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「おっ、来たなー、イケメン君」
窓辺の席に座る小鳥遊が、握り締めたフォークを頭上に掲げた。
「いらっしゃいませ」
「ホット珈琲お願いします」
愛さんは「かしこまりました」とにっこりと会釈し、キッチンに入る。
まだお昼前だが、小鳥遊はもう既に昼食は済ませ、これから食後のデザートとしてシフォンケーキを食べようとしていたらしい。
「朝ごはん食べてなくて待ちきれなかったのよ。朝昼兼用で、クロックムッシュ頼んじゃった。美味しいよ、イケメン君も頼めば?」
そう言って、大きなシフォンケーキにたっぷりと生クリームを乗せて口に運ぶ。
「僕はあとで頼むよ。それよりなんだよそのあだ名。タッキーになったりイケメンになったり、普通に滝本じゃ駄目なのか」
「良いじゃん。君は心がイケメン君なんだから。優しさは財産だよ」
ふふん、と得意気に鼻を鳴らす小鳥遊は、僕の珈琲が来る前にシフォンケーキを平らげた。
凄い食欲だなと思ったが、なんとなく以前より痩せている気がする。
「小鳥遊」
「ん?」
「樋口さんと何かあった?」
特に明確な根拠があるわけじゃないが、何となく以前から樋口さんの名前が出る度に神妙な顔になる小鳥遊と、樋口さんの彼女を見る視線に気になっていたのだ。
「案外デリカシー無いのね、イケメン君」
ふざけた口調ではあるが、明らかにむっとした顔の小鳥遊が僕を睨みつける。
「あったよ。樋口君となにか。でも付き合ったりなんてできないの。私にも好きな人がいるんだもん」
ミルクティーをひと口飲み「あーあ」と自嘲めいた笑みを漏らした。
「でもどうせ叶わないんだけどさぁ。可哀そうだわぁ私。ね?」
「え……」
「もー!そこは可哀そうだねぇって笑ってよ。笑ってよねぇ、ほんと。樋口君偉いよ。ちゃんと想いを伝えてさ。私はずっと――」
そこまで言って小鳥遊はハッとしたように口を噤み、また僕を睨む。
「デリケートなお年頃の女性に色々喋らせるなんて悪い奴だぞ。それよりほら、その珈琲飲んだら話でもしてきなよ。ね、愛さん良いでしょ?私、留守番してるからさ。ちょっとだけ」
「おい、なに勝手に言ってるんだよ」
「駄目よ、ほんと。想ってることは早めに伝えなきゃ。いつまでもその人が当たり前に隣にいるなんて、胡坐かいてちゃ駄目なんだから」
「愛さん、すみません。営業時間中なのにこんなことになっちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ。私もそろそろ、滝本さんにお話ししておかなきゃいけないと思っていましたから」
浜辺を歩いていた愛さんが足を止める。
顔にかかった髪をそっと避けながら、僕を見上げた。
「もしかして、お店を閉める話ですか。巳影さんが、愛さんに会えるのもそれっきりになるって言ってましたが……。それ以上のことは本人から聞いてくれと、彼からは教えてくれませんでした」
愛さんがふっと頬を緩める。
「巳影さん、ああ見えて結構真面目ですからね」
海上を吹き抜けてきた風に、愛さんが首をすくめる。
ふわりと風になびいた愛さんの髪からは、砂糖みたいな甘い匂いがした。
「巳影さんの言う通り、私はもう来年の今はここに居ないと思います。来年のミモザが咲くまでもつかどうか」
「どういうことですか」
愛さんは眉をひそめ、遠くの海を見つめる。
「信じて頂けないかもしれませんが……。滝本さんの職場でチヨさんと見た黒猫を覚えていますか?あの猫と、マンションの前で滝本さんが見かけた黒猫は同じです。あの黒猫は私なんです」
時が止まったみたいだった。
「それはどういう……」
あの黒猫が愛さん。
愛さんは人間だ。今こうして、僕と同じ人の姿をしているじゃないか。
訳の分からない真実に、頭が混乱してどうリアクションを取れば良いのかわからず、立ち尽くすしかできなかった。
それから愛さんは、明らかに戸惑ってしまった僕にゆっくりと説明してくれた。
愛さんが20年ほど前に、あの丘で龍さんに出会った事。
春の麗らかな風に揺れる満開のミモザの樹の下で出会い、まだデビュー前の龍さんが、野良猫の愛さんの世話をしてくれたのだという。
「今住んでいる所は動物が飼えないから。もうすぐ出る新人賞の結果で必ず作家になってみせるから、もう少し待っててと言いました。龍さんと出会ったミモザの樹の下でずっと待っていた。でも彼は来なかった。一年過ぎても、二年過ぎても」
冬の冷たい表情の海の音に、愛さんの寂し気な声が消えていく。
パステル色の空を見上げてひとつ息を吐き、再びぽつりと過去を懐かしむように話し始めた。
「元々病気を患っていた私は、そのまま衰弱していきました。生まれてすぐ飼い主に捨てられ、毎日必死にひとりで生きて来た私に、初めて優しい目を向けてくれた人間は龍さんでした。最期の時までまた会いに来ると言っていた彼との約束が忘れられなかった。唯一の幸せを感じた場所で苦しんで死にたくなかった私は、ミモザの樹を離れて、ふらふらと歩いていました。体中が痛くて痛くてたまらなくて、あの林道で力尽きたんです。もう目も見えなくなった真っ白な意識だけの世界で出会ったのが巳影さんでした」
頷くでもなく、ただ茫然と愛さんの話を聞いていた。
嘘を吐いているとは思えない。だけどどこか現実味の無いその話も、次第に僕の心は受け入れ始めていた。
「巳影さんが私を人間の姿にしてくれたんです。自分も力が弱まっているからいつまでもつかわからないけれど、少しの間、自分の人生を生きろと。残飯を漁り、泥水を飲み、最後に地面を這いつくばる私を気の毒に思ったのでしょう。私が猫の姿に戻れるのは、巳影さんの力を借りた時だけです。時々猫になって、チヨさんの住む施設を見に行っていたんですよ。私がお店をするきっかけをくれた大切な人ですから。滝本さんとミモザの下で会った時は、人間の姿に戻してもらうために巳影さんを待っていた時だったんです。でも、なんだか龍さんと出会った時を思い出して嬉しくなっちゃいました」
懐かしむように、ふふっと笑った愛さんは、話を切るように小さく手を叩いた。
「でも今年いっぱいはもつだろうって巳影さんも仰っていましたから。残った時間、沢山美味しいお菓子や珈琲を淹れますよ」
そう言ってくるりと背を向けて、店に向かって歩き出した。
「愛さん!」
もう会えない。
まただ。チヨさんを亡くした時も、僕はちゃんと伝えられなかった。
支えてくれたお礼も何も伝えられないまま、会えなくなったのだ。
ここで彼女を見送ったら、もう本当に伝えられないまま終わってしまう気がして、それ以上の事を考える間もなく咄嗟に呼び止めた。
「どうしました?」
愛さんのスケッチブックには、龍さんの絵でいっぱいだ。
だけど、彼の絵は後ろ姿が多い。
今ならわかる。
きっとそれは、愛さんの届かない彼への想いの表れなのだろうと。
「好きです。愛さんが、好きです」
僕の想いも叶わない。
叶わない想いを、また違う人の背中に想いを抱く人に投げかける。
それでも良かったんだ。
ただ、伝えたかった。
大切な人が目の前にいる、この瞬間に。




