8
「いらっしゃいませ」
二日後の休日。
黒猫と月にやって来た僕は、ミモザのキーホルダーが付いた鍵を、財布やスマホと一緒にテーブルの隅に置いた。
「あら、ミモザ!素敵ですねぇ」
「えぇ。作って頂いた物なんです。このマンションの前にあるミモザがとても印象的だったので」
今はすっかり緑一色となったミモザの樹。これを見れば春の満開だった頃を思い出す。
愛さんはキーホルダーを手に取り、「素敵」「綺麗だわ」とうっとりしていた。
柔らかな長い髪を低い位置で結び、今日は全体的にベージュで纏められた服装の愛さん。
メニューを見るのも忘れて見惚れていると、僕の視線に気づいた愛さんが
「あ、お決まりになりました?」
と、キーホルダーを財布の隣にそっと戻した。
珈琲豆を挽く音が、ゆっくりと店内に流れる。
湯をそそぎ、丸く深い抽出音。
やがて漂う、ふくよかな香り。
こうして座っているだけで、五感が研ぎ澄まされるようだ。
手元にある本のページを捲る。
柔らかな古書の手触りや、目の前の海を望む景色。
ひとつひとつが、この喫茶店の味わいを深くする要素なのだ。
そこで飲む珈琲は、他で飲むものとは全く違う気がする。
ひとくち飲むたび、読んだ本の世界を想像してみたり、景色に目を向け、今まで歩んだ人生の道のりと、ぼんやりとしたまだ見ぬ未来を想う。
愛さんが淹れた珈琲を飲み、ふうと息を漏らした。
カランコロン
「なんだ、今日はお前か」
ドアベルが鳴ったと思ったら、巳影さんが音もなく僕の背後に立っていた。
この人はとにかく気配がない。
気配が薄いんじゃない。とにかく「ない」のだ。
「えっと……こんにちは」
相変わらず鋭い目つきで僕を見下ろしている。
ふんと鼻を鳴らし、前回と同じカウンター席に座った。
『今日はお前か』とは何の事だろう。
僕が不思議そうに彼を見つめたからか、巳影さんは鬱陶しそうに眉をひそめて、わざとらしくため息を吐いた。
「この前、午前中に来たら小鳥遊だったか。そいつがいたんだよ。もううるさいったらねぇぜ。知り合いなら何とかしろよな」
「す、すみません」
なんで小鳥遊の分を僕が謝らなきゃならないんだよ。
心のなかではそう思いつつも、彼の睨みに謝らざるを得なかった。
「お気になさらないで。彼、まんざらでもありませんでしたから。小鳥遊さんのような素直で明るい方の好意に、素直に喜べないだけですよ。ちょっとひねくれものですから。ねぇ?」
「うるせぇ。つか客の注文、待たせるなよな」
「あら、そんな偉そうな態度は駄目よ」
「別に偉そうになんて……」
「いくら本当は優しくても、そういうのは全てを台無しにしてしまうのよ。私はあまり好きじゃないな」
「……」
これではまるで親子だ。反抗期の息子に、母親が叱っているような光景に思わず吹き出した。
「おい」
トラかライオンにでも睨まれたような視線を向けられたが、そこに怖いという感情は生まれなかった。
「なんでもありません、ごめんなさい」
愛さんも笑いを堪えるように唇を噛みながら、ミルクの入った白いカップを巳影さんの前に差し出す。
そうか、小鳥遊も個人的にここに来るようになったのか。
巳影さんがカップに口をそっとつける。
僕は珈琲と一緒に頼んでいたスコーンに、ブルーベリージャムを塗って食べた。
再び静かになった店内。
あともう少しで読み終わる、宮沢賢治の銀河鉄道の夜のページを開いた。
刺繍のミモザを横目に、穏やかに吹く海風に乗るように、ゆっくりゆっくりと、物語の世界へ旅立った。
気付けば空は薄紫色に染まりかけていた。
銀河鉄道の夜の世界と何となく重ね合わせ、心がぐらりと揺らぐ。
「読み終えました?」
僕が本を閉じたタイミングを見計らって、愛さんがグラスを下げに来た。
「それ、巳影さんも好きなんですよ。と言っても彼自身が読んだのではなく、龍さんが内容をお話してくださったんです。それからは私も巳影さんも大好きなお話なんですよ」
また拗ねてしまうと思ったのか、彼には聞こえないように囁いた。
愛さんはともかく、彼がこういう物語を好むなんて意外だな。
「聞こえてるっつーの」
巳影さんは愛さんのスケッチブックをぱらぱらと捲りながら、呆れ声で言った。
「お二人は、仲いいんですね」
思わずそんな言葉が出た。
まるで親子のような掛け合いができる二人は、付き合いが長いのだろう。
僕と小鳥遊のようなものだろうかという疑問が、ここにきてむくむくと大きくなってしまった。
「あら、仲良くみえます?彼、昔からあんな感じだからきっと不仲に見えるんじゃないかと思っていたんですよ。もう付き合いも随分長いですから、そろそろ何とかならないかと思うんですけどねぇ」
「なんとかって何だよ」
ぶっきらぼうな口調で、スケッチブックをカウンターの向こうに置いた。
「随分、ですか。このお店を始める前からとか?」
しまった、踏み込み過ぎか。そこまで言ってハッとした。
「そうですね。このお店を始める前から。彼とは、もうずーっと昔からの友人です」
その言葉に、ふと店内に並ぶ古書のことを思い出す。
これらは、お客さんが置いて行ったものだと言っていた。
それも10年以上前の話だと言っていた気がする。
彼女はどこからどう見ても僕より年下だ。
女性の年齢を当てるのは得意ではないが、25歳前後と言ったところだろう。
愛さんの親がこの店をやっていて、その手伝いか何かをしていた時の話という事だろうか。
「そうですか」
僕のいまいち納得していない返事に、愛さんはきょとんとした表情で「えぇ」と答えていた。
それから少しして帰る支度をした僕は会計を済ませた。
「また来ます。本当に居心地が良くてずっと居座りたくなっちゃいますね」
「あら、嬉しいですねぇ。いつでもお待ちしておりますよ」
愛さんがレジの向こうから出てきてドアを開ける。
「これからもずっと通うつもりなので、よろしくお願いします」
おもむろに席を立った巳影さんが、僕の前までやって来た。
僕よりずっと背の高い彼は、見下ろすようにして視線を合わせる。
これはいわゆるメンチを切るというやつか。
「お前。無責任な事言うんじゃねぇぞ。ちょっと常連になったからって、軽々しく――」
そこまで言って、愛さんが「やめて」と巳影さんを僕から押し離した。
「ごめんなさいね。お店は毎日やっていますから、いつでも来てください」
ドアが閉まる直前、睨みつけてくる彼にも恐る恐る一礼してから家路についた。
僕、まずい事でも言ったのだろうか。
せっかく穏やかな気分で本を読んで珈琲を楽しんだというのに、その夜、眠る間際までもやもやと心に霧がかかっているようだった。




