第25話 ゲートは、急がせると壊れる
入厩した翌朝、春日からの電話は早かった。
『今から来られますか』 「何かありましたか」 『悪い話なら、もっと短く済ませます』 「分かりました。行きます」
それだけで十分だった。
美緒に声をかけると、すぐに顔を上げた。
「今度は何?」 「春日さんが来いって」 「悪い?」 「悪いなら、たぶんもっと声が固い」 「じゃあ行ける話?」 「そこを見に行く」
玲奈がカルテを閉じる。
「輸送後の熱は?」 「昨日の時点では問題なし」 「食いは?」 「落ちてない」 「なら、今日の話はたぶんゲートね」 「そこか」 「そこしかないでしょ。入厩した次に見るのは」
トレセンに着くと、春日はすでに馬場ではなく、ゲートの近くに立っていた。
「おはようございます」 「おはようございます」 「まず言っておきます」 春日は最初に言った。 「まだ試験は受けません」 「はい」 「でも、受けられるかどうかは今日でかなり見ます」
その言い方で、胸の中が少しだけ熱くなった。
タチカゼは引かれて歩いてきた。
昨日より気持ちは落ち着いている。
きょろきょろはする。だが、何でもかんでも嫌がる感じではない。
「馬体検査は問題なし」 春日が言う。 「食いも落ちていません。今朝も普通に食ってます」 「助かります」 「助かるだけじゃない。ここで落ちないのは、この先の詰め方に余裕ができる」
そこへ厩務員らしい年配の男が来た。
無駄のない動きでタチカゼの首元を軽く触る。
「これが?」 「ええ」 春日が答える。 「前に言った右手前の雑さは残ってます。ただ、今日はまずそこじゃない」 「ゲートか」 「そうです」
男は短く頷いた。
「怖がり方を見る」 「お願いします」
いきなり入れない。
まず近くを通す。
その次に、止まる。
匂いを取らせる。
音を聞かせる。
恒一はその流れを黙って見た。
タチカゼは最初、ゲートの前で首を少し高くした。
耳も忙しい。
だが、後ろへ逃げようとはしない。
「悪くない」 春日が言う。 「この時点で立ち上がるとか、横へ飛ぶとかがないだけ楽です」
厩務員が一歩前へ出す。
タチカゼは鼻先を伸ばして、ゲートの金属と土の匂いを確かめる。
それから少しだけ前脚を出した。
「ここで急がせると壊れます」 春日が言う。 「分かります」 恒一が答えた。
「いや、分からない人は本当に分からない」 春日は視線を切らずに言った。 「一歩出たから押す。二歩出たから閉める。そうやって怖がらせて、後でゲート嫌いにする」 「……」 「ゲートは、通れたかどうかより、次も入れるかの方が大事です」
その言葉は、かなり重かった。
馬はゲートの前で一度止まり、また前へ出た。
今度は半分まで入る。
後ろ脚が少しだけためらったが、そこで無理に押し込まない。
「そこまででいい」 春日が言う。
厩務員が静かに引き戻す。
タチカゼは出たあとも、極端に興奮していない。
息も乱れていない。
「もう一回やります」 春日が言う。 「次は、通すだけ」
二回目は少しだけ早かった。
前より迷いが短い。
入って、抜ける。
そこで急かさない。
抜けたあとも走らせない。
「いいですね」 年配の厩務員が初めて言った。 「この感じなら、扉閉める段階までは遠くない」 「私もそう思います」 春日が答える。
恒一の視界に文字が浮かぶ。
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タチカゼ
気性安定:B-
折り合い:C+
輸送耐性:B
ゲート恐怖反応:低
前進気勢:B
右手前の雑さ:残存
推奨方針:ゲート優先/速度強化先送り
総評:ゲートは急がせなければ進む。今は競馬の入口を固める段階
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速度強化先送り。
春日の考えとぴったりだった。
「榊原さん」 「はい」 「この馬、今すぐ速いところをやる必要はないです」 「そうですか」 「ええ。今やるべきは、競馬に行ける土台を崩さず作ることです」 「ゲート、ですか」 「ゲートもそう。あと、環境の中で浮かないこと。人の指示で前へ行けること。そこが先です」
春日はタチカゼを見ながら続けた。
「速い馬は他にもいる」 「……」 「でも、競馬に行く前に雑になる馬も多い。私はそっちを嫌います」 「俺もです」 「なら話が早い」
そこで厩務員が口を挟んだ。
「春日先生」 「何ですか」 「今週末、一回閉めるところまで見ますか」 「見る」 春日は即答した。 「ただし、今日みたいに静かなら、です。浮いたらやめます」 「分かりました」
今週末。
そこまで来た。
「兄さん」 後ろから声がして振り返ると、美緒ではなく坂口だった。 「来てたんですか」 「今着いた」 坂口はタチカゼを見たまま言う。 「どうだ」 「進めます」 春日が答える。 「急がせなければ、ゲートは通ります」 「試験は?」 坂口が聞く。 「今週の反応次第。来週には話ができます」 「……」 「ただ、先にゲートだけ受かればいい馬にはしたくない」 「そこは同感です」 坂口が言う。
恒一はその会話を聞きながら、ようやく実感した。
これはもう、ただ入厩しただけの話じゃない。
ゲート試験の話が出る段階まで来ている。
「榊原さん」 坂口がこちらを向く。 「はい」 「ここまで来たら、次は“競馬になるか”じゃなく、“いつ競馬に行けるか”の話に変わります」 「……」 「まだ細い話です。でも、細い話が一番大事です」
その言い方が、今のこの物語にぴったりだった。
派手じゃない。
でも、細い線が確かに前へ進んでいる。
帰りの車の中で、美緒から電話が来た。
「どう?」 「ゲートを触った」 『え、もう?』 「ああ。ただ、急がせてない。通しただけだ」 『で、どうだった』 「悪くない。今週末、扉を閉める段階まで見るらしい」 『……かなり進んでない?』 「かなり進んでる」 『じゃあ次は』 「来週には、試験の話が出るかもしれない」 『うわ』 受話器の向こうで、美緒が息を呑むのが分かった。 『それ、かなり“走る話”だね』 「そうだな」
牧場へ戻ると、玲奈が先に聞いた。
「浮いた?」 「いや。怖がり方が浅い」 「それなら大きいわね」 「そんなに違うか」 「違う。ゲートで一度強く嫌がると、後で高くつく」 「春日さんも同じこと言ってた」 「まともな人ね」 「お前、その言い方は失礼だぞ」 「競馬の話でそこを急がないなら、まとも」
美緒は帳簿を開いたまま、ペン先を止めた。
「兄さん」 「なんだ」 「これ、先約でも進行中でもないね」 「そうだな」 「何て書く?」 「……レース線」 「雑だね」 「分かればいい」 「まあ、今のうちらしいか」
美緒は余白に書いた。
タチカゼ ゲート段階
それを見て、恒一は少しだけ笑った。
売上じゃない。
でも、もう夢でもない。
夕方、フユノホシの前に立つ。
牝馬は静かに乾草を食っている。
この馬はまだ待つ側だ。
タチカゼはもう、使うための段階に入った。
同じ牧場の馬でも、進む速さが違う。
それを分けて考えられるようになったこと自体が、たぶん今の自分の成長だった。
「兄さん」 美緒が横に来た。 「なんだ」 「今日の顔、昨日より分かりやすい」 「またか」 「だって、もうゲートの話でしょ」 「ああ」 「かなり嬉しい?」 「……かなりな」
まだ勝っていない。
でも、競馬が前よりずっと近い。
それだけで、今日の前進は十分だった。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B+
若駒評価:B+
現場判断:A-
資金繰り判断:B
交渉・信頼:B+
牧場再建度:55%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B
自家保留価値:A-
牧場ブランド:D
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
レース線:タチカゼがゲート段階へ進行中




