第1話 この牝馬は、まだ終わっていない
牧場の朝は早い。
――なんて言葉で片づくうちは、まだ余裕がある。
榊原ファームの朝は、暗いうちから金のことを思い出す時間だった。
馬房の見回りを終えた榊原恒一は、事務所のストーブもついていない机の前で立ち止まった。昨日のまま放ってあった封筒が三つ。飼料業者、獣医、資材屋。どれも嬉しい手紙じゃない。
封を切らなくても分かる。請求書だ。
「……今月も、か」
独り言が白くなる。
馬は待ってくれない。腹が減れば食う。腹の中に仔がいれば、なおさらだ。けれど売上は、馬みたいに毎日やって来てはくれない。
生産牧場の金は遅い。
種をつけて、腹が大きくなって、無事に生まれて、育って、ようやく値がつく。今日かかる金の答え合わせが、来年や再来年になることも珍しくない。
なのに、飼料代も、人件費も、獣医代も、今日払えと言ってくる。
そこが、この仕事の残酷なところだった。
「兄さん、またその顔してる」
背後から声が飛んできた。振り返ると、妹の美緒が帳簿の束を抱えて立っていた。髪を後ろでひとつに結び、眠そうな顔だけはまだ年相応だが、口調は妙に現実的だ。
「その顔って何だよ」
「潰れそうな牧場主の顔」
「縁起でもないこと言うな」
「縁起で回るなら、とっくに黒字よ!」
容赦がない。
美緒は机に帳簿を置くと、ため息まじりに言った。
「今月、ほんとにきついからね。去年の当歳が思ったほど伸びなかったのが痛いし、春まで現金が薄い。ここで何か崩れたら、一気に詰む」
分かってる。言われなくても。
榊原ファームはもう、余裕のある牧場じゃない。父が倒れてから無理が重なり、その父が死んでからは、無理をごまかす人間すらいなくなった。
残ったのは、古びた厩舎と、少しずつ齢を取った繁殖牝馬たちと、返しきれない借金だ。
それでも恒一がここに立っているのは、ただ一つだった。
終わらせたくない。
父が守ってきたこの牧場を、自分の代で潰したくなかった。
「シラユキノハナの様子、どう?」
「夜のうちは落ち着いてた。でも今朝は少し気になる」
その名を聞いた瞬間、恒一は事務所を飛び出していた。
シラユキノハナ。
栗毛に白い差し毛が混じる、年を取った繁殖牝馬だ。若い頃に大きな実績があったわけじゃない。派手な血統表でもない。セリで人の目を引くような“見栄え”とも、もう言い難い。
だから外から見れば、真っ先に整理の候補にされる馬だった。
実際、先週来た馬商は笑って言ったのだ。
『その牝馬、もう上がり目ないだろ。今のうちに手放した方が傷は浅いぞ』
その時、恒一は笑えなかった。
馬房に入る前から、嫌な気配はあった。落ち着かない蹄の音。湿った鼻息。藁の擦れる音が、妙に荒い。
「ハナ」
声をかけると、シラユキノハナは首を振った。腹は大きい。だが様子がおかしい。汗のにじみ方が尋常じゃない。耳が忙しなく動き、白目が覗く。
分娩が近い。しかも、きれいに進んでいない。
「美緒! 玲奈さんに電話! すぐ来てもらえ!」
「もうしてる!」
外から返事が飛ぶ。さすがに気が利く。
恒一は馬房に入り、シラユキノハナの首を撫でた。
「大丈夫だ。大丈夫だから、暴れるな……頼む、ここで折れるなよ」
馬の出産は、奇跡みたいに静かに終わることもあれば、あっけなく命を奪っていくこともある。
人間みたいに、産院で管理されるわけじゃない。牧場の夜、藁の上、冷えた空気の中で、生きるか死ぬかを越える。
だからこそ怖い。
そして、だからこそ、牧場主は逃げられない。
シラユキノハナが苦しそうに身をよじった。恒一はとっさに体を入れ、壁に打ちつけそうになった頭を腕で受ける。重い。熱い。必死だ。
「おい、ハナ、落ち着け! 仔を潰す気か!」
叫びながら、自分でも何を言っているのか分からなかった。
牝馬の腹が強く波打つ。藁の匂いと汗の匂いと、血の気配が混じる。
その時だった。
シラユキノハナがもう一度大きく暴れ、恒一の肩が柵に叩きつけられた。視界が跳ねる。次の瞬間、後頭部に硬い痛みが走った。
世界が、真っ白になった。
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遠くで声がする。
「――い! 恒一!」 「意識ある!? 聞こえる!?」
瞼を持ち上げると、滲んだ天井が見えた。馬房の灯りだ。横には美緒、その向こうに天城玲奈の顔がある。
「……ハナは」
最初に出たのは、それだった。
玲奈が息を吐いた。
「まだ終わってない。でも間に合う。だからあんたは黙ってて」
叱る声なのに、少しだけ安心する。
起き上がろうとして、頭がくらついた。だがその瞬間、恒一は言葉を失った。
シラユキノハナの身体の上に、見たこともないものが浮かんでいたからだ。
淡い光の板。
いや、板というより、文字の群れだ。
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シラユキノハナ
繁殖価値:B
母系活力:A-
受胎安定:C
分娩安定:D
産駒伝達率:A
脚元リスク伝達:低
配合残光:未消失
潜在母系因子:《晩成持続》《心肺伝達》《勝負根性》
総評:まだ終わっていない
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「……は?」
思わず声が漏れた。
頭を打ったせいかと思った。だが消えない。目をこすっても、そこにある。
しかも、見えてはいけないはずのことまで書いてある。
繁殖価値。産駒伝達率。母系活力。
そんなもの、血統表を何年睨んでも、ここまで断定なんかできない。経験のあるホースマンだって、“感触”で言うしかない領域だ。
なのに今、恒一には、それがはっきり見えていた。
玲奈がシラユキノハナの状態を確認しながら叫ぶ。
「来るわよ。恒一、立てるなら手伝って」
「あ、ああ」
体はふらついた。けれど頭だけは妙に冴えていた。
シラユキノハナの腹部、その奥に、もう一つ光がある。
仔馬だ。
まだ生まれてもいないのに、その輪郭の上に、さらに小さな文字が散っている。
心臓が跳ねた。
見間違いじゃない。
本当に、見えている。
恒一は息を呑み、藁の上に膝をついた。シラユキノハナの首筋に手を当てる。荒かった呼吸が、一瞬だけ揃った気がした。
「ハナ。頼む。お前、まだ終わってねえんだろ」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
「だったら、ここで証明しろ。俺に見せてみろよ。お前が、まだ終わってないってことを」
もう一度、牝馬がいきんだ。
玲奈の声が飛ぶ。美緒が道具を渡す。恒一は手を伸ばす。
寒さも、請求書も、借金も、その瞬間だけは遠かった。
ただ一つだけ、はっきりしている。
もし今見えたものが本物なら。
もしこの馬の中に、誰も知らない価値がまだ残っているのなら。
榊原ファームは、まだ終わっていない。
やがて、産声の代わりに、湿った小さな息が馬房に落ちた。
世界が静まる。
藁の上で震える、生まれたばかりの仔馬。
恒一の視界に、再び光が走った。
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当歳牡馬(シラユキノハナの仔)
速度:C
持久力:A-
心肺:A
脚元耐久:B
気性安定:C
成長力:A
芝適性:B
ダート適性:A-
距離適性:中距離
潜在スキル:《心肺怪物》《晩成》《勝負根性》
母系覚醒率:高
推奨方針:売却非推奨/自家保留有力
総評:牧場の未来を変える可能性あり
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喉が鳴った。
売却非推奨。自家保留有力。
今の榊原ファームにとって、一番難しい言葉だった。
売れば、今月を越えられるかもしれない。
残せば、未来は変わるかもしれない。
そんなもの、今の自分に選べるのか。
だが、震える仔馬を見下ろした瞬間、恒一の胸の奥で何かが燃えた。
誰も知らない。
誰も気づいていない。
けれど、俺には見えてしまった。
なら、もう目を逸らせない。
恒一は泥と汗にまみれた手で、仔馬の首筋にそっと触れた。
「……お前か」
小さな体は、弱々しく震えている。けれど、その奥に、妙に強い芯があった。
「お前が、うちの未来になるのか」
馬房の外では、朝日が雪雲の向こうからわずかに差し始めていた。
借金は消えていない。請求書もなくならない。
牧場はまだ、潰れかけたままだ。
それでも恒一は、生まれたばかりの仔馬から目を離せなかった。
初めてだった。
絶望の真ん中で、未来を見たのは。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C-
配合読解:E
繁殖観察:D
若駒評価:D
現場判断:B-
資金繰り判断:D
交渉・信頼:D
牧場再建度:2%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
繁殖牝馬群の期待値:C+
若駒資産価値:D
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E




