第29話 出すと決める日
来週走るかもしれない。
その言葉が現実になってから、牧場の空気はまた少し変わった。
前みたいに「そのうち」ではない。
今はもう、出すか、見送るかを決める段階に来ている。
朝の事務所で、美緒がスマホと帳簿を何度も見比べていた。
「兄さん」 「なんだ」 「これって、もう“かなり近い”じゃなくて、“ほぼそこ”じゃない?」 「まだ分からない」 「またそれ」 「本当にまだ分からないんだよ」 「相手?」 「ああ。頭数もあるし、馬の感じもある」 「じゃあ、まだ止まる可能性もある」 「ある」
美緒は少しだけ口を尖らせた。
「近いのに止まるかもしれないって、嫌だね」 「嫌だけど、それが競馬だ」 「夢がない」 「そこで夢を見ると、あとで馬が払う」 「……それは嫌だ」
玲奈がカルテを閉じた。
「嫌なら、止める判断を嫌がらないことね」 「分かってる」 恒一が答える。 「今のタチカゼに要るのは、走ったことじゃなくて、ちゃんと走れる初戦だ」
そこへ携帯が鳴った。
坂口だった。
「榊原です」 『坂口です』 「はい」 『今日、春日先生が最終判断を出します』 「……分かりました」 『来られますか』 「行きます」 『その方がいいでしょうね。出すなら、もう投票まで含めた話になります』 「分かりました」
投票。
その言葉が出ると、一気に現実になる。
春日の厩舎に着くと、いつもより人の出入りが少なかった。
その分だけ空気が締まっている。
春日は最初から無駄がない。
「結論から言います」 「はい」 「今朝の状態で、出せます」 「……」 「ただし、条件は前回と同じです。馬が浮いたらやめる。相手が速すぎるなら無理に入れない」
恒一は一つ息を吐いた。
出せる。
そこまで来た。
「今朝の感じは?」 恒一が聞く。 「悪くありません」 春日が答える。 「食いは維持。気負いすぎもない。追い切りの反動も浅い」 「右手前は」 「残っています」 春日ははっきり言った。 「消えてはいない。ただ、今は我慢の線の上に乗っている」 「……」 「だから使えます。雑さが前へ出る形なら止めていました」
その言い方がありがたかった。
弱点が消えたわけじゃない。
でも、弱点を抱えたまま出すのではなく、管理できる範囲にあるから出せる。
そこが大事だった。
「番組は」 坂口が資料を開く。 「本線の芝千八。ここで行きます」 「頭数は」 「今の見込みなら、多すぎる感じではない」 「相手は」 「速そうな馬はいます」 春日が答えた。 「でも、前半から全部が飛ばす形までは見えていません」 「なら」 「今のタチカゼには悪くないです」
春日はそこで一度区切った。
「榊原さん」 「はい」 「この馬の初戦で欲しいものを、もう一度言います」 「……」 「ゲートを出る。流れに乗る。我慢をなくさない。最後まで脚を残す」 「はい」 「順位だけで見ない」 「分かっています」 「本当に?」 「はい」
春日は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、出しましょう」
その一言で十分だった。
坂口がすぐに続ける。
「投票に回します」 「お願いします」 「ただし」 坂口が釘を刺す。 「出すと決めたからといって、全部が決まりではありません」 「分かっています」 「投票の結果次第で入れない時もある」 「はい」 「でも、ここまで来たなら前進です」 「……はい」
前進。
たしかにそうだった。
まだ枠にも入っていない。
まだ走ってもいない。
でも、出すと決めるところまで来た。
それは今までの榊原ファームには、十分すぎる前進だった。
厩舎の外へ出ると、史門が壁にもたれていた。
「決まりました?」 「本線で出す」 「そうですか」 「軽いな」 「いや、かなり大きいですよ」 史門は淡々と言う。 「ただ、ここで騒ぐと、だいたい馬が先に気負うので」 「お前、たまにまともだな」 「たまにじゃないです」
恒一は小さく笑った。
「お前から見て、今日のタチカゼはどうだった」 「前へ行きたい気持ちを、前みたいにそのまま出してませんでした」 史門が言う。 「そこが一番いい」 「やっぱりそこか」 「そこです。短いところへ入れていたら、多分あそこは育ちませんでした」
やっぱり、そこだった。
速さで押し切るのではなく、我慢を覚える形を取った。
その判断が、今のタチカゼをここまで連れてきた。
帰りの車で、美緒に電話を入れる。
「どうだった」 「出す」 『……ほんとに?』 「ああ」 『来週?』 「本線で行く」 『うわ』 受話器の向こうで、美緒が本当に息を呑んだ。 『じゃあ、もう出走の話なんだ』 「そうだ」 『すごいね』 「まだ投票がある」 『でも、“出すと決めた”んでしょ』 「……ああ」 『それ、かなり大きいよ』
その通りだった。
勝ったわけじゃない。
デビューもまだしていない。
でも、もう「様子見」ではない。
出すと決めた馬になった。
牧場へ戻ると、玲奈が先に聞いた。
「行くの?」 「ああ」 「止めなかった」 「止める理由が、今朝はなかった」 「ならいい」 玲奈は短く言った。 「ただし」 「なんだ」 「当日浮いたら、ちゃんと止めなさい」 「分かってる」 「分かってるならいい」
事務所では、美緒がもう帳簿の余白を開いていた。
「何て書く?」 「またか」 「まただよ。だって今度はほんとに大きいでしょ」 「……そうだな」
恒一は少し考えてから言った。
「レース線でいい」 「まだそれ?」 「分かりやすい方がいい」 「じゃあ足すね」 「何を」 「本線で投票」 「そのままだな」 「今のうち、そういうの多いよ」 「悪いか」 「悪くない」
美緒はそのまま書いた。
タチカゼ レース線・本線投票
かなりしっくりきた。
売上じゃない。
でも、期待だけでもない。
もう、出すと決めた馬の話になっている。
夕方、恒一はフユノホシの前に立った。
牝馬は静かに乾草を噛んでいる。
この馬はまだ待つ側だ。
シラユキノハナの仔も、まだ時間が要る。
でも、全部が止まっているわけじゃない。
タチカゼはもう、走るために前へ出た。
フユノホシも、仔馬も、それぞれ別の時間で前へ進んでいる。
「兄さん」 美緒が横に来る。 「なんだ」 「今、かなりいい顔してる」 「また顔か」 「だって、もう“出す”って決めたんでしょ」 「ああ」 「どんな気分?」 「……嬉しい」 「だけ?」 「少し怖い」 「やっぱり」 「でも」 「でも?」 「かなり楽しみだ」
美緒が少しだけ笑った。
「それでいいと思う」 「そうか」 「うん。今のは、かなり本音っぽい」
恒一はタチカゼがいた空いた馬房の方を見た。
売った。
預けた。
崩れなかった。
入厩した。
ゲートに受かった。
そして、出すと決めた。
まだ何も勝っていない。
でも、ここまで来た。
それだけで、今日の前進は十分だった。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B+
若駒評価:A-
現場判断:A-
資金繰り判断:B
交渉・信頼:B+
牧場再建度:58%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B+
自家保留価値:A-
牧場ブランド:D+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
レース線:タチカゼが本線投票段階




