第46話 ミカヅキノユメ、崩れる
異変は、派手には来なかった。
朝、ミカヅキノユメの馬房を見た時、恒一はすぐには気づかなかった。
馬は立っている。
暴れてもいない。
汗もかいていない。
脚元にも、見てすぐ分かる腫れはない。
ただ、水桶の減りが浅かった。
乾草も残っている。
「兄さん」
先に気づいたのは美緒だった。
「昨日より食べてない」
「ああ」
恒一は馬房の前で足を止めた。
ミカヅキノユメは馬房の奥にいる。
こちらを見ている。
耳が忙しい。
昨日までより、ほんの少し首が高い。
それだけだ。
でも、それだけで十分だった。
「玲奈を呼べ」
「うん」
美緒はすぐ走った。
ミカヅキノユメは動かない。
乾草へ戻らない。
こちらを見て、通路の奥を見て、またこちらを見る。
見た目には大きな問題はない。
だからこそ、嫌だった。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
ミカヅキノユメ
気性安定:C
環境変化耐性:D
脚元耐久:C-
飼葉食い:低下
環境警戒:上昇
水分摂取:やや低下
管理反応:不安定
推奨対応:接触人数維持/音源確認/給餌順固定再確認
総評:大きな疾病兆候は薄いが、環境警戒による食い落ちが出ている可能性あり
⸻
病気ではない。
だが、崩れている。
その方が、ある意味では厄介だった。
玲奈が来る。
馬房の前に立った瞬間、すぐに言った。
「近づきすぎないで」
「分かってる」
「昨日、何か変えた?」
「変えてない」
「人は?」
「増やしてない」
「給餌の時間」
「同じ」
「水桶」
「同じ」
「通路の作業は?」
「……」
そこで恒一は言葉を止めた。
昨日の夕方。
佐伯が帰ったあと、通路の奥で美緒が開示先の管理表を整理していた。
その時、資材を運ぶ車が一台入った。
いつもより遅い時間だった。
古い扉を開ける音がした。
金具が跳ねる音も、少し大きかった。
「資材の車が来た」
「何時」
「夕方。いつもより遅い」
「音は?」
「大きかった」
「それね」
玲奈は即答した。
「それだけで?」
美緒が言う。
「この馬なら、それだけで十分」
「……」
美緒の顔が曇る。
「私、事務所にいた」
「美緒のせいじゃない」
玲奈が短く言った。
「でも、記録には残す」
「うん」
ミカヅキノユメは、まだ乾草へ戻らない。
恒一は一歩下がった。
「どうする」
「まず余計なことをしない」
玲奈が言う。
「触る?」
「今は触らない。体温は測りたいけど、近づいてさらに固まるなら逆効果」
「獣医師らしくないな」
「獣医師だから言ってるの」
玲奈は馬房の外から、目、耳、立ち位置、呼吸を見る。
「大きな熱発の感じは薄い。腹も今すぐ危ない感じじゃない」
「でも食ってない」
「だから、環境を戻す」
「何を」
「音を減らす。人を減らす。作業順を昨日より一段戻す」
「戻す?」
「入ってきた日のルールに戻す」
美緒がすぐにメモを取る。
「接触、兄さんと玲奈さんだけ?」
「最初はそう」
「私は?」
「今日の午前は外れる」
「分かった」
美緒は何も言い返さなかった。
それが逆に、少し痛かった。
ミカヅキノユメの管理は、うまくいき始めていた。
だから、少しだけ安心していた。
その隙を、馬は見逃さない。
昼前になっても、乾草の減りは鈍かった。
水は少し飲んだ。
だが、いつもの量には足りない。
美緒が事務所で帳簿を開いたまま、手を止めていた。
「兄さん」
「なんだ」
「小田切さんに言う?」
「言う」
「今?」
「今」
美緒は少しだけ息を止めた。
「悪い報告だよ」
「ああ」
「まだ、様子見って言えなくもない」
「それは、こっちが楽なだけだ」
「……」
「預かった馬が崩れかけてる。なら、先に言う」
電話をかける。
小田切はすぐ出た。
『榊原さん』
「ミカヅキノユメの件です」
『何かありましたか』
「今朝から飼葉食いが落ちています。水も少し浅い」
『……』
「大きな熱発や疝痛の兆候は薄いです。ただ、環境警戒が上がっています」
『原因は』
「昨日夕方の作業音が影響した可能性があります。こちらの管理不足です」
『管理不足?』
「予測できたかもしれない」
『……』
電話の向こうで、小田切が息を吐いた。
『隠さず言ってくれたんですね』
「当然です」
『当然じゃないですよ』
「……」
『悪い話ほど、後から聞かされる方が怖い』
「すみません」
『謝るより、戻してください』
「戻します」
『お願いします』
電話を切ると、美緒が小さく言った。
「怒ってなかった?」
「怒ってはいない」
「でも、重かった」
「ああ」
「預かるって、こういうことなんだね」
「そうだな」
午後、玲奈と作業を組み直した。
資材搬入は厩舎から遠い時間へずらす。
扉の開閉を変える。
給餌順を固定し直す。
馬房前を通る人数を減らす。
美緒は作業表を一枚作った。
「ミカヅキノユメ周辺、午前中は通行制限」
「書き方が硬いな」
「硬い方が守れる」
「そうだな」
馬房へ戻ると、ミカヅキノユメはまだ奥にいた。
だが、朝より首は少し下がっていた。
乾草へ一度だけ鼻を近づける。
食べない。
それでも、近づいた。
今は、それを見るしかない。
夕方、ようやく一口食べた。
本当に一口だけだった。
乾草を噛んで、すぐ顔を上げる。
耳はまだ忙しい。
だが、食べた。
「食べた」
美緒が小さく言う。
「ああ」
「一口だけ」
「一口でいい」
玲奈が横で頷く。
「今日は、それで前進」
「戻ったとは言わないんだな」
「言わない。明日また見る」
「厳しいな」
「馬の方がもっと厳しい」
恒一は馬房の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
勝った。
評価も上がった。
説明紙も作った。
見せる相手も選んだ。
それでも、一頭の牝馬は、扉の音一つで食いを落とす。
それが牧場だった。
事務所へ戻ると、電話が鳴った。
美緒が出る。
表情が変わる。
「兄さん」
「誰だ」
「黒峰さん」
恒一は受話器を取った。
「榊原です」
『黒峰です』
「はい」
『ミカヅキノユメ、崩れたそうですね』
声は淡々としていた。
早い。
相変わらず早い。
小田切の側から漏れたとは思わない。
ただ、今日は資材業者も入っている。玲奈も来た。出入りのどこかで、馬の名前だけが人の口に乗ったのかもしれない。
悪い話は、いい話より足が速い。
「どこで聞きました」
『この世界では、悪い話の方が早い』
「そうですか」
『だから言ったでしょう。手間がかかる牝馬だと』
「ええ」
『これで分かったのでは?』
「何がですか」
『なぜ、うちでは優先しなかったか』
「分かりました」
『なら』
「でも、受けた理由も分かりました」
電話の向こうが少し黙る。
「崩れた時に、切るか戻すか」
『……』
「そこを見るために受けたんです」
『強がりですか』
「強がりなら、今日のことを隠しています」
『……』
短い沈黙のあと、黒峰が言った。
『戻せるなら、少し面白い』
「戻します」
『見ています』
電話は切れた。
美緒が不安そうに見る。
「何て?」
「見てるってさ」
「嫌な人」
「でも、今回は見られていい」
「なんで」
「崩れた時にどうするかが、牧場だからだ」
その夜、恒一は最後にもう一度だけミカヅキノユメを見に行った。
乾草は、朝よりほんの少し減っていた。
水桶も、少しだけ減っている。
戻ったわけじゃない。
でも、完全には切れていない。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
ミカヅキノユメ
気性安定:C
環境変化耐性:D
脚元耐久:C-
飼葉食い:低下中
水分摂取:やや改善
環境警戒:高止まり
管理反応:再調整中
推奨対応:現行制限継続/音・通行管理強化/報告継続
総評:崩れは小さいが見逃せない。回復より先に、原因を増やさないこと
⸻
回復より先に、原因を増やさないこと。
分かりやすい。
恒一は馬房の前で、小さく頷いた。
いい報告だけで信用は作れない。
悪い兆候を隠さず、戻すために動く。
それができなければ、預かる資格はない。
ミカヅキノユメは、まだこちらを信用していない。
だからこそ、ここからだった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:39%
榊原ファームの経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B-
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
受託繁殖:ミカヅキノユメ 管理再調整中
配合確定:シラユキノハナ→レッドアーク
配合確定:ミカヅキノユメ→サウスエンブレム
ミカヅキノユメ:環境警戒上昇/飼葉食い低下中




