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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第21話 先約は、まだ売上じゃない

 帳簿に書けるものと、書けないものがある。


 朝の事務所で、美緒は電卓を叩いたあと、ペン先を止めた。


「兄さん」 「なんだ」 「これ、どっちに入れる?」


 開かれた帳簿の端に、美緒が小さく書いた文字がある。


 佐伯 来年夏・最初の見学希望


 恒一はその文字を見て、すぐに答えた。


「入れない」 「やっぱり?」 「売上じゃないからな」 「うん。分かってる。でも、書きたくなる」 「……分かる」


 書きたくなる気持ちは、よく分かった。


 最初に見せてほしい。

 それは金じゃない。契約でもない。

 だが、何もないのとも違う。


 苦しい牧場では、そういう“まだ金じゃないもの”ほど、つい未来の売上に見えてしまう。


「去年の兄さんなら入れてたかもね」  美緒が言う。 「さすがにそこまで馬鹿じゃない」 「いや、金額は書かないだろうけど、気分では使ってた」 「……否定しづらいな」


 恒一は帳簿を引き寄せた。


「売上欄には入れない」 「うん」 「でも、消すものでもない」 「じゃあ?」 「別に欄を作れ」


 美緒が顔を上げる。


「欄?」 「約束とか、先約とか。金じゃないけど、後で順番を変えるものを入れる欄」 「……それ、いいね」 「だろ」 「でも変な帳簿になるよ」 「牧場なんて、金だけで回ってるわけじゃないだろ」


 その言葉は、自分でも少しだけ重かった。


 馬は今月も食う。

 乾草代も獣医代も待ってくれない。

 だから現金がいる。


 だが同時に、順番や口約束や、誰に先に見せるかが、あとで値段を変えることもある。


 それもまた現実だった。


 美緒は帳簿の余白に新しく線を引いた。


 入金予定でもなく、売上見込みでもない。


 少し考えた末に書いたのは、先約の二文字だった。


「なんか、妙にしっくりくる」 「売上よりはな」 「夢がない」 「夢を数字に入れると痛いぞ」 「それもそうか」


 その時、外で軽トラの音がした。

 三雲だった。


「朝から真面目だねえ」 「仕事だからな」  恒一が言う。 「その顔は、良い話か悪い話だな」 「半々かな」


 三雲は事務所に入るなり、帳簿の新しい欄を見つけた。


「何これ」 「先約」  美緒が答える。 「お、賢くなった」 「誰が」 「二人とも」


 三雲は笑ったが、すぐに本題へ入る。


「昨日の佐伯さんの話、少し回ってる」 「早いな」 「この辺じゃ普通だよ。で、さっそく一件、“仔馬を見たい”が来た」 「断る」  恒一は即答した。


 三雲が少しだけ目を細める。


「早いね」 「先約がある」 「口約束だよ?」 「だから帳簿には入れてない。でも順番は変えない」 「……」 「最初に見せるって言ったなら、そこは守る」


 三雲は数秒だけ黙っていたが、やがて笑った。


「それでいい」 「珍しく素直だな」 「いや、そこは結構大事だよ。口約束だから軽い、じゃない。口約束を軽く扱う牧場は、あとで全部軽く見られる」 「そういうもんか」 「そういうもん」


 美緒が新しい欄を指で叩く。


「じゃあ、これって売上じゃないけど、順番は変えるんだね」 「変える」  三雲がうなずく。 「“最初に見る人が決まっている”ってだけで、次に来る人の態度も変わるから」


 その言葉には実感があった。


 値段がついたわけじゃない。

 だが、“誰でもいつでも見られる仔”ではなくなった。

 それだけで、扱われ方が少し変わる。


「じゃあ、その一件は断っといてくれ」  恒一が言う。 「見るなら夏以降。しかも最初は無理だって」 「分かった」  三雲はすぐ答えた。 「嫌われるぞ」 「いいよ。今は安く好かれる方が困る」


 三雲が短く笑う。


「その言い方、だいぶ板についてきたな」


 午前の見回りで、恒一はシラユキノハナの仔を見た。


 相変わらず地味だ。

 顔立ちも、体つきも、今すぐ人を止めるような派手さはない。

 だが、母から少し離れて戻る時の足の運びが、昨日より滑らかだった。


 慌てない。

 勢いで飛び込まない。

 でも、ちゃんと戻る。


 その小さい変化が、妙に目に残る。


「兄さん」  後ろから美緒が来た。 「また見てる」 「見るだろ」 「分かる?」 「少しはな」 「どこが」 「焦ってない」 「仔馬が?」 「今はな」


 恒一は苦く笑った。


「俺もだ」 「お、珍しい」


 少し前までなら、誰かが見たいと言えば、すぐにでも見せていたかもしれない。

 今は違う。


 見せないことが、この仔を守る。

 順番を守ることが、この仔の値段を守る。

 それが分かり始めている。


 視界に文字が浮かぶ。



---


当歳牡馬(シラユキノハナの仔)

心肺:A

成長力:A

気性安定:C

哺育安定:B

現状評価:優先見学先約あり

総評:派手さはないが、先に見たいと思わせる価値は維持



---


 維持。


 その言葉が、今はいちばんしっくりくる。


 上がったわけじゃない。

 だが、落ちてもいない。

 削っても薄くしていないのと同じだ。


 事務所へ戻ると、玲奈がカルテを閉じて言った。


「シラユキノハナ、今日は乳の出も安定」 「そうか」 「仔も慌ててない。今の距離でいい」 「うん」


 玲奈は帳簿の新しい欄を見て、少しだけ口元を緩めた。


「先約、ね」 「変か?」  美緒が聞く。 「変だけど悪くない」 「どっち」 「牧場っぽいってこと」


 その時、電話が鳴った。


 今度は恒一が取る。


「榊原ファームです」 『桐生です』


 短い声だった。


「はい」 『さっき三雲から聞いた』 「何を」 『来年の仔、最初に見たいって話が入ったんだってな』 「……ええ」 『なら、今月は予定通りでいく』


 それだけ言って、桐生は切ろうとした。


「待ってください」  恒一は思わず止めた。 「それ、売上じゃないですよ」 『知ってる』 「なのに?」 『売上じゃなくても、雑に扱われてない証拠にはなる』 「……」 『こっちが見てるのは、そこだ』


 そこで電話は切れた。


 受話器を置いたあと、恒一はしばらく何も言えなかった。


 美緒が小さく聞く。


「何て?」 「予定通りでいくって」 「乾草?」 「ああ」 「……」 「先約が入ったからだと」


 美緒は帳簿を見て、それから窓の外を見た。


「すごいね」 「すごいのかどうかは分からない」 「でも、売上じゃないのに、態度は変わった」 「……そうだな」


 それが大きかった。


 先約は、まだ売上じゃない。

 だが、売上じゃないものが人の態度を変えることはある。


 信用は、現金より遅い。

 けれど、遅れてきた信用が、こうして今月の条件を少し守ることもある。


 夕方、恒一はもう一度仔馬の前に立った。


 地味だ。

 まだ何者でもない。


 それでも、もう“誰にも見向きされない地味さ”ではなくなりつつある。

 最初に見たいと口にする人間がいる。

 それだけで、静かな厩舎の空気が少し違って見えた。



---


榊原恒一


牧場経営力:B


配合読解:C-


繁殖観察:B+


若駒評価:B+


現場判断:B+


資金繰り判断:B


交渉・信頼:B


牧場再建度:53%



榊原ファーム


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:再編中


若駒資産価値:B-


自家保留価値:A-


牧場ブランド:D-


倒産危険度:高



補助表示


若馬売却成否:成立


育成先:北斗トレーニングファーム


先約:1件

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