第1話 この牝馬は、まだ終わっていない
「その牝馬、もう手放した方がいいぞ」
一週間前、馬房の前で馬商にそう言われた。
シラユキノハナは何も知らず、乾草を噛んでいた。
年を取った繁殖牝馬。
大きな競走実績があるわけでもない。血統表を開いても、買い手が身を乗り出すような名前は並んでいない。
「置いとくだけで金はかかる。次も無事に産める保証なんかない。情で残して、牧場ごと沈んだら意味ないだろ」
恒一は、その場では何も返せなかった。
そして今朝も、その言葉が残っている。
榊原ファームの事務所。
机の上には三通の封筒があった。
飼料業者。
獣医。
資材屋。
封を開けなくても中身は分かる。
請求書だ。
「……減ってねえな」
「睨んで減るなら、私も一緒に睨むけど」
後ろから声がした。
妹の美緒が、帳簿を抱えて立っている。
「朝から縁起悪い顔してるよ、兄さん」
「どんな顔だよ」
「今月どうやって生き残ろう、って顔」
「正解だから困るな」
美緒は机まで来ると、帳簿を置いた。
何本も引かれた赤線が見える。
恒一は封筒からそちらへ視線を移した。
「……そんなに悪いか」
「良かったら先に言ってる」
「だよな」
「去年の当歳が思ったより伸びなかった。春まで大きな入金もない。飼料代は上がってる」
美緒が指先で帳簿を叩く。
「一個、大きいのが来たらきついよ」
大きいの。
獣医代。
設備の故障。
売る予定だった馬の故障。
この牧場には、どれも一発で効く。
父が死んで榊原ファームを継いでから、数字の見え方が変わった。
昔は馬しか見ていなかった。
今は馬の後ろに、餌代が見える。敷料が見える。獣医代が見える。
馬房一つ空いていても金がかかる。
埋まっていても金がかかる。
「シラユキノハナは?」
恒一が聞くと、美緒の表情が変わった。
「それなんだけど」
「何だ」
「朝からちょっと変」
椅子を引く音が響いた。
「先に言えよ」
「今言った」
「どんな感じだ」
「横になったり立ったり。汗も多い。玲奈さんには連絡する」
最後まで聞かず、恒一は事務所を出た。
◇
厩舎へ入る前から、蹄の音が聞こえた。
落ち着かない。
一歩。
また一歩。
藁を掻き、止まり、また動く。
「ハナ」
馬房を覗く。
シラユキノハナがこちらを見た。
首筋に汗が浮いている。腹を気にするように何度も後ろを振り返り、耳がせわしなく動いていた。
分娩が始まっている。
それ自体は予定の範囲だ。
だが、何かがおかしい。
恒一は馬房へ入った。
「大丈夫だ」
首へ手を伸ばす。
「玲奈さん来るからな」
シラユキノハナが首を振った。
「分かった。触んなってか」
手を離す。
牝馬はまた腹を見る。
昨日まで普通だった。
乾草も食べた。水も飲んだ。
昨夜、見回った時にも妙なところはなかった。
それでも、朝にはこれだ。
「美緒!」
「今、電話してる!」
外から声が返った。
シラユキノハナが急に身をよじった。
「ハナ!」
壁際へ寄る。
恒一は反射的に一歩踏み込んだ。
「そっちは駄目だ!」
頭をぶつける。
そう思って首側へ回った瞬間、シラユキノハナの肩がまともに当たった。
「っ――」
身体が柵へ飛ばされた。
背中に衝撃。
その直後、後頭部に硬いものが当たった。
視界が白く潰れた。
◇
「兄さん!」
声がした。
「恒一。聞こえる?」
別の声。
目を開ける。
最初に見えたのは、美緒の顔だった。
その向こうで、天城玲奈がしゃがみ込んでいる。
「……ハナは」
「先に自分の心配しなさい」
「ハナは」
「診てる。まだ終わってない」
玲奈が恒一の目を覗き込む。
「吐き気は?」
「ない」
「見え方は?」
「……見える」
「何が」
「いや」
恒一は言葉を止めた。
シラユキノハナの身体の上に、何かが浮いていた。
淡い光。
その中に文字が並んでいる。
瞬きをする。
消えない。
目を閉じる。
もう一度開く。
まだある。
――――――――――
シラユキノハナ
繁殖価値:B
母系活力:A-
受胎安定:C
分娩安定:D
産駒伝達率:A
脚元リスク伝達:低
配合残光:未消失
潜在母系因子:
《晩成持続》
《心肺伝達》
《勝負根性》
総評:まだ終わっていない
――――――――――
「……何だよ、これ」
「何?」
美緒が見る。
「いや……何でもない」
頭を打ったせいだ。
そう考えるのが一番まともだった。
だが、妙に具体的すぎる。
繁殖価値。
母系活力。
産駒伝達率。
血統表を何時間眺めても、こんな数字は出ない。
何頭も産駒を見て、何年も結果を追い続け、それでも分からないことがある。
それが目の前に並んでいた。
「恒一」
玲奈の声で視線が戻った。
「立てる?」
「ああ」
「無理ならすぐ言って」
「大丈夫だ」
「その台詞、頭打った人から聞きたくない」
玲奈がシラユキノハナへ向き直る。
「来る。美緒ちゃん、お願い」
「はい」
美緒が動く。
恒一も立ち上がった。
足元が少し揺れたが、二歩目には収まった。
「ハナ」
牝馬の耳がこちらを向く。
恒一は首筋へ手を当てた。
「もう少しだ」
いきむ。
力が抜ける。
またいきむ。
玲奈の指示が飛ぶ。
美緒が道具を渡す。
恒一は言われた通りに手を添えた。
「そうだ。そのまま」
シラユキノハナが大きく息を吐く。
馬房に湿った音が落ちた。
仔馬だった。
藁の上に、小さな身体が横たわる。
動かない。
「玲奈さん」
「待って」
玲奈がすぐに手を伸ばした。
美緒は何も言わない。
恒一も口を閉じた。
一秒。
二秒。
仔馬の身体が震えた。
鼻先が動く。
空気を吸った。
「……よし」
玲奈の声が落ちた。
そこで初めて、恒一は握り込んでいた手を開いた。
シラユキノハナが首を伸ばす。
仔馬の身体を鼻先で確かめ、それから舐め始めた。
「よくやったな」
恒一は母馬の首を撫でた。
「ハナ。よくやった」
その時だった。
また、光が見えた。
今度は仔馬の上。
――――――――――
当歳牡馬
(シラユキノハナの仔)
速度:C
持久力:A-
心肺:A
脚元耐久:B
気性安定:C
成長力:A
芝適性:B
ダート適性:A-
距離適性:中距離
潜在スキル:
《心肺怪物》
《晩成》
《勝負根性》
母系覚醒率:高
推奨方針:
売却非推奨/自家保留有力
総評:
牧場の未来を変える可能性あり
――――――――――
恒一は、最後の二行から目を動かせなかった。
売却非推奨。
自家保留有力。
冗談じゃない。
今の榊原ファームが一番簡単にできない選択だ。
馬を売れば金になる。
残せば金が出ていく。
当歳なら、この先一年や二年では済まない。育成して、預けて、競馬場へ送るところまで金を払い続けることになる。
その間、この牧場が残っていればの話だ。
「兄さん」
美緒が言った。
「何?」
「また変な顔してる」
「今日はよく言われるな」
「今度は請求書見てる時と違う」
美緒はそれ以上聞かなかった。
仔馬が前脚を動かしたからだ。
一度、身体を起こそうとして崩れる。
また脚を動かす。
まだ細い。
力もない。
ステータスにAがいくつ並んでいようと、目の前にいるのは生まれたばかりの仔馬だった。
シラユキノハナが鼻先で仔を押す。
仔馬がもう一度、前脚を伸ばした。
恒一は手を出しかけた。
止める。
玲奈も何も言わない。
仔馬は自分で身体を起こそうとしていた。
一度滑った。
もう一度。
「……頑張れ」
それだけが口から出た。
事務所には、三通の請求書が残っている。
借金もある。
この仔を売れば、いくらになる。
残せば、いくらかかる。
そんな計算をしなければならない。
なのに、今はまだ値札をつけたくなかった。
仔馬が前脚を踏ん張った。
後ろ脚が震える。
立ち上がりかけて、また藁の上へ崩れた。
美緒が小さく息を吐いた。
「惜しい」
「ああ」
「またやるかな」
「やるだろ」
「何で分かるの」
恒一は仔馬を見た。
視界の端には、まだ文字が残っている。
「……何となくだ」
「何それ」
美緒が笑った。
外が少しずつ明るくなってきた。
恒一は馬房を出る前に、一度だけ振り返った。
シラユキノハナ。
その仔。
母馬の上に浮かんだ文字。
仔馬の上に浮かんだ文字。
見間違いなのか。
本当に見えているのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ、分かったことがある。
馬商が言った。
この牝馬は、もう上がり目がない。
今のうちに手放せ。
恒一はもう一度、シラユキノハナを見た。
「……まだ終わってねえじゃん」
小さく呟く。
返事の代わりに、母馬が仔の背を舐めた。
事務所へ戻れば、請求書が待っている。
藁の上には、売却非推奨と表示された仔馬がいる。
今月を越える金と、何年も先にあるかもしれない価値。
両方を取れる方法は、まだ見えなかった。
だから恒一は、この朝初めて知った。
馬の価値が見えることと。
牧場を救えることは。
同じじゃない。
---
榊原恒一の現状
牧場経営力:C-
配合読解:E
繁殖観察:D
若駒評価:D
現場判断:B-
資金繰り判断:D
交渉・信頼:D
牧場再建度:2%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
繁殖牝馬群の期待値:C+
若駒資産価値:D
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E




