第31話 初陣の二着
朝から、落ち着かなかった。
怖いのか、緊張しているのか、自分でもよく分からない。
ただ一つだけはっきりしている。
今日、タチカゼが走る。
それだけだった。
競馬場へ向かう車の中で、美緒が何度も出馬表を見直していた。
「兄さん」 「なんだ」 「ちゃんと載ってる」 「昨日から載ってるだろ」 「分かってるけど、見るたびに本当に出るんだなって思う」 「……俺もだ」
玲奈は来ていない。
牧場を空けられないからだ。
朝、送り出す前に一言だけ言った。
『浮かれて馬より先に走らないこと』
あいつらしい言い方だった。
競馬場に着くと、空気の速さが牧場とは違った。
人が多い。
声が多い。
アナウンスも、足音も、全部少し急いでいる。
でも今日は、それに飲まれている場合じゃない。
「まずパドックです」 坂口が言う。 「はい」 「そこで気持ちが上がりすぎるなら、話は変わります」 「分かっています」
春日はもう来ていた。
顔つきはいつも通りだった。
それだけで少し落ち着く。
「今のところ、馬は悪くありません」 春日が短く言う。 「食いは落ちていない。馬房でも浮いていない」 「よかった」 「ただし」 「……」 「今日は“よかった”で終わらせないでください」 「はい」 「競馬に行くなら、競馬の形で帰ってくることが大事です」
その言葉が、今日の全部だった。
勝つか。
負けるか。
もちろんそれは大事だ。
でも今日は、それだけじゃない。
競馬を覚える一戦にしなければいけない。
タチカゼがパドックに出てきた。
体は締まっている。
見映えの良さはまだ残っている。
でも、牧場にいた頃とは少し違った。
歩きに無駄が少ない。
周りは見ている。だが、全部に引っ張られていない。
前へ行きたい気持ちが、ちゃんと輪の中に収まっている。
「兄さん」 美緒が小声で言う。 「思ったより落ち着いてる」 「ああ」 「すごくよく見える」 「そこだけで喜ぶな」 「分かってる」 「ほんとか?」 「半分くらい」
坂口が横で言った。
「馬体は悪くありません」 「はい」 「問題は、ここから気持ちを崩さないかどうかです」 「春日さんも同じこと言ってました」 「言うでしょうね。今日の一番大事なところですから」
春日がタチカゼを見たまま言う。
「今日、最初に欲しいのはゲートを出ること」 「はい」 「次に、流れに乗ること」 「はい」 「その上で、行きたい気持ちを我慢すること」 「……」 「最後に、脚を残して終えること」 「順位じゃなくて?」 恒一が聞く。
春日はすぐに答えた。
「順位も見ます」 「……」 「でも、内容を崩してまで欲しい順位ではありません」 「分かります」 「そこまでやって五着なら、私は次で勝ちにいけます」 「逆に」 恒一が聞く。 「前だけ行って最後に止まる競馬を覚えたら、勝っても嫌です」
はっきりしていた。
順位だけではない。
でも順位も無視しない。
その真ん中にある、いちばん難しいところを見ている。
騎手が跨る前、恒一は一瞬だけタチカゼの首元に触れた。
汗はまだ薄い。
耳の動きは忙しいが、前みたいな硬さはない。
視界に文字が浮かぶ。
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タチカゼ
気性安定:B-
折り合い:B-
心肺:B
芝適性:B
距離適性:マイル~1800
右手前の雑さ:残存
本日評価:実戦可
推奨方針:中団待機/我慢優先
総評:結果より内容が重要。ただし、内容が揃えば上位まで届く
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本馬場へ向かう後ろ姿を見ながら、美緒が言う。
「兄さん」 「なんだ」 「今どんな気分?」 「……怖い」 「うん」 「でも、見たい」 「うん」 「あと、少しだけ信じてる」 「それが一番本音っぽい」
ゲート入りは、思ったより落ち着いていた。
最後の一頭ではない。
中ほどで入る。
首を少しだけ上げたが、嫌がって立ち上がるようなことはない。
「いい」 春日が短く言った。
扉が閉まる。
少し間が空く。
そして、開いた。
タチカゼは出た。
速すぎない。
遅すぎない。
ちょうどいい。
「出た」 美緒が息を漏らす。 「焦ってない」 恒一が言った。
前半、タチカゼは中団の外目につけた。
行きたい気持ちはある。
だが、騎手の手の中で噛んではいない。
「そこでいい」 春日が言う。 「そこなら我慢できる」
向正面でも、位置は大きく変わらない。
前が飛ばしている流れではない。
それでも、タチカゼは自分から動かない。
我慢している。
ちゃんと飲めている。
四角で少しだけ外へ持ち出す。
その瞬間、右手前の雑さが出た。
前肢の入りが半拍だけ乱れる。
恒一の背中に冷たいものが走る。
だが、崩れない。
そこでバランスを失わない。
流れを壊さず、そのまま直線へ向いた。
「行け」
思わず声が出た。
タチカゼは伸びた。
一瞬で弾ける感じではない。
でも、脚色が鈍らない。
前にいる馬との差を少しずつ詰める。
一頭交わす。
もう一頭交わす。
「来る」 美緒が言う。 「来てるな」
残り二百を切って、先頭との差は一馬身半ほど。
そこからさらに詰める。
前の馬も止まらない。
でも、タチカゼも止まらない。
「二着はある」 坂口が低く言った。
先頭までは届かない。
それでも最後まで脚を使い切って、タチカゼは二着でゴールした。
一瞬、音が遅れて届いた。
「……二着?」 美緒が言う。 「二着だ」 恒一が答えた。
そこでようやく、胸の奥に溜まっていたものが少し落ちた。
勝てなかった。
でも、負け方が良かった。
ゲートを出た。
流れに乗った。
我慢した。
最後まで脚を残した。
そして、二着まで来た。
春日が短く言う。
「理想に近いです」 「……」 「欲を言えば勝ちたかった」 「はい」 「でも、今日の中身なら次で勝ちにいけます」
その一言で十分だった。
坂口も頷く。
「これは大きい」 「かなり、な」 恒一はようやく言えた。
史門は少しだけ口元を緩めた。
「短いところへ逃げなくて正解でしたね」 「お前、本当にそればっかりだな」 「でも正解だったでしょう」 「……ああ」
それは間違いなかった。
パドックへ戻ってきたタチカゼは、息こそ上がっていたが、目は散っていなかった。
変にテンションが切れてもいない。
負けた顔ではなく、競馬を一つ覚えた顔をしていた。
恒一は首元に触れた。
「よくやった」
小さくそう言うと、タチカゼは耳を一つ動かした。
美緒が横で、まだ信じきれない顔をしている。
「兄さん」 「なんだ」 「すごくない?」 「すごいな」 「デビューで二着だよ?」 「ああ」 「うわ……」 美緒は本当に言葉を失ってから、もう一度言った。 「うわ……」
春日がそこで釘を刺す。
「喜ぶのはいいです」 「はい」 「ただし、ここで“次は勝てる”と浮きすぎるのは違う」 「分かっています」 「本当に?」 「……かなり分かっています」 「ならいい」
でも、次で勝てる。
その感触は、もう言葉にしなくてもあった。
帰りの車の中で、玲奈に電話を入れる。
「どうだった」 「二着」 『……は?』 「二着」 『ほんとに?』 「ああ」 『うわ』 受話器の向こうで、美緒と同じ声がした。 『内容は?』 「かなり良かった」 『ならよし』 「そこ、短いな」 『勝ってないんでしょ』 「勝ってない」 『でも、次で勝てる競馬なら十分よ』 「春日さんも同じこと言ってた」 『じゃあ正しい』
牧場へ戻ると、夕方の空気はいつも通りだった。
フユノホシは静かだ。
シラユキノハナの仔も、まだ地味だ。
でも今日は、そのいつも通りが前より少し違って見えた。
タチカゼが、ただ売れた馬ではなくなった。
ただ走った馬でもない。
勝ちに届く形を見せた馬になった。
それは、牧場にとって小さくなかった。
事務所で、美緒が帳簿の余白を開く。
「何て書く?」 「またか」 「まただよ。今日はほんとに大きいでしょ」 「……そうだな」
少し考えてから、恒一は言った。
「レース線」 「うん」 「デビュー二着」 「そのまんまだね」 「分かりやすい方がいい」 「今日はそれでいいと思う」
美緒はそのまま書いた。
タチカゼ レース線・デビュー二着
悪くなかった。
勝ったわけじゃない。
でも、今日の二着はただの負けじゃない。
次で勝てる二着だった。
空いた馬房の前で、恒一は少しだけ立ち止まった。
ここから出て行った馬が、競馬場で二着になった。
そこまで来た。
まだ牧場は苦しい。
金も楽じゃない。
でも、ようやく報われる形が見えた。
「兄さん」 美緒が後ろから来る。 「なんだ」 「今、かなりいい顔してる」 「今日は言われると思った」 「どんな気分?」 「……嬉しい」 「うん」 「かなり、救われた感じがする」 「うん」 「でも、まだ途中だ」 「それも兄さんっぽい」 「そうか」 「うん。でも今日は、それでいい」
恒一は小さく笑った。
勝ってはいない。
でも、ここまで来た。
それだけで、今日の前進は十分だった。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B+
若駒評価:A
現場判断:A-
資金繰り判断:B
交渉・信頼:A-
牧場再建度:60%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:A-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:C-
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
レース線:タチカゼが芝1800デビュー二着




