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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第37話 勝ち方を覚える

 次走の朝、恒一は目覚ましが鳴る前に起きていた。


 眠れなかったわけじゃない。

 ただ、身体が先に起きた。


 前走の朝の緊張とは少し違う。

 あの時は、ちゃんと走れるかどうかだった。

 今日は違う。


 勝ちに行く朝だった。


 事務所に入ると、美緒が新聞を机に広げていた。

 恒一の顔を見るなり、紙面を指で叩く。


「一番人気」


「ああ」


「嫌だね」


「俺もだ」


 美緒は笑わなかった。


「前は“出られるかな”だったのに、今日は“落としたら痛いな”だよ」


「そうだな」


「でも、逃げたくはない」


「……」


「前は当たらないでほしいって思ってた。でも今日は違う。勝ってほしい」


「かなり?」


「かなり」


 恒一は少しだけ口元を緩めた。


「俺もだ」


 流しの前で手を拭いていた玲奈が、そこで口を挟む。


「人気は薬じゃないわよ」


「分かってる」


 美緒が言う。


「でも気になる」


「気にするのは勝手。ただし、人間が人気を見て速くなったら終わり」


「今日はそこを分ける」


 恒一が言った。


「勝ちたいのと、急ぐのは別だ」


「その言い方なら、まだ大丈夫ね」


 競馬場へ向かう車の中で、美緒は新聞を二度畳んで、結局もう一度開いた。


「兄さん」


「なんだ」


「黒峰の馬、やっぱりいる」


「ああ」


「嫌な並びだね」


「かなりな」


 黒峰スタッドの馬は、前走も悪くなかった。

 こちらの勝ちを見て、条件を合わせてきた気配がある。


「でも」


 美緒が言う。


「避けなかったのは好き」


「俺もだ」


「勝ってほしい?」


「勝ってほしい」


「かなり?」


「かなりな」


 その答えに、もう迷いはなかった。


 競馬場に着くと、春日は前走より厳しい顔をしていた。

 坂口は出馬表を折ったまま持っている。

 少し遅れて水沢が来た。


「馬は悪くありません」


 春日が先に言う。


「前走後の反動は浅い。食いも落ちていない」


「はい」


「ただし、今日は前走ほどきれいにはいかないと思ってください」


 坂口が出馬表を開く。


「前に行く馬がいます。外から動く馬もいます」


「楽な形は薄い」


「そうです」


 水沢が短く言った。


「今日は我慢が二回要ります」


「二回」


 恒一が聞き返す。


「一回目はゲートを出た直後」


「……」


「二回目は四角。前を早く捕まえたくなるところ」


「そこで行ったら?」


「最後の百で甘くなります」


 春日がタチカゼの方へ目を向けた。


「今日は、前向きさを使う日です」


「はい」


「ただし、前向きさに使われたら負けます」


 その言葉が、今日の全部だった。


 タチカゼがパドックへ出てくる。


 前走より気合いは乗っている。

 だが、うるさいわけじゃない。

 歩様は素直だ。目も飛んでいない。

 ただ、前へ行く意志が前よりはっきりしている。


「前より勝ちに行く顔だな」


 恒一が言う。


 美緒が小さく笑った。


「馬の顔でそこまで分かる?」


「気がするだけだ」


「でも、兄さんがそういう時、最近だいたい当てる」


 パドックの外に、黒峰雅人が立っていた。


 距離を詰めてくるわけでもない。

 だが、見ていることを隠さない。


「榊原さん」


 先に声をかけてきたのは黒峰の方だった。


「おめでとうございます。前走は見事でした」


「どうも」


「今日は簡単じゃないですよ」


「そうだろうな」


「でも、避けなかった」


 黒峰は少しだけ笑った。


「そこは嫌いじゃありません」


「そっちも合わせてきたろ」


「ええ。勝つ馬を見るのも、仕事なので」


 嫌な言い方だった。

 だが、嘘はない。


「今日は負けませんよ」


 黒峰が言う。


「こっちもだ」


 恒一が返すと、黒峰は頷いただけで離れた。


 水沢が横で小さく言う。


「今の人、嫌いじゃないです」


「どういう意味だ」


「嫌な相手ほど、勝つと残るので」


 騎手が跨る前、坂口が恒一の方を見た。


「少しだけ、見てやってください」


 春日も止めなかった。


 恒一は「失礼します」と小さく言って、一瞬だけタチカゼの首元に触れた。


 汗は薄い。

 筋肉は張っている。

 耳の動きは忙しいが、気持ちは散っていない。


 視界に文字が浮かぶ。



タチカゼ


気性安定:B-

折り合い:B

心肺:B

芝適性:B

距離適性:マイル~1800

右手前の雑さ:残存・軽減

反応速度:B

前進気勢:A-


本日評価:勝負圏

推奨方針:好位差し/二段階我慢


総評:前へ行く力は十分。急がず、二回我慢できれば取り切れる。



 本馬場入場のあと、恒一はもうほとんど喋らなかった。

 美緒も同じだった。


 タチカゼは中ほどでゲートに入る。

 前走より迷いがない。

 扉が閉まる。

 少し間があって、開いた。


 出た。


 悪くない。

 ただ、前走より一完歩目から前へ行きたがる気持ちが強い。


 一回目。


 さっき水沢が言った言葉が、恒一の頭に戻った。


 騎手は抑え込まない。

 行かせすぎもしない。

 半馬身だけ前へ出す。

 それ以上は出さない。


 タチカゼは少しだけ首を使った。

 だが、そこで噛み切らない。

 好位の内目に収まった。


「いい」


 春日が短く言う。


 前に黒峰の馬がいる。

 こちらを見ながら、いい形で先行していた。


「嫌な位置だな」


 恒一が言う。


「かなり」


 美緒も小さく返した。


 向正面で流れが少し緩む。

 そこで外から一頭が早めに動いた。

 人気馬を見て、競馬が動く。


 タチカゼも行きたがる。

 前を捕まえに行きたい気持ちが伝わってきた。


 だが、騎手はそこで動かない。

 ほんの一拍だけ待つ。

 その一拍で、タチカゼの気持ちも一緒に飲ませる。


「まだ行かない」


 恒一の声が低くなる。


 四角手前、前の黒峰の馬が先に動いた。

 押している。逃がす気がない脚色だった。


「来た」


 美緒が息を呑む。


 ここが二回目だった。


 タチカゼは一瞬、飛びつきかけた。

 そこで右手前の雑さが出る。

 前肢の入りが半拍だけ乱れる。


 冷たいものが背中を走る。


 だが、崩れない。


 騎手は行きたがる気持ちを全部は放さず、半歩だけ待たせた。

 その半歩で、脚が戻る。


「残った」


 春日が言った。


 直線へ向く。


 黒峰の馬が先頭。

 タチカゼはその後ろ。

 外へ出される。


 前走のような、いい脚で二着までという形じゃない。

 今日はもう少し速い。

 前を捕まえる脚だった。


 一頭交わす。

 差が詰まる。


 残り二百。

 まだ半馬身ある。


「届く?」


 美緒の声が細くなる。


「届け」


 恒一はそれしか言えなかった。


 タチカゼは止まらない。


 残り百で並ぶ。

 黒峰の馬も食い下がる。

 だが、そこからさらにひと伸びした。


「差した」


 恒一の口から声が漏れた。


 そのまま、先頭でゴールを抜ける。


 一瞬、音が遠かった。

 勝った。

 しかも今度は、ちゃんと取り切った。


「……勝った」


 美緒が言う。


「ああ」


「今のは、すごい」


「すごいな」


 春日が小さく頷く。


「今日は勝っただけじゃありません」


「……」


「二回我慢して、その上で取り切った」


「はい」


「それが大きい」


 水沢も珍しく少しだけ笑った。


「前走より面倒な競馬でした」


「そうですね」


「でも、勝ち方になりました」


 坂口が出馬表を折りたたむ。


「これで意味が変わります」


「どう変わる」


 恒一が聞く。


「前走は、勝てる馬の証明でした」


「……」


「今日は、崩されかけても勝てる馬の証明です」


 それは大きかった。


 パドックへ戻ってきたタチカゼは、息は上がっている。

 それでも目は散っていない。

 前より少しだけ、自分で分かっている顔をしていた。


 恒一は首元に触れた。


「よくやった」


 耳が一つ動く。


 美緒はまだ半分呆れていた。


「兄さん」


「なんだ」


「前より、ずっとすごい」


「ああ」


「勝っただけじゃないね」


「そうだな」


 春日がそこで言う。


「喜ぶのはいいです」


「はい」


「ただし、ここで完成したと思わないこと」


「分かっています」


「本当に?」


「はい」


「ならいい」


 少し置いて、春日は続けた。


「前走は競馬を覚えた」


「はい」


「今日は勝ち方を覚えた」


「……」


「次からは、どこまで上を見られるかです」


 帰りの車で、玲奈に電話を入れる。


「どうだった」


『勝った?』


「勝った」


『うん』


「しかも、かなり面倒な勝ち方だった」


『それはいい』


「そこはやっぱり短いな」


『だってそこが大事なんでしょ』


「そうだ」


『じゃあ良かった』


「かなり良かった」


『なら十分』


 牧場へ戻ると、夕方の空気はいつも通りだった。


 フユノホシは静かだ。

 シラユキノハナの仔も、今日も地味だ。

 でも景色は、前より確実に変わっていた。


 タチカゼは、ただ勝った馬じゃない。

 勝ち方を覚えた馬になった。


 それは、牧場の次を一つ押し上げる。


「兄さん」


 美緒が横に来る。


「なんだ」


「今、どんな気分?」


「……前より落ち着いてる」


「へえ」


「その代わり」


「うん」


「前より、もっと欲が出た」


「かなり?」


「かなりな」


 美緒は笑った。


「それなら大丈夫」


「何が」


「欲がある兄さんは、最近ちゃんと怖がってる」


「褒めてるのか?」


「褒めてる」


 恒一は小さく息を吐いた。


 勝った。

 しかも、取り切った。


 それだけで、良かった。


---


榊原恒一の現状


牧場経営力:B+


配合読解:C-


繁殖観察:B+


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:B


交渉・信頼:A-


牧場再建度:35%



榊原ファーム経営状況


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:再編中


若駒資産価値:A


自家保留価値:A


牧場ブランド:C+


倒産危険度:高



補助表示


若馬売却成否:成立


育成先:北斗トレーニングファーム


レース線:タチカゼが同条件勝利


次走方針:相手強化でも対応可能範囲上昇

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