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5

金曜の夜から降り続いていた雨が上がり、日曜の朝は嘘のようにからりと晴れ渡っていた。


午後二時に小鳥遊と約束をしたが、喫茶店の空気を味わいたくて我慢できず少し早めに家を出た。


清々しい程の爽やかな水色の空の下を歩く僕の心は、まるでクリスマスの朝にプレゼントをもらった子供のように浮かれている。


良い歳した大人なので抑えてはいるが、スキップでもしてしまいたい気分だ。


軽い足取りで黒猫と月のドアの前までやって来た。


厚いドアのせいか、店内の音は聞こえない。


ノブに手を掛ける。


カランコロン 


ベルの音と共に、キッチンに立つ愛さんが「いらっしゃいませ」と振り返る。


さっきまであんなに浮かれていたくせに、平静を装って「こんにちは」と俯き加減で挨拶をしてしまう自はなんて情けないのだろう。


常連になるつもりなのだから、もっとフランクに話したかったのに。

こんな大事なタイミングで人見知りが爆発するなんて。


出だしから失敗し、心の中で嘆息しながら以前と同じ窓に面した横長のテーブルの椅子に腰を下ろした。


他に客はいない。嬉しいのに、話題を用意してこなかった自分を責めた。


愛さんがメニューブックと水の入ったグラスを僕の前に置く。


開けられた窓から、雨上がりの瑞々しい空気が流れ込む。


コバルトブルーの海が、太陽の光を白く反射していた。


「と、とりあえずアイス珈琲をお願いします。後でもう一人来るので」


「あら、それは楽しみですね。アイス珈琲、すぐにお持ちします」


キッチンに入っていく愛さんの薄紫のロングスカートがふわりと揺れる。


珈琲を準備する音。食器を出す音。普段ならそこまで気にしない音のひとつひとつが、BGMのように心地いい。


やがて微かに聞こえてくるコポコポと湯を注ぎ、じわりと豆が膨らむ音に、無意識に入っていた体の力が抜ける。


無理して話す必要ないじゃないか。


こうして愛さんが珈琲を淹れてくれる音を楽しむだけで、彼女と会話している気持ちになる。


春の甘やかな風。丘の向こうに見晴るかす海原と、淡い水平線。


雨上がりの優しい空色と、柔らかなレモンイエローの陽光。


ノスタルジーな雰囲気漂う古書の匂い。


さらりとした手触りのテーブル。


初めて喫茶店を訪れた時、全てに惚れ込んだ。


ひとつひとつが愛おしく、この空間が好きでここに通っている。


そこに無理矢理に並べた言葉は必要無いのだろう。


「お待たせしました。アイス珈琲です。良かったらこちらもどうぞ。サービスですので、お気になさらず」


氷の浮かんだグラスたっぷりの珈琲と共に、手のひらサイズのお洒落な皿にのせて出されたのはクッキーだ。


葉巻のようにラングドシャの生地をくるんと細長く巻いたものは、シガレットクッキーというらしい。


サービスと聞いて僕が驚いた表情をしたからか、愛さんが上品に笑った。


「趣味で作っただけなんです。まだ不慣れで上手に巻けてないものもありますが、楽しくてつい沢山作ってしまったので、お裾分けです」


不慣れと言っても、売り物として並んでいても気付かないだろう。


食べてみると、クッキー生地がほろりと舌の上で崩れ、同時に優しい甘さが広がる。


食べたあとにアイス珈琲を飲むと、珈琲が一層味わい深く感じた。


「美味しいです、凄く」


僕の言葉に、愛さんも嬉しそうに「良かった」と微笑んだ。


あと五本ある。せっかくだから小鳥遊にも食べさせてやろう。


僕はたまたま目に留まった、アーネスト・ヘミングウェイという作家の本を手に取った。


老人と海。


全く本を読まなかった僕が、前回はエドガー・アラン・ポー、今日はアーネスト・ヘミングウェイ。


急に賢くなった気がするぞ。と少し誇らしげに背筋を伸ばして表紙を撫でる。


同時に、小学生かよと自らに突っ込んだ。


カランコロン 


「いらっしゃいませ」


老人と海の世界に手に没頭しているとドアベルの音が響き、意識は現実に引き戻された。


小鳥遊か。


振り返らないうちに勝手に思い込んだ僕は、本を目の前の棚に仕舞い、どこまで読んだかを忘れないよう、備え付けのしおりメモというメモ用紙とペンを手に取った。


この店オリジナルのメモ用紙らしく、隅の余白に【隠れ家喫茶 黒猫と月】と書かれており、隣には尾の先をくるんとさせて座る黒猫と三日月が描かれている。


日付とタイトル、ページを書いて、失くさないように財布のポケットに仕舞った。


おかしい。小鳥遊ならもっとハイテンションで「やっほー、ひっさしぶりー」と背中を叩いてきそうなのに、あまりにも静かだ。


それどころか背後を人が通った気配も、物音もしない。

入り口を振り返ってみると、誰もいなかった。


視線を戻すとカウンター席に若い男性客がひとり、愛さんが飲み物を用意するのを眺めているではないか。


全体をグリーンで纏めた、どこか民族的な雰囲気を思わせる風貌の青年だ。

目にかかる長い前髪が、エキゾチックかつミステリアスな雰囲気を増幅させていた。


僕より下で、愛さんと同じ歳くらいだろうか。

ほりが深くて端正な顔立ちをしている。


同性の僕から見ても、男前だと思った。

どう見ても、外見に関してはあっさり敗北だ。


「なんだよ、待ち人じゃなくて悪かったな」


ぶっきらぼうに男性に睨まれた。

鋭い目つきに、思わずたじろぐ。


「い、いえ、そう言うつもりじゃ。すみません」


「もう、巳影みかげさん。お客様にそんな事言わないで。滝本さん、びっくりしちゃうじゃない」


愛さんがなだめるように、巳影という男性の前にほのかに湯気の立つマグカップを置いた。


「はい、ホットミルク。お砂糖多めね」


愛さんが、いつもの通りの温かみのある声で言う。


「わざわざ言うなよ」


今度は愛さんを睨みつけた。


「あら、私のお店の大切な人を怖がらせたお返しよ。ねぇ」


愛さんは、悪戯っぽく僕に笑いかける。


甘めのホットミルクが恥ずかしいのだろうか。


それとも、湯気にあてられたのか。


巳影さんの頬が赤らむ。


大切な人。


もちろんその前に「私のお店の」という言葉が入っているのだが、まだ二回しか店に来ていない僕の事をそう言ってくれた事が嬉しくて、巳影さん以上に頬を赤らめて苦笑いを返した。


それから程なくして、この静かな店には騒がしすぎる小鳥遊が現れた。


約束の時間五分前だ。


マイペースな奴の割に、結構時間厳守なタイプだ。


「やっほー、タッキーひっさしぶりぃー!」


予想したままのセリフで、これまた思った通り僕が振り向くより先に背中をバシバシと叩く。


「タッキーは止めてくれよ。高校の頃から言ってるだろ」


「えー、良いじゃん。イケメン芸能人さんと同じあだ名なんて、光栄な事だよ?」


ふざけ口調で、小鳥遊は僕の隣の席に座った。


「だからだよ。僕はあんなに格好良くない。虚しくなるから言わせるなよ」


「もー、相変わらず細かいなぁ滝本君は。あ。ありがとうございますー」


水とメニューを持って来てくれた愛さんに、小鳥遊は満面の笑みを振り撒く。

後ろのカウンター席から、ちらりとこちらの様子を見ていた巳影さんにも「こんにちは」と、まるで知り合いかと思うくらい物おじせず挨拶をした。


こういうのは小鳥遊の良い所だ。

彼女は昔から、どんな立場の人にも変わらない態度を示す。


クラスで浮いている生徒にも、虐められている生徒にもだ。

むしろ虐められている子を、率先して守っている姿を何度も見た事がある。


そのせいで自分が責められる立場になっても、彼女はいつも何食わぬ顔して言うのだ。

『明らかに間違ったことをしている人たちに嫌われたって、私は何とも思わないね』と。


僕がこうして小鳥遊と付き合いを続けているのも、そういう人間性も含めての事だった。


「お待たせしました。アイスのハニーロイヤルミルクティーと、ニューヨークチーズケーキです」


小鳥遊の前に、ミルクティーとチーズケーキが並べられる。

僕はアイス珈琲のおかわりとガトーショコラだ。


「わぁ、美味しそう!ラングドシャもすんごい美味しかったです!手作りって聞いたんですけど、凄いですねぇ」


小鳥遊が空っぽになった皿を指す。


五本残しておいた愛さん手作りのラングドシャは、小鳥遊が一瞬で食べきってしまった。


遠慮の塊のように一本だけ残してくれていたが、食べていいよと言うと待ってましたと躊躇いなく彼女の口へと吸い込まれたのだ。


「幸せ過ぎるぅ」


チーズケーキを食べた小鳥遊が、溶けたような笑顔を浮かべる。


「よくこんな素敵な店見つけたよね。私も通っちゃおうかなぁ。剣道部の頃の冴えない滝本君からは、想像もつかないセンスだわ」


ふふんと小馬鹿にしたような言い草に、思わずムッとする。


僕と小鳥遊は高校時代の剣道部員同士でもある。

自分で言うのも悲しいが勉強はどうあがいても劣っていた。

だが、剣道に関しては僕の方が勝っていた自信がある。


それでも彼女の言う通り、部員の中でも地味で大人しくて、絵に描いたような優等生(勉強はできないが)だったので、冴えなかったと言われると反論出来ない。


僕の不満げな顔なんてそっちのけで、小鳥遊はチーズケーキを小さく切って口に運ぶ。

そしてミルクティーを飲んでは、また顔をとろけさせるのを繰り返していた。


彼女曰く、本当はもっと大口で食べられるが少しずつ食べたほうが沢山食べた気になるらしい。


貧乏くさいと思いつつも、その姿が小動物がちまちまと食べる姿に見えて面白かった。


「本なんて暫く読んでないなぁ。滝本君はもうここで何か読んだの?」


僕は「来た来た」とばかりに、少しばかり背筋を伸ばす。


「エドガー・アラン・ポーと、アーネスト・ヘミングウェイ」


「うそ。国語はほぼ赤点の君が?感想は?」


「えっ?」


興味津々という表情で、真正面から見つめて来る。


カウンター席からは、巳影さんと愛さんまで僕の方を見ていた。


「は、ハラハラして……ドキドキして……怖くて……感動した」


「小学生じゃん」


小鳥遊が信じられないと言った表情で体をのけぞらせ、巳影さんは僅かに首を横に振ってホットミルクのカップに口をつける。


愛さんに至っては、クスクスと肩を揺らして笑っていた。



「そう言えば急に会おうなんて、何かあったのか?仕事の悩み?」


食事を終え、小鳥遊はおかわりに注文したアイスティーのストローを咥えたまま、首を振って否定した。


「心配しなくともホテルの方は順調ですよ?何なら私、4月からチーフになりましたから」


ようやくこの店の雰囲気に気付いたのか、声を抑え気味に喋る。


「へぇ、凄いな。おめでとう」


小鳥遊は学校卒業後、ずっと憧れていたリゾートホテルの客室係をしている。

就職が決まってからも、きらびやかなホテルで働けて楽しいと事あるごとに言っていた。


「そっちは?介護の仕事って大変でしょ。精神的、体力的、金銭的。どれもめっちゃ厳しいって聞くもんね。滝本君こそ凄いよ。私には絶対できないや」


「別に僕は小鳥遊みたいに憧れの仕事だったわけじゃないから、もう毎日がギリギリだったよ。物覚えは悪いし、要領も悪い。おまけに口下手だったから、楽しいなんてこれっぽちも思えない日もザラにあったよ。ただ、優しくしてくれる人がいたから、なんだかんだでここまで続けられただけさ」


介護士を始める26歳までサラリーマンをしていた僕は、学生時代だけでなく会社に入ってもまた落ちこぼれだった。


薬品の卸会社に就職したものの、思うように成績は伸ばせない。


先輩のやり方を真似てみたり、話術のセミナーも受けてみた。

だが何をやっても結果に繋がらないまま、次第に社員からも孤立し始めたのだ。


日毎に会社に行くのが嫌になった。

朝どころか、帰宅してすぐから翌日の事を考えては憂鬱な気分になっていた。


何をやっても上手くいかない僕とは対照的に、小鳥遊は自分のやりたかった仕事でどんどんスキルを磨いていく。

あまりにも僕の現実と違い過ぎる彼女には、到底そんな相談は出来ないでいた。


「人間なんてそんな器用な生き物でもねぇくせに、贅沢だよな」


それまで黙っていた巳影さんがカップを静かに置く。

彼は愛さんが絵を描いている姿を見つめたまま、言葉を続けた。


「不器用で、覚えるのも苦手。挙句喋るのも駄目ってのに、そんな簡単にあれこれ出来るようになるわけねーよ。でもそういう駄目だった経験があるから、ひとつひとつクリアして今の仕事を続けられてるんだろ。誰のお陰とかじゃねぇよ。そんな単純なら、そのサラリーマンって仕事も辞めなかっただろ」


確かにサラリーマン時代は必至で先輩の真似をしていたものの、先輩も僕に色々と教えてくれた。

だけど、僕には実践出来なかった。

何ひとつ習得できない落ちこぼれだった。


「単にお前に向いてなかっただけじゃねぇの。どうしてもできねぇ事くらいあるだろ。魚が陸を歩けねぇのと一緒だ。向いてるなら、何度失敗しても意地でも乗り越えようとする気持ちが生まれるはずだぞ。今の仕事を続けられてるのは、お前が自分の問題をクリアするために頑張ろうって努力した証拠だろ。それでも自分を褒めてやらねぇなんて、どんだけ贅沢なんだよ。なんでもかんでも手に入れられるのが当たり前とでも思ってんのか」


ふん、と鼻を鳴らして、残っていたミルクを一気に飲み干す。


相変わらず不愛想だが、愛さんが意味深に微笑むと彼のクールな表情は一気に崩れる。


「へぇ、優しいんですね」


小鳥遊の言葉が追い打ちとなったのか、巳影さんは勢いよく立ち上がった。


「うるせぇ。受け売りだっつーの。あぁっ、もう。帰る!」


愛さんはそんな彼に「また来てね」と胸の前で手を振る。


「ありがとうございます。そんな風に言って貰ったの初めてで嬉しかったです」


「知るかってーの。俺はお前らなんて嫌いなんだ。くそ、余計な事言うんじゃなかった」


舌打ちをした巳影さんは、愛さんに「じゃあな」とだけ言って店を出て行った。








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