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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第35話 勝ったあとに、値段がつく

 勝った翌朝なのに、事務所の空気は浮いていなかった。


 むしろ逆だった。

 美緒は朝から帳簿を広げっぱなしで、昨日までより静かだ。

 勝ったからこそ、今どこが動くかを先に見ている顔だった。


「兄さん」


「なんだ」


「今日、多分来るよ」


「何が」


「電話じゃなくて、人」


「……だろうな」


「昨日まで黙ってた人ほど、今日は動くと思う」


「勝った馬の後ろには、値札を持った人間が来るからな」


 勝ちは、噂より早く金を連れてくる。


 昨日まで見ているだけだった人間が、今日は値段を持ってくる。

 そういう世界だと、もう分かっていた。


 厩舎を一通り回って事務所へ戻ると、軽トラじゃない車が一台、砂利の上で止まっていた。

 降りてきたのは三雲と、菅沼だった。


 美緒が小さく息を飲む。


「早いね」


「早いな」


 恒一が答えた。


 三雲はいつもの調子だったが、今日は笑っていない。


「朝から悪い」


「悪いと思うなら昼にしろ」


「昼だと遅い話だ」


「だろうな」


 菅沼はフユノホシの馬房の方を一度見てから、事務所へ入った。

 椅子に座る前に、鞄から紙を一枚出す。


「先に言います」


 菅沼が言った。


「今日は見に来たんじゃない。買いに来ました」


 美緒の指先が、帳簿の端で止まる。


 恒一は何も言わなかった。

 その先を聞く方が早い。


「対象はフユノホシです」


「……」


「昨日の勝ちで、この牧場の待ち方に値段がついた」


「そうですか」


「ええ。だから今日来た」


 菅沼が紙を机の上に置いた。


 金額を見た瞬間、美緒が息を止めたのが分かった。


 去年なら考えられない額だった。

 高い。

 はっきり高い。


「今なら、この値段を出せます」


 菅沼が言う。


「春まで待てば、もっと上がる可能性もある。でも、その分だけ下がるリスクもある」


「……」


「だから私は、今日この値段を持ってきました」


 三雲が横から口を挟む。


「悪い条件じゃない」


「分かってる」


 恒一が答える。


「むしろ、かなりいい方だ」


 美緒は紙から目を離さず、低く言った。


「これ、乾草代と獣医代、かなり軽くなる」


「どのくらいだ」


「今の条件なら、春までの息継ぎがかなり楽になる。種付けの頭金も見える」


「……」


「正直、かなり助かる額」


「助かる、で済まないな」


「うん。今のうちなら、喉から手が出る額」


 その言葉が、一番重かった。


 高い。

 でも、ただ高いんじゃない。

 今の榊原ファームを本当に助ける額だった。


 菅沼はそこで初めて、少しだけ声を柔らかくした。


「榊原さん。昨日の勝ちは大きいです」


「ええ」


「ただ、勝った翌日がいちばん危ない」


「どういう意味ですか」


「自分の価値に、まだ自分が追いついていない」


「……」


「だから、昨日までの感覚で安く断るか、逆に怖くなって全部抱えるかになりやすい」


「そうかもしれませんね」


「私はその前に、数字を出しに来た」


 筋は通っていた。


 買い叩きに来た顔ではない。

 だから余計に厄介だった。


 玲奈が入ってきたのは、その時だった。

 手にはカルテを挟んでいる。


「話、聞いていい?」


「聞け」


 恒一が言う。


 玲奈は机の紙を見て、眉を少しだけ動かした。


「……高いわね」


「高い」


 美緒が言う。


「かなり」


「高いだけなら、楽なんだけどね」


「楽じゃないな」


 玲奈はすぐには賛成も反対もしなかった。

 その代わり、菅沼ではなく恒一に聞いた。


「今売ったら、何が楽になる?」


「春までの資金」


 美緒が先に答える。


「かなり楽」


「で、今売ったら何を失う?」


「……」


 今度は恒一が答えた。


「牝馬の柱」


「そう」


 玲奈はそこでようやく紙から目を離した。


「兄さん」


「なんだ」


「これ、昨日までなら“高い”で終わってた」


「……ああ」


「でも今日は、“高いけど足りないかもしれない”でしょう」


「そうかもしれない」


「じゃあ答えは簡単じゃない」


「簡単なら、もう売ってる」


 簡単じゃなかった。


 視界に文字が浮かぶ。



フユノホシ

気性安定:B

成長力:A-

環境変化耐性:低

待機価値:A

繁殖価値:A-

早期売却適性:C

推奨対応:比較売却回避/春まで維持優先

総評:高値は来ているが、勝利直後の現在価値より将来価値が上回る



 早期売却適性:C。


 はっきり出た。


 高く売れる。

 でも、今売るのが正解ではない。


 菅沼が静かに言う。


「今日決めろとは言いません」


「……」


「ただし、この値段は今日の空気も含めた値段です」


「分かっています」


「勝った直後だから付く額でもある」


「それも分かってる」


 その返事をした時、自分の声が思ったより低かった。


 美緒が横で言う。


「兄さん」


「なんだ」


「本音は?」


「助かる」


「うん」


「かなり助かる」


「うん」


「でも、ここで売ったら、昨日の勝ちを明日の支払いに替えるだけで終わる気がする」


「……」


「それは嫌だ」


 その一言で、事務所の空気が少しだけ変わった。


 菅沼は黙って頷いた。

 三雲も口を挟まない。


 玲奈が短く言う。


「それなら答えは出てる」


「そうだな」


 恒一は紙を見た。

 高い。

 まだ惜しいと思えるくらい高い。

 でも、惜しいで止まれるなら、もう前とは違う。


「菅沼さん」


「はい」


「今日、この値段を持ってきてくれたのはありがたいです」


「ええ」


「でも、今は売りません」


「……理由は?」


「昨日の勝ちを、今日の現金に換えるだけで終わらせたくない」


「そうですか」


「フユノホシは、もう少し先の値段で見たい」


「分かりました」


 菅沼はあっさり引かなかった。

 だが、食い下がり方も静かだった。


「では、順番だけください」


「順番?」


「次に値段を出す時、最初に話を聞く順番です」


「……」


「昨日の勝ちで、それも価値になったはずです」


 そこは、少しだけ笑いそうになった。


 結局、また順番に戻ってくる。


「分かりました」


 恒一が答える。


「次に話を聞く時は、最初に声をかけます」


「それで十分です」


 菅沼たちが帰ったあと、事務所にはしばらく誰も喋らなかった。


 最初に口を開いたのは美緒だった。


「断れたね」


「ああ」


「前のうちなら、飛びついてた」


「飛びついてただろうな」


「しかも、いい売り方したつもりで喜んでたかも」


「……ありえる」


 玲奈が机の紙を裏返す。


「でも、今は違った」


「違ったな」


「兄さん」


「なんだ」


「今の断り方、かなり良かった」


「そうか」


「うん。意地じゃなくて、理由で断ってた」


「それならいい」


 午後、恒一はフユノホシの前に立った。


 牝馬は相変わらず薄い。

 急に見映えが変わったわけじゃない。

 でも、今日その薄さは前ほど心細く見えなかった。


 高い値段がついた。

 それでも、売らなかった。


 それはたぶん、今の榊原ファームにとって小さくない。


 後ろで美緒が言う。


「兄さん」


「なんだ」


「今日、初めて“売らない方が高い”ってちゃんと思えた」


「……ああ」


「昨日の一勝って、そこまで効くんだね」


「そこまで効くんだろうな」


「でも、怖いね」


「何が」


「高い値段を断れるようになるのも、怖い」


「そうだな」


「それでも、今日は断ってよかったと思う」


「俺もだ」


 恒一はフユノホシの耳の動きを見ながら、小さく息を吐いた。


 勝った。

 だから値段がついた。

 でも、値段がついたから売る、では終わらなかった。


 そこまで来た。


---


榊原恒一の現状


牧場経営力:B+


配合読解:C-


繁殖観察:B+


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:B


交渉・信頼:A-


牧場再建度:32%



榊原ファーム経営状況


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:再編中


若駒資産価値:A


自家保留価値:A


牧場ブランド:C


倒産危険度:高



補助表示


若馬売却成否:成立


育成先:北斗トレーニングファーム


レース線:タチカゼが次走同条件本線


順番:フユノホシは菅沼が次回最優先交渉

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