第26話 受かっただけでは、まだ足りない
今週末、扉を閉めるところまで見る。
春日にそう言われてからの数日は、長かった。
やることがないわけじゃない。
飼葉はいる。掃除もある。フユノホシもシラユキノハナも、いつも通り見ないといけない。
それでも、頭のどこかはずっとタチカゼに引っ張られていた。
「兄さん」 朝の事務所で、美緒が帳簿から顔を上げた。 「今日、何回目?」 「何が」 「時計見た回数」 「うるさいな」 「図星でしょ」 「……図星だ」
玲奈が横でカルテを閉じる。
「焦っても早くならないわよ」 「分かってる」 「分かってる顔してない」 「お前は本当にそういうところだけ見てるな」 「そういうところが一番分かりやすいから」
その時、携帯が鳴った。
史門だった。
「榊原です」 『今、終わりました』 「……どうだった」 『来られますか』 「電話で済ませない方がいい話か」 『済ませてもいいです。でも、多分あなたは顔を見て聞きたいでしょう』 「行く」 『そう言うと思いました』
北斗ではなく、今日は春日の厩舎の近くで会うことになった。
着くと、史門は厩舎前の通路に立っていた。
顔が悪くない。
それだけで、少しだけ胸が軽くなる。
「どうだった」 「受かりました」 史門はあっさり言った。
その一言で、腹の奥が熱くなった。
「……受かった?」 「受かりました」 「ゲート」 「ええ」 「ほんとに?」 「二回言わせますか」
ようやく、恒一は息を吐いた。
勝ったわけじゃない。
でも、受かった。
競馬に行く前の入口を、一つ越えた。
「おめでとうございます」 史門が言う。 「お前が言うと、ちょっと軽く聞こえるな」 「そうですか」 「でも、助かった」 「そこは私も同じです」
歩きながら、史門が説明する。
「一回目、後ろが閉まった時に少しだけ気にしました」 「止まったか」 「止まりました。でも、そこで飛ばない。後ろへ逃げない。耳は忙しかったですが、我慢できた」 「……」 「前扉が開いた後も、慌てて飛び出しませんでした。速く出るより、落ち着いて出られた方が今は大事です」
春日の言葉が、そのまま重なる。
通れたかどうかじゃない。次も入れるか。
やっぱりそこだった。
「二回目は?」 恒一が聞く。 「迷いが短かったです」 史門が答えた。 「一回目より、人の合図で前へ出られた。そこが一番よかった」
通路の奥から春日が出てきた。
「お疲れさまです」 恒一が頭を下げる。 「疲れるのはこれからです」 春日はいつも通りだった。 「でも、一つ越えました」 「はい」 「ただし」 「……」 「受かっただけで使いたくなる人間が一番危ない」
空気が締まった。
「今、疲れは?」 春日が史門に聞く。 「表には大きく出ていません」 「食いは」 「落ちてません」 「なら、一拍置きます」 春日は即答した。
恒一は少しだけ顔を上げた。
「すぐには使わないんですか」 「使えますよ」 春日は答えた。 「使おうと思えば」 「……」 「でも、それで右手前の雑さを残したまま短いところへ押し込むのは嫌いです」 「俺もです」 「なら、話が早い」
春日はタチカゼの馬房を見た。
馬は試験のあとにしては落ち着いていた。
気持ちが散っていない。そこも良かった。
「今、この馬に要るのは」 春日が言う。 「受かった勢いじゃない」 「……」 「競馬に行っても同じ形で我慢できることです」
意味ははっきりしていた。
受かった。
だからすぐ使う。
その短さが危ない。
受かった時の形を、競馬まで持っていけるか。
そこが次の勝負になる。
そこへ坂口が来た。
「どうですか」 「受かったこと自体は悪くないです」 春日が答える。 「ただ、次は番組を探る段階です」 「使う前提で?」 坂口が聞く。 「使う前提です。ただし、急がない」 「条件は」 「もう少し馬の感じを見ること。右手前の雑さを、競馬でどう出すかを見極めること。最初で嫌な競馬を覚えさせないこと」 「分かりました」
番組。
ようやく、その言葉が現実の位置まで降りてきた。
入厩。
ゲート。
そして番組。
今までは遠かった言葉が、今日は全部、手の届く順番で並んでいる。
「榊原さん」 坂口がこちらを向く。 「はい」 「ここまで来たら、次は“競馬になるか”じゃありません」 「……」 「“いつ競馬に行けるか”の話です」 「はい」 「もちろん、まだ細い話です。でも、細い話が一番大事です」
その言い方が、今の榊原ファームにはしっくりきた。
派手じゃない。
でも、細い線が確かに前へ進んでいる。
帰りの軽トラで、美緒に電話を入れる。
「どう?」 開口一番、それだった。 「受かった」 『……ほんとに?』 「ああ。ゲート」 『うわ』 受話器の向こうで、本当に声が詰まった。 『じゃあ次は、もうデビューの話?』 「そこまで一直線じゃない」 『でも、近づいた』 「かなりな」 『すぐ使うの?』 「まだ一拍置くらしい」 『なんで?』 「受かった勢いで使うのが一番危ないからだってさ」 『……』 「だから次は番組を見る段階」 『それ、かなり“走る話”だね』 「かなりな」
牧場へ戻ると、玲奈が先に立っていた。
「受かった?」 「ああ」 「すぐ使う?」 「まだ」 「それでいい」 玲奈は即答した。 「早いな」 「ゲート受かったからすぐ使う、って顔で帰ってきたら殴ってた」 「ひどいな」 「そのくらいでちょうどいい」
事務所で、美緒が帳簿の余白を見ながら言う。
「これ、何て書く?」 「何を」 「タチカゼ」 「またか」 「まただよ。だって、売上じゃないし、先約でもないし、入厩・進行中より前に進んだ」 「……」 「どうする?」
少し考えてから、恒一は言った。
「レース線でいい」 「前もそう書いた」 「じゃあ足す」 「何を」 「ゲート合格」
美緒はそのまま書いた。
タチカゼ レース線・ゲート合格
悪くないと思った。
売上じゃない。
でも、もう期待だけでもない。
次に何をするかが、はっきり見える段階まで来ている。
夕方、フユノホシの前に立つ。
牝馬は静かだ。
この馬はまだ待つ。
シラユキノハナの仔も、まだ時間がいる。
だがタチカゼは、もう「使うか、もう一拍待つか」を話す段階まで来た。
同じ牧場の馬でも、時間は違う。
それを分けて考えられるようになったこと自体が、今の自分の前進なのかもしれない。
「兄さん」 美緒が横に来た。 「なんだ」 「かなり嬉しい?」 「……かなりな」 「でも、まだ我慢?」 「まだ我慢だ」 「よし」 「何が」 「今の返事、牧場主っぽい」
恒一は少しだけ笑った。
勝ったわけじゃない。
でも、デビューの前までは来た。
それだけで、今日の前進は十分だった。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B+
若駒評価:B+
現場判断:A-
資金繰り判断:B
交渉・信頼:B+
牧場再建度:56%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B
自家保留価値:A-
牧場ブランド:D+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
レース線:タチカゼがゲート合格、番組選定段階




