第2話 馬は今日も食う
仔馬が生まれた翌朝だった。
普通なら、少しくらい浮かれてもいい日だ。
母子ともに生きた。あのシラユキノハナが踏ん張った。潰れかけた榊原ファームに、ようやく胸を張っていい出来事がひとつ落ちてきた。
だが、事務所の扉を開けた瞬間、その気分は綺麗に剥がれ落ちた。
机の上に、白い封筒が三通並んでいたからだ。
飼料業者。
獣医。
資材屋。
どれも祝いじゃない。請求だ。
恒一は無言で一番上を開けた。紙を引き抜き、金額を見た瞬間、喉の奥が詰まる。
「……っ」
この三枚を払えなければ、来月は“苦しい”では済まない。
乾草の納入が止まれば、馬は腹を空かせる。
獣医への支払いが遅れれば、次に何かあった時、助けを求める顔が曇る。
資材代を流せば、古い厩舎はもっと先に壊れる。
どれも、後回しにしたくない金だった。
「その顔、だいぶ終わってるね」
奥で帳簿を開いていた美緒が、顔も上げずに言った。
「終わっちゃいねえ」 「終わりかけ、くらい?」 「笑えない」 「じゃあ笑ってる暇ないね」
相変わらず容赦がない。
だが、その遠慮のなさに救われる時もある。現実に名前をつけて突きつけてくれる人間が一人いるだけで、逃げ道が減る。
恒一は椅子に腰を下ろし、残りの封筒も開けた。
乾草。濃厚飼料。ミネラル補助。
妊娠確認、定期診療、先月の熱発対応。
古い馬房を繕うための木材と金具。
贅沢なんか、一つもない。
削って、削って、それでも残った“要る金”だけが、机の上に並んでいる。
「で、あといくら足りない」
美緒は電卓を叩き、帳簿の端に赤線を引いた。
「ここから下。今月まだ払えてない分」 「……赤いな」 「赤いのは帳簿じゃなくて、うちの喉元」
帳簿を差し出される。
恒一は数字を追い、途中で目を逸らしたくなった。だが逸らしたところで、馬は食う。
「率直に言うよ」 「頼む」 「かなり足りない。今月入る金はほぼない。去年の売却分の残りも薄い。なのに出ていく方は待ってくれない。昨日仔馬が生まれたからって、飼料代は祝ってくれないし、獣医代も感動して消えてはくれない」 「……ああ」 「うちが今やってるのは、未来を当てにして今月をしのぐこと。でも、その“未来”が来る前に落ちたら終わり」
生産牧場の金は遅い。
春に種をつける。
腹で育てる。
無事に産ませる。
当歳を持たせる。
1歳まで育てる。
ようやく売るか残すかの話になる。
今日払う金の答え合わせが、来年やその先まで伸びる。
なのに、馬は今日も食う。請求書は今月も来る。
それがこの仕事の、身も蓋もない本音だった。
「兄さん」
美緒が帳簿から目を離さずに言う。
「昨日の仔、どうするの」 「……どうするって」 「売る前提で考えるのか、残す前提で考えるのか」
その一言で、恒一の頭に昨夜の光が蘇った。
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当歳牡馬(シラユキノハナの仔)
速度:C
持久力:A-
心肺:A
脚元耐久:B
気性安定:C
成長力:A
ダート適性:A-
潜在スキル:《心肺怪物》《晩成》《勝負根性》
推奨方針:売却非推奨/自家保留有力
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売却非推奨。
自家保留有力。
あんなものを見てしまった以上、何も知らなかった顔ではいられない。
「……残したい」
言ってから、自分でも足りないと分かった。
案の定、美緒はすぐ切り返す。
「それじゃ弱い」 「分かってる」 「可愛いから残したい。惜しいから残したい。夢があるから残したい。そういうの全部、今のうちには高い」 「分かってるって」 「じゃあ、“なぜ残すか”を言って」
逃がしてくれない。
だが、それでいい。
残す、売る、諦める。そのどれもを曖昧な気分で決めたくはなかった。
恒一は一度息を吐いた。
「あの仔は、今売る馬じゃない」 「理由」 「見栄えで高く売れるタイプじゃない。派手な血統でもない。当歳で目を引く完成度でも、多分負ける」 「うん」 「でも、走る方の芯がある」
美緒は黙って聞いている。
「今ここで売れば、今月は少し楽になるかもしれない」 「少し、ね」 「でも、それだけだ。うちみたいな牧場が立ち直る時ってのは、一頭の売却益で息をつないだ時じゃない。牧場の名前そのものに値がついた時だ」 「つまり?」 「もしあれが走れば、一頭分の金じゃ終わらない。次の産駒の見られ方も変わる。買い手の目も、預け先の態度も、取引先の反応も変わる。あれは今月を買う馬じゃなく、来年以降を変える馬かもしれない」
口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
本当は“かもしれない”じゃない。
見えた。確かに見えた。
けれど、それをそのまま言えるほど、自分は狂っちゃいない。
だから、見えたものを現実の言葉に変えるしかない。
美緒はしばらく考え込み、やがて静かに言った。
「理屈は分かる」 「なら」 「でも、その“来年以降”まで持たせる金がなければ終わり」
正論だった。
「兄さん。牧場って、走る馬が一頭いれば勝手に助かる仕事じゃないの。走るかもしれない馬を、走る日まで食わせて、診て、育てて、預けて、やっと勝負になる仕事なの」 「……ああ」 「うちが今一番危ないのはそこ。夢を見る前に死ねること」
胸の真ん中に重いものが落ちた。
夢はある。
だが夢が乾草代を払ってくれるわけじゃない。
だから牧場主は、未来だけじゃなく今月とも戦わなきゃならない。
勝てる馬を作る前に、まず潰れない牧場でいなきゃならない。
「じゃあ、どうする」
そう聞くと、美緒はすぐ答えた。
「今月を越える」 「具体的には」 「削れる支出を削る。遅らせられる支払いは頭を下げて相談する。使ってない機材、売れるものは売る。あと、繁殖牝馬の見直し」 「……整理しろって?」 「全部抱える余裕、ないでしょ」
分かっている。
だが、その一言は重かった。
牧場主になった時、恒一は“守る側”に立ったつもりだった。
どの馬も守る。父が残したこの場所も守る。そう思っていた。
だが経営者は違う。
守るために、残す馬を選ばなければならない。
全部を抱えたまま沈む方が、よほど無責任だ。
「本当に分かってる?」
美緒の声は静かだった。
静かなのに、逃げ場がない。
「……分かってるよ」
そう答えて、恒一は立ち上がった。
「どこ行くの」 「馬を見る」 「数字の話してる最中だけど」 「だからだよ。数字だけ見て切ったら、俺はもう牧場主じゃなくなる」
事務所を出ると、冷たい空気が肺に刺さった。厩舎からは乾草を噛む音が聞こえる。昨日と変わらない朝だ。
だが、今の恒一には違って見えた。
馬房をひとつずつ覗く。
そして、浮かぶ文字を見る。
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繁殖牝馬・ミヤコノユメ
繁殖価値:C
受胎安定:B-
産駒伝達率:C-
維持推奨:低
繁殖牝馬・オオルリ
繁殖価値:B-
受胎安定:D
分娩安定:C
維持推奨:中
1歳牡馬
脚元耐久:D
気性安定:D+
販売向き:高
競走期待:低
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恒一は、短く息を吐いた。
強い馬を見抜ける力だと思った。
埋もれた才能を拾える救いだと思った。
違う。
この力は、切るべき現実まで見せてくる。
残すべき馬。
売るべき馬。
抱えたまま沈むだけの馬。
見えるなら、見ないふりはできない。
使っていない古い飼い桶。
父が「そのうち直す」と言って放置したままの草刈り機。
乾草庫の俵の高さ。
全部が、牧場の景色で、全部が金のかかる景色だった。
シラユキノハナの馬房の前で足が止まる。
仔馬は、まだ頼りない脚でふらつきながら、母の腹のあたりで立とうとしていた。膝を折り、前につんのめり、それでもまた起き上がる。
一度じゃ駄目。
二度でも足りない。
それでも、もう一度立とうとする。
その姿を見た瞬間、恒一の胸の奥にあった迷いが一つ消えた。
――守りたい。
理屈より先に、それが出た。
この小さな身体が、まだ藁の上で震えているうちから、もう金の話をされるのは当たり前だ。そういう世界だ。分かっている。分かっているが、それでも思ってしまった。
こいつだけは、安く未来ごと売りたくない。
「……お前は残す」
小さく、だがはっきり言う。
「残す。その代わり、他を見直す。守るために切る」
仔馬は当然、答えない。
それでも母の腹に鼻面を押しつけ、また足を踏ん張る。
その姿に、恒一はうなずいた。
事務所へ戻ると、美緒はまだ帳簿と睨み合っていた。恒一は机の前に立ち、迷わず言う。
「決めた」 「なにを」 「あの仔は残す」 「その代わり?」 「今月を越えるためにできることは全部やる。使ってない機材は洗う。支払いは俺が頭下げる。繁殖牝馬も見直す。売る馬は、俺が決める」 「言い切ったね」 「言い切る」 「あとで情に流れない?」 「流れたら、その時点でこの牧場は終わる」
美緒は兄の顔をじっと見て、やがて短く息を吐いた。
「……分かった。じゃあ私も付き合う」 「いいのか」 「嫌なら、とっくに逃げてる」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
その時、事務所の電話が鳴った。
乾いた音がやけに大きく響く。
二人は反射で顔を見合わせた。
嫌な予感しかしない。
恒一が受話器を取る。
「榊原ファームです」
返ってきた声は低く、よく通った。
『黒峰スタッドの黒峰だ』
その名前だけで、空気が変わる。
黒峰スタッド。
この辺りで知らない者はいない大手だ。金も、人も、血統も持っている。潰れかけた牧場に掛けてくる用件なんて、たいてい一つしかない。
『昨日、シラユキノハナが産んだそうだな』
早い。
だが、業界は狭い。仔馬の噂なんて風より早く回る。
『あの牝系、まだ残していたのは少し意外だった。もし整理を考えているなら、話くらいは聞いてやる』
丁寧な声だった。
だからこそ分かる。
舐めている。
値が落ちた牝馬。潰れかけの牧場。金に困っているのは明白。今なら安く剥がせる。そう思っている声だ。
昨日までの恒一なら、揺れたかもしれない。
今、現金が欲しいのは事実だ。喉から手が出るほど欲しい。
だが、もう見てしまった。
シラユキノハナに残っていた母系の火を。
あの仔馬の上に浮かんだ、牧場の未来を。
「悪いが、今は売る気はない」
受話器の向こうで、一拍の沈黙。
『強気だな。今の榊原に、そんな余裕があるのか?』
静かな声音だった。
その静けさの裏にあるものを、恒一は嫌というほど知っている。
どうせ持たない。
どうせ最後は頭を下げに来る。
零細なんて、苦しくなれば未来を売るしかない。
父の代から、何度そういう目で見られてきた。
地味な血統だから。数が少ないから。大手じゃないから。
走る馬を出しても“たまたま”で済まされ、苦しくなれば“身の丈を知れ”と笑われる。
分かっていた。
だが、分かっているのと慣れるのは違う。
恒一は受話器を握る手に力を込めた。
「余裕がないからこそ、売れないものもある」 『ほう』 「こっちは今月を越えるのに必死だ。だからって、未来まで安く切り売りする気はない」
自分でも驚くほど、声は冷えていた。
受話器の向こうで、黒峰がわずかに笑った気配がした。
『面白い。では、その強気がどこまで続くか見せてもらおう』
通話が切れる。
受話器を置いたあとも、耳の奥にあの笑いだけが残った。
「……誰?」
美緒は聞いていたくせに、形だけそう言った。
「黒峰スタッド」 「最悪」 「ああ」 「売れって?」 「遠回しにな。でも中身は同じだ」
美緒は露骨に顔をしかめる。
恒一は机の上の請求書を見下ろした。
赤線の入った帳簿を見る。
そして、自分の中で曖昧だったものが、はっきり形になるのを感じた。
潰れかけだ。
金はない。
請求書は重い。
今月を越える保証もない。
それでも、守る一頭は決めた。
なら次は、その一頭を守れるだけの牧場にするしかない。
馬は今日も食う。
だから牧場は、今日も決めなきゃならない。
何を残すか。
何を切るか。
どこに金を使い、どこで頭を下げ、何年先を買うのか。
そして、その答えの最初の一手は、もう見えていた。
――高い種牡馬が、正解とは限らない。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C
配合読解:E
繁殖観察:C-
若駒評価:D
現場判断:B-
資金繰り判断:C-
交渉・信頼:D
牧場再建度:6%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:C+
若駒資産価値:D
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高




