第24話 トレセンに入る日
入厩が決まると、やることが一気に増える。
勝ったわけじゃない。
まだゲートも受けていない。
それでも、牧場の中だけで回っていた話が、競馬場へ向かう準備に変わると、紙も人も急に忙しくなる。
朝の事務所で、美緒が封筒を並べながら言った。
「思ったより多い」 「何が」 「必要書類。もっと“受け入れます”で終わるのかと思ってた」 「そんなわけないだろ」 「夢がない」 「競馬ってそういうもんだ」
玲奈が横から紙を抜き取る。
「ワクチン、健康状態、輸送前の確認、受け入れ時間、輸送時の注意。抜けたら向こうが困るの」 「分かってるよ」 美緒が口を尖らせる。 「でも、まだ走ってないのにもうこんなにあるんだなって」 「走る前だから要るんだよ」 恒一が言った。 「ここで雑だと、着く前から印象が落ちる」
前なら、この手の書類はただ面倒だった。
今は違う。
ここも含めて、牧場の仕事だと分かる。
美緒が一枚の確認票を上げた。
「輸送時の注意、どう書く?」 「右手前の雑さはそのまま書く」 「そこまで?」 「書く」 「隠した方が得じゃない?」 「後で向こうが見つけたら、そっちの方が安くなる」
玲奈がすぐ頷いた。
「それと、食いが落ちにくいことも書いて」 「そこは大きいか」 「大きい。輸送しても食える馬は、それだけで一段違う」 「分かった」
恒一は確認票に書き込んだ。
前向きさはあるが、急がせると右手前に雑さが出やすい。
飼葉食いは安定。輸送後も大きく崩しにくい。
前進気勢だけを無理に引き出さないこと。
「前の俺なら、ここ少し濁してたかもな」 恒一が言うと、美緒がすぐ返した。
「少しどころか、もっと丸く書いてたと思う」 「そこまでじゃない」 「いや、たぶんやってた」 「……否定しづらいな」
昼前、春日の厩舎から電話が入った。
『明日の朝でいきます』 「分かりました」 『着いたら、まず馬房に入れて環境を見ます。初日から大きくは動かしません』 「お願いします」 『一つだけ』 「はい」 『送り出す前に、周りが浮かないこと。人が浮くと、馬も浮く』 「そこは気をつけます」 『ならいいです』
電話を切ると、美緒が聞いた。
「明日?」 「ああ」 「早いね」 「引っ張る理由がないんだろ」 「それ、いいこと?」 「今はいい」
玲奈がタチカゼのカルテを閉じた。
「じゃあ今日は、上げないことね」 「何を」 「人間のテンション」 「そこまで言うか」 「言うわよ。送り出す日に急に囲んで声かけて、馬が落ち着くわけないでしょ」
夕方、恒一はタチカゼの馬房の前に立った。
馬はいつも通りの顔をしていた。
全部分かっているわけじゃない。
でも、人の気配がいつもより固いことくらいは拾っている。
「今日は何も変えない」
恒一は低く言った。
桶の位置。
触る順番。
引く時の声。
全部いつも通りにする。
視界に文字が浮かぶ。
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タチカゼ
気性安定:B-
折り合い:C+
心肺:B
脚元耐久:B-
輸送耐性:B
右手前の雑さ:残存
推奨対応:通常手順維持/過剰刺激回避
総評:輸送前に扱いを変えない方が良い
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翌朝、まだ空気が冷たい時間にトラックが入ってきた。
北斗へ送った時とは違う。
あの時は「売れた」が先だった。
今日は違う。
行き先の先に、トレセンとゲートがある。
「兄さん」 美緒が小声で言う。 「前より緊張する」 「俺もだ」 「売る時より?」 「売る時は今月の話だった」 「今回は?」 「その先の話だ」
厩舎側の輸送担当は無駄口が少なかった。
その代わり、手つきは丁寧だった。
「いきます」
タチカゼを引く。
馬は一度だけ耳を動かしたが、大きく逆らわない。
スロープの前で止まったのも、ほんの一拍だった。北斗へ送った時より迷いが短い。
「そのままで」 玲奈が低く言う。 「急がせないで」
タチカゼは鼻先を下げて匂いを取り、自分で前へ出た。
中へ入ったあとも暴れない。
扉が閉まり、車体がゆっくり動き出す。
「行ったね」 美緒が言う。 「ああ」 「かなり近いね」 「まだ入口だ」 「でも、入口までは来た」
その言い方が、一番しっくりきた。
トラックを見送ったあと、厩舎へ戻る。
フユノホシは静かだった。
隣の緩衝帯がまだ効いている。
シラユキノハナの仔も、母の横で落ち着いている。
「兄さん」 美緒が帳簿を抱えて立っていた。 「これ、どこに書く?」 「何を」 「タチカゼ、入厩」 「売上欄じゃない」 「それは分かる」 「でも先約とも違うな」 「だよね」
少し考えてから、恒一は言った。
「進行中、でいい」 「進行中?」 「結果じゃない。でも止まってもいない」 「……それ、かなり今っぽい」 「そうか?」 「うん。今のうちの感じ」
美緒は帳簿の余白に書いた。
タチカゼ 入厩・進行中
悪くないと思った。
昼過ぎ、春日から短い電話が入った。
『着きました』 「どうですか」 『今のところ問題なし。馬房でも浮いていません』 「……よかった」 『今日は環境だけ見ます。明日、軽く曳いて、その次でゲートを触るか決める』 「お願いします」 『一つだけ』 「はい」 『ここから先は、牧場での良さをどう競馬に変えるかの段階です』 「……」 『残る馬は、そこが一番難しい』
そこで電話は切れた。
崩れていない。
丁寧に送った。
紙も残した。
でも、それだけでは勝てない。
ここからは、それを競馬の形に変えないといけない。
夕方、恒一はフユノホシの前に立った。
牝馬は静かに乾草を噛んでいる。
この馬は待つ側だ。
タチカゼは今、進める側に入った。
同じ牧場の馬でも、時間が違う。
「兄さん」 後ろから玲奈が来る。 「なんだ」 「顔、少し締まった」 「嬉しそう、じゃなくてか」 「そっちは朝見た」 「お前ら本当に顔ばっかり見てるな」 「分かりやすいのが悪い」
恒一は苦く笑った。
入厩した。
まだそれだけだ。
でも、それだけでもかなり違う。
ようやく、待つ話だけじゃなく、使う話に入った。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B+
若駒評価:B+
現場判断:B+
資金繰り判断:B
交渉・信頼:B+
牧場再建度:55%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B
自家保留価値:A-
牧場ブランド:D
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
レース線:タチカゼ入厩・進行中




