第36話 勝った馬は、待ってくれない
勝ったあとの一週間は、思ったより短かった。
電話は増えた。
見学の話も増えた。
フユノホシの値段も、昨日までとは少し違うところで見られ始めた。
だが、タチカゼの時間はそれと別に進む。
勝った馬は、こっちの都合では待ってくれない。
朝の事務所で、美緒が受話器を押さえたまま言った。
「兄さん。坂口さん。今日、来られるなら来てほしいって」
「今?」
「うん。春日先生と、次走の話をするみたい。兄さんにも、タチカゼを見て意見を聞きたいって」
恒一は手を拭きながら受話器を取った。
「榊原です」
『坂口です。急ですみません。春日先生と水沢騎手が来ています』
「水沢騎手?」
『前走の騎手です。今のタチカゼをどう使うか、乗る側の意見も聞きたいので』
「分かりました。行きます」
『もちろん、最終的にはこちらと春日先生で決める話です。ただ、あの馬を一番長く見てきた生産者として、榊原さんの目も借りたい』
「……ありがとうございます。見たことは、正直にお伝えします」
電話を切ると、美緒が聞いた。
「次、決めるんだ」
「決めるのは坂口さんと春日先生だ」
「あ、そっか」
「タチカゼはもう、うちの馬じゃない」
口にすると、少しだけ胸の奥が沈んだ。
売った馬だ。
所有者は坂口で、管理するのは春日調教師。
榊原ファームに、出走させる権利も、育成方針を決める権利もない。
それでも呼ばれた。
それは、権利ではなく信用だった。
「でも、兄さんの意見は聞きたいってことだよね」
「ああ」
「なら、ちゃんと見てきて」
「分かってる」
玲奈が薬箱を閉じた。
「そこを間違えない方がいいわね」
「何を」
「決める立場じゃない。でも、黙っていい立場でもない」
「……」
「見てきた人間にしか分からない癖はある。脚元、気性、疲れ方、戻し方。そういう情報は、馬主や調教師にとっても意味がある」
「口出しじゃなくて、情報提供か」
「そう。余計な口出しをしないためにも、言うべきことだけ正確に言うの」
その言い方は、ひどく現実的だった。
トレセンに着くと、春日と坂口が馬場の脇に立っていた。
その隣に、水沢がいる。
「榊原です」
「水沢です」
男は短く名乗った。
「前走、乗りました」
「ありがとうございました」
「勝ったのは馬です」
「それでもです」
水沢は少しだけ口元を緩めた。
「そういう返しは嫌いじゃないです」
春日がすぐに本題へ入った。
「今日は、榊原さんに次走を決めてもらうために呼んだわけではありません」
「はい」
「そこは坂口オーナーと私の責任です。ただ、タチカゼの幼い頃からの癖や、勝ったあとの変化について、あなたの目で見たものを聞きたい」
「分かりました」
「前回と同じ競馬ができるかを見るだけなら、こちらで済みます」
「……」
「今日見たいのは、勝ったあとに馬の気持ちがどこへ向いているかです」
「気持ちですか」
「ええ。前回勝って、馬の中で何かが一段前へ出ています」
春日は馬場へ目を向けた。
「その気持ちを抱えたまま、人の指示の中に置けるかを見る」
「そこが次の勝負ですか」
「そこです」
タチカゼが出てきた。
前走のあとに緩んだ感じはない。
食いも落ちていない。
ただ、目つきが少し違う。
一度勝った馬の顔だ、と恒一は思った。
「気配はどう見えますか」
春日が聞いた。
恒一はすぐには答えなかった。
決めるのは自分ではない。
だからこそ、余計な言葉はいらない。
見えたことだけを言う。
「悪くはないです。ただ、前より先に行きたがってます」
「それはこちらも同じ見立てです」
春日が頷く。
「前向きさは増えています。ただ、それが今はまだ人の外に出ていない」
「そこが残ってるなら使える」
水沢が言った。
「外に出たら、無理に使う馬じゃないです」
助手が跨る。
春日が短く指示を飛ばした。
「前半は行かせる。抑え込みすぎるな。終いだけ少し伸ばす」
「はい」
タチカゼが動き出す。
前へ出る気は確かに強い。
だが、前走前のような“行くだけ”の感じではない。
仕事に向かう気持ちが先に立っている。
「前より行きますね」
恒一が言う。
「行きます」
水沢が答えた。
「それ自体は自然です」
「危ないのは?」
「勝った形を、早くもう一回やりたがることです」
その一言は分かりやすかった。
前へ行きたい。
しかも、前より強い。
その気持ちを使い切る前に、競馬の形へ戻せるかが大事なのだ。
少し流してから、終いだけ伸ばす。
タチカゼは反応した。
前走前より反応が早い。
そのぶん、右手前の雑さも早めに出る。
前肢の入りが半拍だけ乱れた。
「今、出ました」
恒一が言う。
水沢がすぐに続けた。
「でも、残ってる」
「何がですか」
「人の指示です。危ない馬は、あそこで気持ちだけ先に行く」
「タチカゼは?」
「一回崩れて、自分で戻そうとしてる。そこは乗れます」
史門が横で頷いた。
「前は、あそこで少し走りが薄くなってました」
「今は?」
恒一が聞く。
「薄くなる前に戻せてます。そこは進んでます」
視界に文字が浮かぶ。
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タチカゼ
気性安定:B-
折り合い:B
心肺:B
芝適性:B
距離適性:マイル~1800
右手前の雑さ:残存・軽減
反応速度:B
前進気勢:A-
推奨方針:好位差し/早仕掛け抑制
総評:勝ったあとの前向きさが出ている。制御できる範囲なら武器になる。
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恒一は表示を見たあと、すぐに消した。
これは自分だけの情報だ。
そして、これだけで誰かの判断を奪っていいものではない。
見えているものを、そのまま人に押しつければ、それは助言ではなく支配になる。
恒一は、春日へ向き直った。
「生産時から見ていた時のタチカゼは、気持ちが先に行くと右手前の雑さが強く出ました」
「今もそこは残っていますね」
「はい。ただ、前より戻そうとしています」
「同感です」
「使うなら、楽に勝たせるより、流れの中で我慢させた方が良いように見えます」
春日は黙って聞いた。
恒一は続ける。
「もちろん、最終判断は先生と坂口さんです。俺は、そう見えたというだけです」
「それで十分です」
春日は最後まで調教を見てから言った。
「次も使う方針で進めます」
言い切ったのは、春日だった。
横で坂口が資料に目を落とし、静かに頷く。
「春日先生の方針に、私も乗ります」
恒一は口を挟まなかった。
タチカゼはもう、榊原ファームの馬ではない。
この場で決める権利は、自分にはない。
けれど、胸の奥は熱かった。
売った馬が、ちゃんと次の舞台へ向かっている。
それを見届けることも、生産者の仕事なのだと思った。
「待たないんですか」
恒一が聞く。
「待たせる手もあります」
春日は答えた。
「ただ、この馬は今、競馬を一つ覚えた直後です」
「……」
「その前向きさを、次の競馬へつなげたい」
「相手は前より強くなりますよね」
「なります」
「それでも」
「それでも、今の方が競馬を作りやすい」
水沢がそこで口を挟んだ。
「楽な相手の方が、この馬には危ないかもしれません」
「どういうことですか」
「流れが緩むと、自分で早く終わらせたがる」
「……」
「ある程度、競馬が流れてくれた方が、人の中に置きやすいです」
坂口が資料をめくる。
「番組は前回の延長線上で考えます」
「同じ条件ですか」
「本線は近いところです。ただ、相手は一段上がると思ってください」
「分かりました」
「それと」
坂口が顔を上げた。
「黒峰スタッドの馬が、同時期に近い条件へ来る可能性があります」
「……」
「避ける選択肢もありますが」
「私は避けない方がいいと思っています」
春日が言った。
「今、相手を見て下げると、馬より人が小さくなる」
その言い方は、少し刺さった。
黒峰雅人。
あちらがこちらを意識して動くようになったなら、それは一段上の場所へ入ったということでもある。
「面倒ですね」
恒一が言う。
「ええ」
坂口が答える。
「でも、面倒だからずらす、は今やる話じゃありません」
水沢が少しだけ笑った。
「前より逃げない話が増えましたね」
「逃げたくなる時はあります」
恒一が言う。
「でも、逃げたら次が小さくなる」
「その感覚があるなら大丈夫です」
春日が最後に言った。
「前走は、競馬を覚えさせる一戦でした」
「はい」
「次は違います」
「……」
「勝ちに行く競馬を、馬に覚えさせます」
前回より、その言葉は重かった。
帰りの車で、美緒に電話を入れる。
「どうだった」
『次、決まった?』
「方針は次も使う方向だ。春日先生と坂口さんがそう決めた」
『兄さんが決めたわけじゃないよね』
「ああ。俺は見たことを話しただけだ」
『そっか』
「でも、呼ばれた意味はあったと思う」
『何を話したの』
「前より行きたがってること。右手前の雑さは残ってること。でも、自分で戻そうとしていること」
『……それ、ちゃんと伝えられた?』
「伝えた」
『ならよかった』
「待たないのかとは聞いた」
『早くない?』
「早い。でも、今の前向きさを、次の競馬で使いたいらしい」
『待たせると?』
「別のところで使うかもしれない」
『ああ』
美緒が小さく息を吐いた。
『前は“ちゃんと走れるか”だった』
「ああ」
『次は“勝てるか”だった』
「ああ」
『今度は“勝ちに行く形を覚えるか”なんだ』
「そうなるな」
牧場へ戻ると、玲奈が先に見ていた。
「進めるのね」
「春日先生と坂口さんは、そう決めた」
「あなたは?」
「決めてない」
「うん」
「でも、見たことは言った」
「それでいい」
玲奈は短く言った。
「売った馬に決定権はない。でも、見てきた責任は消えない」
「……重いな」
「軽いなら、生産なんて続けられないでしょ」
夕方、恒一はフユノホシの馬房の前で立ち止まった。
牝馬は静かだ。
シラユキノハナの仔も、相変わらず地味だ。
でも、牧場の中の時間は止まっていない。
タチカゼは売った馬だ。
もう、うちの馬ではない。
それでも、榊原ファームで生まれた馬だ。
あの馬が走れば、見ている人間は思う。
どこで生まれた馬か。
誰が見つけた馬か。
誰が、最初に信じた馬か。
タチカゼは勝った。
そして次は、勝ち方を覚えに行く。
その先に、牧場の次がある。
「兄さん」
美緒が横に来る。
「なんだ」
「今、どんな気分?」
「……前より怖い」
「うん」
「でも、前より欲がある」
「かなり?」
「かなりな」
美緒は小さく笑った。
「じゃあ大丈夫」
「何が」
「欲が出た兄さんの方が、最近は当たる」
「そういうもんか」
「そういうもん」
恒一はフユノホシの耳の動きを見ながら、小さく息を吐いた。
勝った。
だから次は、守るだけじゃ足りない。
ただし、タチカゼを動かすのは、もう榊原ファームではない。
坂口が決める。
春日が仕上げる。
水沢が乗る。
恒一にできるのは、見てきたものを渡すことだけだ。
売った馬の未来に、まだ生産者として呼ばれる。
その事実だけで、今日の前進は十分だった。
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榊原恒一
牧場経営力:B+
配合読解:C-
繁殖観察:B+
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B
交渉・信頼:A-
牧場再建度:64%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:C
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
管理調教師:春日調教師
次走方針:馬主・調教師判断により出走方向




