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「龍さんに本当のこと話さなくて良いんですか?愛さんが、あの時の黒猫だってこと」
2月も終わりの昼下がり。
僕は夜勤明けだったが、明後日から取り壊し作業が始まってしまう。
明日は片づけをしなければならないから、つまり今日が最後の営業日になるのだ。
もちろん体は疲れているが、もうここに来られないと思うと、眠気なんてのはどこかに吹き飛んでしまった。
「えぇ。きっと驚かれるでしょうし、龍さんのなかでの私は、あの頃のままで時間を止めていたいんです。ひとりぼっちだった私に手を差し伸べて、沢山色んなお話をしてくれた彼との想い出は、そっとしておきたいんですよ」
愛さんが、洗ったお皿を一枚ずつ丁寧に拭いて棚に仕舞っていく。
今日は、少し暖かい。
ジャケット一枚で出歩けるくらいの陽気で、色味のなかった景色が鮮やかに色付いている。
野草や野の花、芽吹きはじめた小さな命と、太陽の光にきらめく海。そびえる白亜の灯台。
あちこちに春の足音を感じて、世界は少しづつ小さな声で賑やかになっているように感じる。
アイス珈琲のグラスが水滴を纏う。
机に出来た小さな陽だまりの上の、もうすぐ読み終わる種田山頭火の句集を開いた。
猫と三日月に型を抜いたアイシングクッキーをお供に再び文字の世界に身を委ねる。
自分の心に落ちる句を見付けては、海を眺めて珈琲を飲み、また次の句を読む。
今月に入ってから手を伸ばした種田山頭火の本にはまり、最近はずっと手当たり次第に読みふけっていた。
カウンター席では、巳影さんがずっと黙ったままミルクを飲み、愛さんが絵を描くのを眺めている。
ここが取り壊されることに酷く怒っていた彼も、あれっきり特に何も言わなくなった。
僕や他の客と話をすることも、以前は少し距離感が縮まったかのような挨拶をしてくれていたのも無くなった。
コトン、と巳影さんがミルクの入ったカップをテーブルに置く。
愛さんの「できた」と呟く声が聞こえて、僕の所にスケッチブックを持って来てくれた。
そこに描かれていたのは今の店内。
カップに口をつける巳影さんと、句集を読んでいる僕は、斜め後ろから描かれていた。
少しだけ表情も伺える。
本を読んでいる時の自分がどんな顔をしているかなんて知る機会も無いので、少し恥ずかしいがとても嬉しい。
「スケッチブックも丁度終わりですか――いや、あと一ページだけ空いてるんですね」
「えぇ、ここは今夜にでもゆっくりと。とっておきの一枚を描くつもりです」
キッチンに戻った愛さんが、手回しミルで珈琲豆を挽く。
こぽこぽと柔らかな音がして、珈琲が抽出される香りが僕の鼻をくすぐる。
ゆるやかに過ぎる時間のなか、僕は喫茶黒猫と月で最後の一日を過ごした。
◇ ◇ ◇
3月1日。約束の六時を五分過ぎて電車を降り立った。
空は優しい色に染まり、浮かぶ雲は金色に縁どられる。
白い三日月が空に昇る、風の穏やかな時間。
早出の仕事を終えた僕は、大急ぎで喫茶黒猫と月のある丘へと向かった。
田んぼ道を抜け、林道に差し掛かる。
僕の足は次第に駆け足になり、道の奥から駆け抜けてきた海の匂いに、肩からずり落ちそうになったリュックの紐を握り締める。
マンションが見えた。ミモザの樹の下には龍さんが立っていた。
その時、垣根の影から服を引っ張られ、草陰に引きずり込まれる。
「何やってんのよ」
小鳥遊が僕の肩をひっぱたく。
「ご、ごめん。別に声掛けるつもりはなかったよ」
「龍さんは気配でもわかっちゃうんだから。ばれたら私たちがずっと隠れてる意味ないでしょ」
小鳥遊の後ろには樋口さんが「どうも」と、頬を掻きながら苦笑していた。
「愛、来ねぇな」
林の方から歩いてきた巳影さんが、僕の隣にしゃがみこんだ。
「もう一時間前には猫の姿になってんだけどな」
「そういえば、愛さんが猫の姿に戻ったりしてるのってどうやってるんでしょう」
すると小鳥遊が「あほなの?」とでも言いたげな顔で僕を見つめる。
「巳影さんがやってるんでしょ?」
「そうだ」
「えっ。あ、あぁ、そうか。そういえば、巳影さんが愛さんを人間の姿にしてくれたって言ってたけど。……巳影さんって何者なんですか」
「とりあえず人間じゃないってことよね」
龍さんがいるミモザの樹を見つめていた巳影さんが、憐れむような視線を僕に向けた。
「裕二、まだ気づいてねぇの。お前けっこう……まぁいいや」
巳影さんが目を閉じる。
胸のあたりから小さな光が溢れてきて、白い光が巳影さんを包み込む。
「のおおおっ」
小鳥遊がひっくり返った声で叫んで、慌てて樋口さんがその口を抑えた。
樋口さんも小鳥遊も咄嗟に後ろに飛びのいたので、垣根に頭が当たり、髪に葉っぱが絡まっている。
「こ、これって巳影さんだったんですか」
白い蛇が鎌首をもたげて、ちろちろと舌を出している。
よく見ると瞳が青い。改めて見るととんでもなく神々しい雰囲気をもっていた。
「も、もういいです。もういいです」
しなやかに体をくねらせてこちらに寄って来ようとするので、僕は慌てて両手を振って後ずさりした。
再び白い光に包まれた巳影さんが、いつもの人間の姿に戻る。
いたずらっぽく、にひひと口角を上げて見せた彼は「相変わらずびびりだなぁ」と笑う。
「巳影さんって、あの祠の神様なんですか?」
「おう。草むしり、ありがとな。あの上の神社が使われなくなってから初めてだよ。あんなことやってくれた人間。しかもひとりで何時間もさ。良い奴だなあと思った――あ、来た」
その時、巳影さんが龍さんの方を顎で指した。
愛さんだ。黒い猫が、海のある方向からゆっくり、ゆっくりと歩いてくる。
ぴたりと足を止め、白杖を地面について俯く龍さんを見つめる。
また一歩、一歩と確かめるように龍さんに近付き、彼のつま先に僅かに体が当たる形で、うずくまった。




