第1話 この牝馬は、まだ終わっていない
牧場の朝は早い。
そんな綺麗な言い方で済むなら、うちはまだマシだった。
榊原ファームの朝は、暗いうちから金のことを思い出す時間だ。
馬房を一回りして事務所に戻ると、机の上に封筒が三つ置きっぱなしになっていた。
飼料業者。
獣医。
資材屋。
名前を見るだけで腹の底が重くなる。
開けなくても分かる。請求書だ。
「……またかよ」
声が白くなった。
四月だというのに、朝の事務所はまだ寒い。ストーブをつけるのも一瞬ためらう。灯油代なんてたかが知れている。分かっている。だが、そういう小さな金まで気になる時点で、もう笑えない。
馬は、こっちの財布なんか見ない。
腹が減れば食う。
腹に仔がいれば、もっと食う。
具合が悪くなれば獣医を呼ぶ。
蹄鉄も減る。藁も減る。水道も電気も使う。
なのに、金が入るのはずっと先だ。
種をつける。
腹が大きくなる。
無事に産まれる。
育つ。
人に見られる。
値段がつく。
そこまで行って、ようやく少し戻ってくる。
今日出ていく金の答え合わせが、一年後、二年後になる。
競走馬の生産なんて、そういう商売だ。
夢はある。
ロマンもある。
だが、請求書には夢もロマンも書いていない。
支払期日だけが、やけにはっきり印字されている。
「兄さん」
背後から声がした。
振り返ると、美緒が帳簿を抱えて立っていた。
俺の妹だ。
まだ若いくせに、最近は俺よりよほど事務所の空気が似合う顔をする。髪を後ろで一つに結んで、寝不足の目で、数字だけは一切見逃さない。
「また、その顔してる」
「どの顔だよ」
「潰れそうな牧場主の顔」
「朝から縁起でもねえこと言うな」
「縁起で黒字になるなら、神棚に札束供えてる」
かわいげがない。
いや、昔はあった。
たぶん。
父が倒れて、俺が戻って、借金の額がはっきりしてから、うちの家族はみんな少しずつ言い方がきつくなった。
美緒は帳簿を机に置いた。
その音が、妙に乾いて聞こえた。
「今月、ほんとに薄いからね」
「ああ」
「去年の当歳が伸びなかったのが痛い。春まで入金も弱い。ここで獣医代が増えたり、飼料の支払いが遅れたりしたら、一気に詰む」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「じゃあ、どんな顔ならいいんだ」
「ちゃんと潰れる覚悟をしてる顔」
言い返せなかった。
潰れる。
その二文字だけは、どうしても飲み込みたくない。
榊原ファームは、もう余裕のある牧場じゃない。
父の代から無理を重ねていた。父が倒れてからは、その無理を俺が引き継いだ。父が死んでからは、無理をごまかす人間すらいなくなった。
残ったのは、古い厩舎。
年を取った繁殖牝馬。
伸びなかった若駒。
返しきれていない借金。
そして、俺だ。
別に、俺が優秀だったから継いだわけじゃない。
ただ、逃げなかっただけだ。
いや、逃げられなかっただけかもしれない。
それでも。
父が毎朝歩いていたこの通路を、俺の代で草ぼうぼうにしたくなかった。
父が名前をつけた牝馬たちを、まとめて処分品みたいに扱いたくなかった。
だから、ここにいる。
それだけだ。
「シラユキノハナは?」
俺が聞くと、美緒の顔つきが少し変わった。
「夜のうちは落ち着いてた。でも、今朝は変」
「変?」
「落ち着かない。汗も多い。玲奈さんにはもう連絡しようと思ってた」
そこまで聞いた瞬間、俺は事務所を出ていた。
シラユキノハナ。
栗毛に白い差し毛が混じる、うちの古い繁殖牝馬だ。
若い頃に重賞を勝ったわけじゃない。
血統表を見た馬主が身を乗り出すような派手さもない。
セリで見栄えする馬体でも、もうない。
外の人間から見れば、真っ先に整理候補に上がる牝馬だった。
実際、先週来た馬商は、馬房の前で鼻で笑った。
『その牝馬、もう上がり目ないだろ。今のうちに手放した方が傷は浅いぞ』
言っていることは分かる。
分かるから、余計に腹が立った。
俺だって計算はする。
飼い続ければ金がかかる。
受胎しなければ一年が飛ぶ。
産んでも売れなければ、また金が詰まる。
そんなことは、毎日嫌というほど考えている。
けれど、馬房の中にいる一頭を見て、上がり目だの傷が浅いだの、紙くずみたいに言われるのは違う。
違う、と言い切れるだけの数字を、俺は持っていなかった。
だから黙った。
それが、一番悔しかった。
「ハナ」
馬房に近づく前から、嫌な音がしていた。
蹄が床を叩く音。
藁を荒く踏む音。
鼻息。
いつもの落ち着いた気配じゃない。
馬房の前に立った瞬間、背中に汗がにじんだ。
シラユキノハナは、首を振っていた。
腹は大きい。
分娩が近いのは分かっていた。
だが、これは綺麗に進んでいる時の様子じゃない。
耳が忙しく動く。
白目が覗く。
首筋に汗が浮いている。
嫌な汗だ。
「美緒! 玲奈さんに電話!」
「もうしてる!」
外から声が返った。
こういう時の美緒は早い。
俺は馬房に入った。
シラユキノハナの首に手を当てる。
熱い。
震えが、皮膚の下から伝わってくる。
「ハナ。落ち着け。大丈夫だ。大丈夫だから」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
だが、言わずにはいられなかった。
馬の出産は、静かに終わる時は本当に静かだ。
朝になったら、藁の上に濡れた仔馬がいて、母馬が何事もなかったように鼻を寄せている。
そういう奇跡みたいな朝がある。
だが、反対もある。
少しの遅れ。
少しの見落とし。
少しの判断違い。
それだけで、母も仔も持っていかれる。
牧場主は、その「少し」を後から何年も思い出す。
あの時、もっと早く呼べば。
あの時、もっと見ていれば。
あの時、あの時、あの時。
そんな後悔を、父も何度も抱えていた。
俺はまだ、その背中を忘れていない。
「頼むぞ、ハナ。ここで崩れるな」
シラユキノハナが身をよじった。
頭が壁にぶつかりそうになり、俺はとっさに体を入れた。
重い。
馬の力は、人間が思っているよりずっと強い。
こっちが必死でも、向こうはもっと必死だ。
「おい、暴れるな! 仔を潰すぞ!」
怒鳴った。
怒鳴ってから、自分の声が震えているのに気づいた。
怖い。
情けないくらい怖い。
この牝馬を失うのも。
腹の仔を失うのも。
この牧場がまた一つ、未来を失うのも。
全部怖い。
藁の匂い。
汗の匂い。
血の気配。
湿った息。
馬房の中の空気が、やけに濃くなった。
その時、シラユキノハナが大きく暴れた。
肩が柵に叩きつけられる。
痛みが走る。
体勢を立て直す前に、後頭部に硬いものが当たった。
視界が跳ねた。
白くなった。
何もかも、遠くなった。
最後に聞こえたのは、美緒の叫び声だった。
「兄さん!」
それから、音が消えた。
*
遠くで誰かが呼んでいた。
「恒一!」
「聞こえる!? 目、開けなさい!」
うるさい。
そう思った。
だが、その声が聞こえるということは、まだ死んでいないらしい。
瞼を持ち上げると、馬房の灯りが滲んで見えた。
天井。
梁。
藁。
美緒の顔。
その向こうに、天城玲奈の顔があった。
若い獣医だ。
口は悪いが、腕はいい。
父の代から世話になっている。
「……ハナは」
自分でも呆れるくらい、最初に出たのはそれだった。
玲奈が俺を睨んだ。
「まだ終わってない。あんたもね。だから勝手に寝るな」
「仔は」
「出かかってる。間に合う。たぶん。だから、立てるなら手伝って。立てないなら邪魔しないで」
いつもの言い方だった。
その雑さに、少しだけ安心した。
俺は起き上がろうとした。
頭がぐらつく。
吐き気が喉の奥まで来た。
だが、次の瞬間、そんなものは全部吹き飛んだ。
シラユキノハナの体の上に、何かが浮かんでいた。
薄い光。
いや、光というより、文字だ。
馬体の輪郭に重なるように、淡い板みたいなものが揺れている。
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シラユキノハナ
繁殖価値:B
母系活力:A-
受胎安定:C
分娩安定:D
産駒伝達率:A
脚元リスク伝達:低
配合残光:未消失
潜在母系因子:《晩成持続》《心肺伝達》《勝負根性》
総評:まだ終わっていない
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「……何だ、これ」
声が漏れた。
頭を打ったせいだと思った。
そう思いたかった。
だが、消えない。
瞬きをしても、目をこすっても、そこにある。
繁殖価値。
母系活力。
産駒伝達率。
そんなもの、血統表を何年睨んでも断定できるものじゃない。
牧場の人間は、経験で見る。
勘で拾う。
馬体、仔出し、気性、過去の産駒、血の流れ。
いくつもの材料を積み重ねて、それでも最後は「たぶん」と言うしかない。
なのに今、俺にはそれが見えていた。
しかも。
総評の一行が、胸に刺さった。
まだ終わっていない。
誰が書いた。
誰が決めた。
分からない。
だが、その言葉だけは、妙に信じたくなった。
「来るわよ!」
玲奈の声が飛んだ。
「恒一、ぼうっとしない! 手!」
「あ、ああ!」
俺は膝をついた。
体はまだふらつく。
だが、視界だけは妙にはっきりしていた。
シラユキノハナの腹の奥に、もう一つ光が見える。
仔だ。
まだ生まれていない。
なのに、小さな輪郭に、かすかな文字がまとわりついている。
心臓が嫌な跳ね方をした。
見間違いじゃない。
本当に見えている。
「ハナ」
俺はシラユキノハナの首筋に手を置いた。
汗で濡れていた。
熱い。
生きている。
苦しんでいる。
戦っている。
「お前、まだ終わってねえんだな」
誰に言うでもなく、口から出た。
シラユキノハナの耳が、わずかに動いた気がした。
「だったら、ここで見せろ。俺にじゃない。あいつらにでもない」
喉が熱くなった。
「お前自身にだ。まだ終わってないって、ここで証明しろ」
牝馬がいきんだ。
玲奈が短く指示を出す。
美緒が道具を渡す。
俺は手を伸ばした。
もう寒さは感じなかった。
請求書も。
借金も。
今月の支払いも。
その瞬間だけは、馬房の外へ押し出されていた。
ここにあるのは、母馬の息と、出ようとする命だけだった。
長かったのか、短かったのか分からない。
時間の感覚が消えた頃、湿った小さな体が藁の上に落ちた。
産声というほど強くはない。
かすれた息。
それでも、確かに息をした。
美緒が口元を押さえた。
玲奈が素早く動く。
俺は、藁の上で震える仔馬を見下ろしていた。
細い脚。
濡れた首。
まだ世界に馴染んでいない小さな体。
生まれた。
生まれてしまった。
こんな潰れかけの牧場に。
こんな金のない家に。
それでも、こいつは生まれてきた。
その時、視界にまた光が走った。
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当歳牡馬
シラユキノハナの仔
速度:C
持久力:A-
心肺:A
脚元耐久:B
気性安定:C
成長力:A
芝適性:B
ダート適性:A-
距離適性:中距離
潜在スキル:《心肺怪物》《晩成》《勝負根性》
母系覚醒率:高
推奨方針:売却非推奨/自家保留有力
総評:牧場の未来を変える可能性あり
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喉が鳴った。
売却非推奨。
自家保留有力。
ふざけるな、と思った。
今の榊原ファームに、その言葉がどれだけ重いか分かっているのか。
売れば、今月を越せるかもしれない。
残せば、金は出ていく。
飼料代。
管理費。
育成費。
時間。
人手。
何より、外した時の痛み。
未来があるかもしれない、なんて綺麗な言葉で馬は育たない。
未来には、毎月の支払いがついてくる。
それでも。
俺は、その仔馬から目を離せなかった。
弱々しい。
頼りない。
今にも折れそうな脚で、藁の上に横たわっている。
だが、胸の奥に変な熱があった。
誰も知らない。
誰も気づいていない。
馬商なら、笑うかもしれない。
古い牝馬の仔だ。
見栄えもしない。
今売っても高くはない。
そう言うかもしれない。
だが、俺には見えてしまった。
なら、もう知らなかったことにはできない。
俺は泥と汗にまみれた手を伸ばし、仔馬の首筋にそっと触れた。
小さな体が、ぴくりと震えた。
「……お前か」
声がかすれた。
「お前が、うちを変えるのか」
答えるわけがない。
仔馬はただ、湿った息を吐いているだけだ。
それでも俺には、その息がやけに太く聞こえた。
美緒が横で小さく言った。
「兄さん……?」
俺は返事をしなかった。
できなかった。
馬房の外では、朝日が雪雲の向こうから滲み始めていた。
借金は消えていない。
請求書も机の上に残っている。
飼料代も、獣医代も、待ってはくれない。
榊原ファームは、今日も潰れかけたままだ。
それでも。
俺は初めて、潰れかけた牧場の中で、まだ火が残っている場所を見た。
この牝馬は、終わっていなかった。
この仔も、まだ何者でもない。
なら、俺も。
まだ、終わったことにしてたまるか。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C-
配合読解:E
繁殖観察:D
若駒評価:D
現場判断:B-
資金繰り判断:D
交渉・信頼:D
牧場再建度:3%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:C+
若駒資産価値:D
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高




