第19話 崩れていない、という価値
タチカゼを送り出してから五日が過ぎた。
五日で劇的に何かが変わるわけではない。
だが、変わらないことにも値打ちはある。
朝の厩舎で、恒一は空いたままの馬房を見た。
フユノホシはその隣で落ち着いて乾草を噛んでいる。シラユキノハナの仔も、相変わらず地味なまま、少しずつ脚の運びを覚えている。
大きな変化はない。
けれど、崩れてもいない。
それが今は大事だった。
「兄さん」
事務所から美緒の声がした。
「電話。北斗から」
「史門か」
「たぶん。用件だけ言う声だった」
恒一はすぐに立ち上がった。
受話器を取る。
相手は史門だった。
『榊原さん』
「タチカゼはどうだ」
『まだ走らせてません』
「……何もしてないのか?」
『何もしていないわけじゃありません。走らせていないだけです』
ぶっきらぼうな声だった。
だが、恒一はそれで逆に少しだけ肩の力が抜けた。
「悪い報告じゃないんだな」
『逆です』
史門は即答した。
『着いてすぐ走らせる方が雑です。いまは環境に慣らして、食わせて、触って、崩れないかを見る段階です』
その言葉は、いまの恒一にはよく分かった。
焦らない。
急かさない。
削っても薄くしない。
それと同じ話だ。
『その上で言います』
史門が続ける。
『今のところ、崩れてません』
「……」
『飼い葉も食ってます。周りに飲まれすぎてもいません。気持ちだけ前へ跳ねる感じも、到着直後としては悪くない』
恒一は無意識に、少しだけ息を吐いていた。
崩れていない。
派手な褒め言葉じゃない。
走るとも言っていない。
それでも、いまはそれが一番ありがたい。
「よかった」
思わずそう言うと、史門は少し間を置いた。
『売った馬ですよ』
「そうだな」
『なら、そこまで気にしなくてもいいはずです』
「そういうわけにもいかない。こっちで作った馬だ」
『……』
「売った先で崩れたら、結局うちの馬の負けだろ」
受話器の向こうで、史門が小さく息を吐いた気配がした。
『……そういうところは、ちゃんと牧場主ですね』
「褒めてるのか」
『事実を言っただけです』
そこで通話は切れた。
受話器を置くと、美緒がすぐに顔を上げる。
「どうだった」
「崩れてない」
「……それ、いいこと?」
「かなりいい。今の段階なら、一番いい」
「地味だね」
「今は地味でいい」
玲奈が、そのやり取りを聞いて少しだけ笑った。
「派手に褒められるより、私はそっちの方が信用できるわ」
「俺もそう思う」
恒一は言った。
「崩れてないってことは、少なくとも送り方と預け先は間違ってなかった」
それは小さいが、本物の手応えだった。
タチカゼを売った。
それだけなら、たまたまで終わる。
だが、送り出した先で崩れていない。そこまで含めて初めて、「この牧場の馬は雑に流れていない」と言える。
「兄さん」
美緒が帳簿の余白に何か書きながら言う。
「その話、使える?」
「使う」
「誰に?」
「今すぐ言いふらす話じゃない。でも、分かる相手には出せる」
たとえば桐生。
たとえば三雲。
たとえば、また牝馬を見に来る誰か。
一頭売って終わりじゃない。
送り出した先でどう扱われているかまで含めて、牧場の信用になる。
その時、戸が開いて三雲が入ってきた。
「ちょうどよかった」
「今度は何だ」
「黒峰の件」
その名前が出た瞬間、事務所の空気が少しだけ張る。
「沼田か」
「うん。こっちの取引先に、ちょこちょこ顔出してる」
「……牽制か」
「たぶんね」
三雲は椅子にも座らずに続けた。
「露骨な悪口は言ってない。でも、“榊原は地味な馬を抱えて待ちすぎる”って空気を流してる」
「外れてないのが腹立つね」
美緒が言う。
「そう。嫌な正しさって、一番効くんだよ」
三雲は苦く笑った。
恒一は黙った。
待つ。
見せない。
それはこっちの勝ち筋だ。
だが、外から見ればこうも言える。
売れないから抱えている。
決めきれないから待っている。
地味な馬しかいないから、時間を言い訳にしている。
そう見られれば、たしかに弱い。
「兄さん」
美緒が低く言う。
「言い返す?」
「しない」
恒一はすぐ答えた。
「今そこに乗ると、向こうの土俵だ」
「でも、言われっぱなしになる」
「言われっぱなしでいい時もある。こっちが言葉を盛ったら、向こうの思うつぼだ」
玲奈が腕を組んだまま、窓の外を見た。
「どうせ、向こうは“今すぐ分かりやすい価値”で押してくるわよ」
「だろうな」
「なら、こっちは崩れてないことを積むしかない。派手じゃないけど、あとで効くのはそっち」
その言葉は、そのままさっきの史門の報告と重なった。
崩れていない。
焦っていない。
雑に扱っていない。
派手ではない。
だが、こういう小さい実績こそ、あとで効く。
「三雲さん」
恒一が言う。
「桐生のところ寄る予定あるか」
「今日の夕方なら」
「なら伝えといてくれ。タチカゼ、北斗で崩れてない」
「それだけ?」
「それだけでいい」
「もう少し盛らなくていいの?」
「盛った分、あとで払うことになる」
三雲は少しだけ笑った。
「前のあんたなら、そこに“かなり良さそう”くらい足してたかもね」
「盛って後で潰れる方が高くつく」
「言うようになったねえ」
それは自分でも思った。
前なら、少しでも明るく聞こえる言葉を探したかもしれない。
今は違う。
まだ何も証明していない段階で、大きく言う方が怖い。
昼過ぎ、恒一はフユノホシを少しだけ外へ出した。
長くは歩かせない。
空気を変えすぎない。
でも、同じ場所に置きすぎても、敏い馬はかえって狭くなる。
空の馬房の前を通る時、フユノホシは少しだけ首を向けた。だが、すぐ戻った。
「ましになったな」
恒一が言う。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
フユノホシ
気性安定:B
環境変化耐性:低
馬房間隔効果:有効
外気接触反応:安定
推奨対応:短時間外出維持/見学制限継続
総評:静かな管理で地力維持。急な刺激不要
⸻
静かな管理で地力維持。
それでいい。
今はそれでいい。
走ったわけでもない。
売れたわけでもない。
でも、崩していない。
以前なら、その“何も起きていない”がもどかしかった。
今は違う。
何も起きていないことにも、ちゃんと意味があると分かってきた。
厩舎へ戻ると、シラユキノハナの仔が、少しだけ勢いよく前へ出て、でも慌てずに母へ戻った。
恒一はその足元を見る。
まだ地味だ。
それでも、毎日少しずつ芯が残っている。
「兄さん」
美緒が後ろから来た。
「タチカゼのこと、嬉しかった?」
「……ああ」
「やっぱり」
「でも、喜ぶには早い」
「早くても、少しは喜んでいいでしょ」
「少しだけな」
少しだけ。
そのくらいが今の榊原ファームにはちょうどいい。
派手に勝ったわけではない。
だが、送り出した馬が崩れていない。
残した馬も崩れていない。
それは、いまのこの牧場には十分小さくない。
夕方、桐生から短い電話があった。
『三雲から聞いた』
「早いですね」
『崩れてないんだってな』
「はい」
『なら、次も話はできる』
それだけ言って切れた。
短い。
だが、その短さがむしろ重かった。
信用は、現金より遅い。
けれど、遅くてもちゃんと届く。
恒一は受話器を置いて、窓の外の厩舎を見た。
派手な光景はない。
地味な馬がいて、空いた馬房があって、乾草が少し足りない。
それでも、今日はたしかに昨日より牧場が薄くなっていなかった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B
交渉・信頼:B
牧場再建度:20%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




