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今宵、ミモザの樹の下で  作者: 如月つばさ
第1章 隠れ家喫茶「黒猫と月」
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6

陽が傾き始める。真上にあった太陽が、海へと近づき、水面に光の道を映す。

真っ青だった空も、次第に赤みが強くなり始めていた。


「じゃ、私はそろそろ帰ろうかな。実はめだか飼い始めてさぁ。これが思ってた以上に可愛くて、私が帰ってきたら『おかえりー』みたいに集まってくるのよ。今夜にでも写真送るわ。うちのは特別かわい子ちゃん揃いよぉ」


別に送らなくて良いよ、と喉まで出かかった突っ込みを飲み込んだ。


小鳥遊が帰り、ぼんやり窓の向こうに広がる海の夕暮れを楽しんでいた。


愛さんはやはり暇さえあれば絵を描いている。

手にしているのは色鉛筆だ。

だが筆も持っていて、時折水に浸しては、さらさらと紙の上を滑らせていた。


「なにを描いてるんですか?」


「上手ではないですけれど、ご覧になります?」


スケッチブックの一ページ目は、このマンションの外観だ。


全体的にパステルカラーの色合いで描かれた、柔らかな質感の絵。


満開のミモザと、店の看板も描かれている。


「綺麗だなぁとか、この景色を残しておきたいって思った時に描くんです。でも多すぎちゃって、気付いたらお客様がいるのに四六時中描いちゃって。あ、でもお客様を描く時はちゃんと許可を頂いてからにしていますから」


愛さんは、困ったような笑みを見せる。


描かれていたのは、カウンター席にいる巳影さんだ。


愛さんが描く巳影さんがミルクを飲む姿は、とても穏やかな表情だ。


ちょっと乱暴で愛想の欠片も無い人だと思ったけど、愛さんの前ではこんなに優しい顔をするんだ。


彼も愛さんも、お互いが長い付き合いであるかのように親し気に話していた。羨ましさを感じなかったと言えば嘘になる。


「ぼ、僕も描いてくださって大丈夫です」


いや待て、そもそも僕なんて描きたいのか。


巳影さんは整った顔立ちとエキゾチックな雰囲気が絵になるが、僕なんて地味な人間だ。


だがそんな心配は無用だったらしく、愛さんの表情が明るくなった。


「ありがとうございます!では、次回からは描かせて頂きますね」


なんならその敬語も無くしてもらって構わないのだが、何となくそこまで言うのは馴れ馴れしすぎるのではと思うと、口に出来なかった。


キッチンの、珈琲を淹れる道具や珈琲豆。

使い古したフライパン、木のまな板。

巳影さんの絵に玄関ドアも入るよう描かれているのは、愛さん曰く『あのドアが開くのが毎日楽しみ』だからだそうだ。


「あれ、この人」


スケッチブックをめくる手が止まる。

窓辺のテーブル席の一番奥の椅子に座る、見覚えのある男性の絵だ。


椅子には白い杖が立てかけられている。


「この人と、そこの海で話しましたよ」


「あら、そうでしたか。うちの常連さんで――」


カランコロン カランコロン


そう言えば、彼は夕方から夜にかけてここに来ると言っていた。


「こんにちは」


「おや、その声は」


男性は僕の目の前までやって来て「あぁ、やっぱりだ」と、嬉しそうに顔をほころばせた。


男性は愛さんの絵と同じ、窓辺の一番奥のテーブル席に座った。


「いつもの、お願いね」


「かしこまりました」


常連さんならではの注文。


愛さんはキッチンの壁に並ぶ何種類もの珈琲豆のボトルから、迷うことなくひとつを取り出して準備を始める。


「君もここのお客さんだったんだね。僕がこの喫茶店の話をした時の君の反応で、なんとなくそんな気がしていたけど。また会えて嬉しいよ」


僕はあの時、驚きの言葉は口にしていなかったはずだ。

そう伝えると、男性は得意そうに口の端に笑みを溜めた。


「目が見えないとね、代わりに色んな神経が研ぎ澄まされる事があるんだよ。人より音に敏感になったり、匂いが繊細に嗅ぎ分けられるようになったり。僕はこれがとても嬉しくてね。案外悪い事ばかりでは無いんだ」


彼がこの店に通っていると言った時の、少し驚いた僕の息遣いや、僅かに漏れた声で気付いたという事だろうか。


「あの、名乗り遅れたんですけど……滝本裕二といいます。宜しくお願いします」


「僕の事は龍って呼んでくれ」


龍さんは、綺麗に整えた白髪交じりの髪を後ろに撫でつける。


今日もやはりアイロンのかかったズボンにジャケットを羽織って、変わらずきちんとした格好だ。


「龍さん、ですか」


「その方が仲良くなれる気がしないか?僕も裕二君と呼びたいが、駄目かな」


「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」


僕には正直、ここに来るまで小鳥遊以外に友達と呼べる人はいなかった。


なのにこの店に来てから、愛さんと出会い、龍さんに出会えた。


巳影さんも愛想は良いとは言えないが、実は優しい。


ここに来て良かった。


最高の止まり木になりそうだな。


海に迫る太陽が、最後の力を振り絞るように西日をめいっぱい放つ。


夕暮れ時の茜色の風景に、白壁の灯台もまたオレンジ色に染まる。


思わず目を細めてしまう眩しくも穏やかで優しい世界に、ゆるやかな息をひとつ吐いた。



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