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「おや」
龍さんがしゃがみこみ、愛さんの黒いふさふさの背中を撫でる。
愛さんは顔を前足の上に乗せたまま、耳を倒して目を細める。
「君が裕二君が言っていた、この辺りにいる黒猫かな」
答えることなく、気持ちよさそうな表情を浮かべる。
「僕はもうあまり目が見えないけれど、手触りはあの子に似てるね。毛の柔らかさもよく似ている。あの子の子供なのかい?」
まだ満開には程遠い、三分咲き程のミモザがほのかな黄色を添えている。
次第に空が暗くなる。二度点滅して点いた街頭に、蕾を沢山携えたミモザが優しく照らされた。
サーモンピンクが混ざった薄紫の空にカラスが二羽、山に向かって飛んでいく。
言葉の無い静かな時間がふたりの間に流れる。
そこには、心地良い、優しい空気があるように見えた。
背中をそっと撫でる龍さんと、幸せそうに目を細める愛さん。
海の向こうに太陽が沈み、空が藍色に染まる頃、ようやく龍さんが立ち上がった。
「あの黒猫じゃないんだろうけど、君に会えて良かったよ。きっと裕二君たちは君と僕を会わせたかったんだろう」
ミモザを見上げ、龍さんが木肌に手を添える。
愛さんは、そんな彼をじっと見上げていた。
「君に言っても仕方ないけど、あの子を迎えに行くという約束、果たせなくてごめん。あの後、僕は作家としてデビューできたんだけど、最初の仕事に必死でね。今良い物を作らないと後に続かないと思って必死だったんだよ。次々舞い込む仕事に夢中になってたら、ある日目が見えなくなって。自暴自棄になって……。あの子はあれからどうしたんだろう。中途半端に世話をして、迎えに来るなんて言って、かえって悪い事をしたと思うよ。君があの子の子供なら、あの黒猫は天寿を全うできたんだろうか」
龍さんは「わからないよね。ごめん」と愛さんに、悲し気な瞳で微笑んだ。
みゃおう
愛さんがひとつ鳴く。
龍さんをまっすぐ見上げ、彼の願いを肯定するように、甘い声で鳴いていた。
愛さんの頭を撫で、名残惜しそうにその場を離れた龍さんがこちら歩いて来たので、僕たちは咄嗟に奥の草陰に飛び込むようにして隠れた。
ミモザの樹の下では、愛さんが後を追いたいのを堪えているような眼差しで見つめていた。
龍さんは一度振り返って、胸の前で小さく手を振る。
にゃあ。
にゃあ。
愛さんが答えるように大きな声で鳴いた。
それから愛さんも立ち上がり、海の方に歩いて行く。
お互いに背を向けたふたりの上には、にっこりと微笑んだような三日月が見守るように浮かんでいた。
「愛さん――」
「おい」
海へ続く坂を下りていく愛さんに駆け寄ろうとすると、巳影さんに腕を掴まれた。
「もう余計な事言うんじゃねぇよ。これ以上わけわかんねぇ無責任な言葉はやめろ。人間とは流れる時間が違うんだよ。人間の長い時間の感覚で、適当な言葉をかけるな」
「そんな事言いませんよ。でも、明日ここが無くなるなら愛さんと話しておきたいって。これが最後かもしれないじゃないですか」
僕を掴んでいた手を離した巳影さんは、髪をぐしゃぐしゃと引っかきながら「あー、もう」と苛立ちを露にする。
「もう行ったって話せねぇよ。あいつはもう人間には戻らないんだ」
「ちょ、なにそれ。どういう事よ」
小鳥遊が巳影さんに詰め寄る。樋口さんがなだめようとするが「うるさい」と一蹴されて、叱られた子犬のように引き下がった。
「愛が戻らないって言ったんだよ。それに俺ももうそんなに力が残ってないんだ。元々20年前に尽きる命だったんだ。多分、そう長くは体ももたないだろうよ。あっ、おい!」
僕は走り出していた。
姿が見えなくなった愛さんが歩いて行った方へと向かって。
足がもつれそうになりながら走る。
光が点いたばかりの灯台へと歩く黒い小さな体が見えて、僕は砂に足を取られそうになりながら愛さんを追いかけた。
愛さんは灯台の足元に座り込み、宵闇に沈んだ水平線を見つめていた。
「こんばんは」
隣に座り、一緒に海を眺めた。
ざあ、ざあ、と黒い波が寄せて返す音に、愛さんが時々ぴくぴくと耳をそばだたせる。
僕たちは黙って海を眺めていた。
愛さんはどんな気持ちで龍さんの話を聞いていたんだろうか。
命の時間を延ばしてもらった彼女が、黒猫と月で過ごすなかで、どんな気持ちで彼と過ごし、その姿を絵に描いていたのだろうか。
考えても、考えても、やっぱりわからない。
だけど、龍さんを見る目。龍さんを描いた筆のタッチは、どれも優しくて。
自分の想いを秘めて過ごしたあの場所での時間は、きっと愛さんにとっても幸せな時間だったんじゃないかと思う。
それは、もちろん僕にとっても同じで。
愛さんの心に僕はいなかっただろうけれど、あの店で過ごした一年は、ずっと忘れられないだろう。
珈琲を淹れる音。
ケーキの甘い香り。
海風がカーテンを揺らし、誰かがやって来る度にドアベルが躍るように鳴る。
ちらりと横目で見た猫の姿の愛さんは、ここに居るのにどこか遠くを見つめているような。
水平線よりも、ずっとずっと先の、この世界ではないどこかを見ているようだった。
これから何処へ行くつもりなのだろう。
猫の姿で。もう、あといくらかも残っていない命の時間で。
それからどれくらい時間が経ったかわからない、空に無数の星が瞬き始めた頃。愛さんが立ちあがり、くるりと踵を返す。
「待ってください」
ぴたりと立ち止まり、じっと背中を向ける。
「僕のマンションに来ませんか。うちはペットが飼えるんです。良かったら、ですけど」
愛さんのつぶらな瞳が僕を見上げる。
「今でも愛さんの珈琲が飲みたいくらい寂しいです。美味しいお菓子やケーキが食べたいです。取り壊されるなんて悲しいです。でも、あの黒猫と月で過ごした時間は僕にとってとても大切な想い出です。巳影さんには無責任な言葉をかけるなって叱られましたけど……僕はまだ愛さんとの時間を過ごしたいです。お礼がしたいです。猫として人間と過ごせなかった分、少しだけでも愛さんにも良い想い出をもってほしいです。だから――」
すると、愛さんが僕の足元にすり寄ってきた。
にゃあ
『ありがとう』と言っているような優しい声で、僕のふくらはぎに身体を擦りつける。
僕もそんな彼女の黒い艶のある頭をそっと撫でた。
「あ、先客がいるんです。金魚なんですけど……食べないでくださいね」
冗談交じりに笑うと、愛さんは喉をごろごろと鳴らし、目を三日月にして微笑んでいた。




