緒が息を止める。
「数えない」
玲奈が言った。
「数えると、こっちが焦る」
「……うん」
それでも、美緒の手は作業表へ伸びていた。
十七時二十分。
乾草摂取。
昨日より継続。
途中警戒あり。
再摂取あり。
恒一は馬房の前で、静かに息を吐いた。
戻ったとは言わない。
でも、戻る方へ向いた。
⸻
ミカヅキノユメ
気性安定:C
環境変化耐性:D
脚元耐久:C-
飼葉食い:低下から回復傾向
水分摂取:改善傾向
環境警戒:高め維持
管理反応:再調整に反応
推奨対応:作業表継続/音管理徹底/接触人数固定
総評:完全回復ではないが、管理変更への反応あり。崩れた時の戻し方が牧場の信用になる
⸻
夜、小田切にもう一度電話を入れた。
「夕方、乾草を少し長く食べました」
『戻りましたか』
「まだです」
恒一は馬房の暗がりを見た。
「でも、戻る方へ向きました。明日も同じ管理で見ます」
『分かりました』
小田切の声が、少しだけ緩んだ。
『その報告だけで、今日は眠れそうです』
電話を切ると、美緒が静かに言った。
「悪い報告のあとに、少し良い報告ができたね」
「ああ」
「でも、完全に良いとは言わない」
「言わない」
「難しいね」
「難しいな」
恒一は作業表を見た。
そこには、今日一日の音と、人と、馬の反応が残っていた。
勝った馬の成績表ではない。
配合の説明紙でもない。
それでも、今の榊原ファームに必要な紙だった。
崩れた時こそ、牧場が見える。
その紙は、そう言っていた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:40%
榊原ファームの経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B-
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
受託繁殖:ミカヅキノユメ 管理再調整中
配合確定:シラユキノハナ→レッドアーク
配合確定:ミカヅキノユメ→サウスエンブレム
ミカヅキノユメ:飼葉食い回復傾向/環境警戒高め維持




