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「で?結局いつやるのよ。ここの取り壊し」
「聞いた話では3月2日」
樋口さんが言いにくそうに、もごもごと答える。
小鳥遊は「ふぅん」とだけ言うと、暫く考え込むようにシナモンミルクティーの水面を見つめていた。
「私も愛さんの話聞いたよ。龍さんとの事も。正直ちょっと信じられなかったけどさ。でもそういう話、信じたいなって思った。現実味は無いけど、私もお母さんが亡くなったからさ。幽霊とか、魂とか、そういう普通は誰も信じないような話、信じたいって思ったの。本当にあったら良いなって」
小鳥遊は「樋口君はあんまり信じてなさそうだったけどねぇ」と、冷ややかに付け加える。
「ここのミモザ、その日に満開になんないかなぁ」
「どうでしょうね。昨年は3月の終わりごろでしたし……」
キッチンの椅子に座った愛さんが、パラパラとスケッチブックを見返す。
きっと昨年に描いたものがあるのだろう。
ページに手を添えて、まるで遠い過去を懐かしむように寂し気な視線を落としている。
「3月1日に龍さんとミモザの下で会えるようにしようよ。私、このまま龍さんが来るまでいるからさ。その日に来てもらえるようにお願いしよう。樋口君もだよ」
小鳥遊が樋口さんの肩に腕を回して、念を押すように「わかった?」と顔を近づける。
「わ、わかってるよ」
必死で顔を反らす樋口さんは、耳まで真っ赤だ。
愛さんはひとり、スケッチブックをゆっくり捲っては、ひとつひとつにそっと手を触れていた。
それから僕たちは、龍さんが来るかどうかもわからないまま待ち続けた。
本を読み、珈琲や紅茶を飲みながら。
愛さんが色鉛筆を紙の上に滑らせる音を聞いていた。
空埋め尽くしていた雲にぽっかりと青が覗いて、冬の海に白い陽光を射し始めた午後4時過ぎ。
カランコロン
ドアベルが鳴り、僕たちはミーアキャットみたいに一斉に入り口へ顔を向けた。
「おや、皆さんお揃いですか。この時間まで賑やかなのは珍しいですね」
窓辺の一番奥の席に座った龍さんに、すかさず小鳥遊が声を掛けた。
「あの、3月1日ってご予定あります?」
「いえ。と言ってもまだ先の予定ですからわかりませんけれど。何か?」
「その日、このくらいの時間でも良いので来ていただけませんか」
小鳥遊の気迫に、龍さんが少したじろぐ。
「6時。6時頃はいかがでしょう」
それまで黙っていた愛さんが口を開く。
スケッチブックを胸に抱きしめ、まっすぐに龍さんを見つめている。
だがそれに気づかない龍さんは「構いませんよ。予定に入れておきます」と、いつものように穏やかな口調で答えた。
すっかり真っ暗になった夜道を歩く。
冬の澄んだ夜空を埋める朧雲の向こうに透ける月。
林の中に凜と佇む祠に手を合わせてから、再び自宅に向かって歩き始めた。
特に何かを話しかけるわけでも、願うわけでもない。
ただ、何となく幽霊やそういった者が存在するのなら、やはり神様はいて、僕たちが気付いていないだけでずっと見守っているんじゃないかと思った。
何か助けてくれるわけでもないし、訪れる運命はきっと変えてはくれない。
だけど、僕が愛さんに出会えたこと。
もちろん、巳影さんや樋口さん、龍さん。
もう長い付き合いになる小鳥遊もそうだ。
人と人との出逢いを。
僕の知らない所で、神様は縁を結んでくれているんじゃないかと思ったのだ。
きっとそうして僕たちを見守ってくれているんじゃないかという気がして、自然と祠に手を合わせた。
巳影さんの言う通り、人間は勝手だ。
猫だった時の愛さんのような、生まれた命を自分たちの都合で捨てる。
苦しい時には崇めて縋った神様を、必要が無くなれば雑草のなかに忘れ去ってしまう。
野焼きの残り香が夜風に漂う。
田んぼの向こうを赤い電車が横切るように走り抜ける。
昨年、僕が海辺で告白した時の、愛さんの驚きと寂しさが入り混じる表情が浮かぶ。
きっと目の前の僕に、彼女自身を見たのだろう。
叶わない相手に想いを寄せる僕をじっと見つめて、やがて、静かにひとことだけ口にした。
『ありがとうございます』
そんな愛さんの目には、僅かに涙を浮かべているように見えた。




