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「あー……疲れた」


誰もいない更衣室に情けない声が響く。


早番は明るいうちに帰れるのは良いものの、やはり早朝に家を出なければならないのはきつい。


しかも仕事には入浴介助というものも含まれる。


四月も後半になって気温が上がりつつあるなか、何時間も風呂場に留まり、次々にやってくる利用者さんの入浴を手伝うというのは、かなりの体力を消耗する。


特に男手の少ないこの職場では、暗黙の了解で僕は終始洗い場担当になる。


終わった頃には、汗なのか蒸気なのかわからないくらいぐしょぐしょだった。


愛さんの店でアイス珈琲でも飲みたいな。


雫を纏ったグラスのなかで、カランと涼やかにぶつかる氷の音が恋しい。


あぁ、でも。今日は寄りたいところがあるんだ。


廊下から、勤務を終えた職員が歩いてくる音が聞こえる。


急いで着替えを済ませ、荷物をまとめて更衣室を後にした。


施設の玄関を出て、駐車場を抜ける。門のロックを解除して外に出ようとした時だった。


「おぅい」


辺りを見回すが、誰もいない。

目の前の道路は、車が一台通り過ぎた。


ざぁっと、施設の周りに鬱蒼と生える木々が枝葉をざわめかせる。


「おぅい。兄ちゃん、こっちだよー」


施設の二階ベランダを見上げると、この時間になると愛媛に帰ろうとする正明さんが手を振っていた。


「こんにちはー。夕涼みですか?」


「そうだよぉ。風が気持ち良くていいよなぁ。こんな日は子供と海辺を散歩したもんだ」


掃き出し窓から、最近入職したばかりの職員が部屋に入るよう促す。

だが正明さんは「なんだあ、お前は」とか「そんなもん自分で決めるー」と断固拒否の様子だ。


そろそろ夕飯の時間なのだろう。


声掛けの仕方が拙い若い男性職員が口をもごつかせているのに見兼ねたベテランの女性職員が、すんなりと正明さんを部屋の中へ連れ帰った。



涼し気な水流音。エアーポンプの振動音。


気持ちよさそうにすいすいと泳ぎ回る煌びやかなネオンテトラ。


水草の隙間からこちらを覗いているエンゼルフィッシュ。


足元の和風の丸い鉢では、小鳥遊も飼っているというめだかが、ちょこまかと泳ぎ回っている。


僕が迷うことなく向かったのは、金魚の水槽だ。


それも定番中の定番であろう、和金という種類だった。


初心者にも易しそうという理由と、夏祭りの定番でもあるこの金魚は、見ているだけで子供の頃を思い出して懐かしい気持ちになれて好きだ。


「すみません、これ一匹ください」


店の奥で水槽の掃除をしていたらしいエプロン姿の中年男性が、小さな網を手に出て来た。


「どれがいい?」


適当に選んでもらえるものだと思っていた僕は、思わず「えっ」と漏らしてしまう。


「あんたが、ビビッときたのを選ばなくちゃ。金魚だって生きてるんだ、相性ってもんがある。まぁ金魚側にも選ぶ権利があるがな」


そういうものなのか?と疑問を抱くも、男性がじっと見てくるので、僕は慌てて水槽に視線を合わせた。


一匹の金魚と目が合った気がした。


こちらの様子を伺うように、すいと動いては止まり、また動いては止まり。

やがて僕の方を正面からじっと見て、口をぱくぱくさせ始めた。


「この子にします」


「あいよ」


こうして僕は、少しずつ色濃くなりつつある空の下、金魚を一匹つれて帰る事になった。


小鳥遊が送り付けてきためだかが思った以上に可愛く、気付いたら水槽から何から準備していたのだ。


「これからよろしくな」


金魚の入った透明な袋を顔の高さに掲げる。


きょとんとした表情の金魚は、まるまるとした瞳でこちらを見つめていた。



五月に入る辺りから、景色に鮮やかな黄色が増えた。


菜の花だ。


喫茶黒猫と月に向かう道中にも、広大な田んぼの一角に菜の花畑がある。


その向こうには線路が走っているので、明るい時間に通ると、菜の花畑のなかを電車が走っているように見えて風情がある。


そんな麗らかであたたかみのある風景は、何もない田舎に自然がもたらしてくれる絶景のひとつだ。


黄色い花を見たら、あのマンションの前に立つミモザを思い出す。


そして愛さんの笑顔と、異次元かのように時間の流れがゆるやかなあの店に行きたい。

愛さんの珈琲を飲みたいという衝動に駆られる。


四月の頭に小鳥遊と一緒に喫茶店を訪れて以来、龍さんとは何度か店で会った。

巳影さんは一度も会えていない。



スマホのアラームが、休憩時間が終わった事を知らせる。


「行くか」


残っていた缶コーヒーを一気に飲み干し、午後からの仕事に気合を入れる。


僕より後に休憩室に入って来た若い女性職員が事務机に突っ伏して眠りこけている。

彼女を起こしてしまわないよう、物音を立てずにそっと部屋を出た。


「お兄ちゃん、滝本さん」


リネン庫にシーツを取りに行こうとしていた僕を呼び止めたのは、チヨさんだ。車いすを漕いで、僕のすぐ傍までやって来ていた。


「これ、完成したのよ。遅くなってごめんねぇ」


青い血管が浮き出た細い手に乗っているのは、ミモザの刺繍のキーホルダー。


チヨさんの車いすに付けているのと同じように、白い布が見えないように裏に織り込み、丁寧に縁の処理がされてある。


まるで光を浴びたミモザのように、少しずつ糸を変えてグラデーションが成された、とても繊細で綺麗なものだ。


「すごいですね!嬉しいなぁ、ありがとうございます!わぁ……本当にすごい!大切にします」


「あらぁ、そんなに言って貰えたら嬉しいねぇ。頑張った甲斐があったわぁ」


ふふふと、頬に手を当てて笑うチヨさん。


あまりに嬉しくて、どうせならいつも持ち歩く物が良いと自宅の鍵に付けて、部屋に戻っていたチヨさんに見せに行った。


「あれ、何か探し物ですか?」


テレビも付けず、部屋の隅で何やらごそごそとしていたチヨさんに声を掛ける。


「いえいえ、えぇっと、ほら。この辺散らかってるから、片付けようかなって」


そうして、いつものくしゃっとした笑顔を見せた。

僕が手にしていた鍵とミモザを見たチヨさんの表情が更に明るくなる。


「まぁまぁ、そんな大事なものに付けてくれたの?ありがとねぇ。お兄ちゃんは本当に優しいねぇ。お父さんも、息子も死んじゃって、なーんにも残ってないと思ってたけど、ここに来て良かったよぉ」


チヨさんは目頭を親指で拭い、何度も、何度も「ありがとう」と僕の手を握った。






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