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「そろそろ閉店時間だよね。愛さん、ごちそうさまでした」
壁に立て掛けていた白杖を持ち、龍さんが席を立つ。
「裕二君も帰るんだろう?」
「あ、えっと、少し愛さんに話があって」
愛さんの視線を感じて、「すぐ済みますから」と笑ってごまかした。
龍さんが帰ったあと、会計を済ませる。お金を払い、愛さんがお釣りの百円を僕の手のひらに丁寧に乗せた。
「愛さんはここが無くなっても良いんですか」
しんとした閉店時間の店内。
壁に取り付けられた飴色の間接照明が、しっとりとした明りを灯している。
そっと吹き込んだ風に、白いカーテンがふわりとはためいた。
「形あるものは、いつか無くなるものですから。仕方のないことですね」
店内にゆっくり視線を巡らせ、カウンターに置いたスケッチブックを開いた。
今日に至るまでの日々の瞬間を描いたそれを、一枚一枚そっと捲る。
懐かしむように。愛おしむように。
淡い水彩画のタッチの絵に指を這わせては、またひとつページを捲る。
「取り壊しの件を何とか出来ないかと思って、僕がここに引っ越してくることも樋口さんに提案したんです。でも駄目でした」
昼間。草むしりの許可を取る為に役場に電話する前に、樋口さんに電話して相談していたのだ。
マンションの住人が増えればどうにかなるものなのか。
そうであるなら、今すぐにでも引っ越したい。
だが答えはノーだ。
考える余地もなく「無理ですよ」と返って来たのだ。
もう話は随分と進んでいて、解体に関わる計画もしっかりと出来上がっているらしい。
「わざわざありがとうございました。でも良いのですよ。どのみち、来年の春には店を閉めるつもりでしたから」
「えっ――」
「ずっと皆さんとこうしていたい気持ちでいっぱいなのですけど、時は流れていくものですから。どうしても変わっていくものはあります。でも、ほら」
キッチンの椅子に腰かけた愛さんが、絵をぱらぱらと捲りながら微笑んだ。
「絵を描いた時よりも、時間が過ぎることで、よりこの風景が愛しくなる。過ぎた時間が、想い出を美しくするんです。自分の心のなかが、想い出という宝物でいっぱいになる。それはそれで、とても素敵で大切な事なんじゃないかと思うんです」
愛さんが、色んな感情を乗せたため息を溢す。
「ミモザの樹の下でまた会おうと約束したんです。会いに来ると言ってくれたんです。作家になったら迎えに来る。必ずなってみせるから、その時は一緒に暮らせる所に引っ越すからって」
「作家、ですか」
「えぇ。龍さんのことですよ」
愛さんの店を出た僕は、海辺へやって来た。
見渡す限りの海と空を見ていると、自分の無力さを突き付けられるかのようだ。
手を伸ばしても掴めない。ずっと抱きしめておきたくても、できるはずもない。
自分の手に負えない広大な自然は、まさにいま直面している抗えない運命を象徴するかのように。
しゅわしゅわと小さな海水の泡が靴の先で弾けて、さらさらと海に引いていく。
暗い海に、灯台が迷うことない真っ直ぐな光を伸ばしている。
「ここは俺の散歩ルートだぞ。そう陰気なオーラを全身から出されちゃこっちが参りそうだ」
からかうような口調な声の主は巳影さんだ。
いつのまにか、僕の後ろに座り込んでいたらしい。
「女にでも振られたか」
僕を見上げてくくくっと肩を揺らして笑う巳影さんに、否定する言葉が見つからない。
「まじかよ。あ、まさか愛じゃねぇの?無理無理、やめとけって」
「わざわざ言って頂かなくても無理な事はわかってますよ。前から少しそんな気はしてたんです。スケッチブックもやたら龍さんが多いし」
僕が龍さんの名前を出すと、それまで愉快そうにしていた笑みが消える。
「無責任に守れもしねぇ約束するから、いつまでもあの場所に縛られるんだ。まぁダメ元でも良いなら、もう時間もねぇし、お前もあいつに自分の気持ち伝えてみろよ」
「来年の春にお店を閉めるって話ですか」
「それもあるけど、愛と会えるのもそれっきりになるだろうからな。あとは本人の口から聞けよ。俺からはそれ以上言えねぇ。じゃあな」
巳影さんは立ち上がってお尻の砂を払うと、思い出したように声を上げた。
「そうだ。あの林の草むしりやってただろ」
「見てたんですか?」
「まぁな。お前、やっぱ良い奴だな。またな、裕二」
去り際、巳影さんははっきりと口元に笑みを浮かべていた。
風呂上がりに久々のビールを開けて一気に喉に流し込む。
一日の終わりに飲むビールは贅沢で至福の時の筈なのに、心に抱えているもののせいか、苦みだけがくっきりと感じられて爽快な気分になれない。
そんな僕を、金魚は岩陰からちらりと覗き見ていた。
【樋口さんに聞いたよ。あのマンションのこと】
小鳥遊とのLINEのトーク画面に打ち込んで風呂に入った。
冷蔵庫からビールを取り出しながら既読が付いたことを確認し、何か返事は来るだろうかと、テーブルに置いたスマホの画面をぼんやりと眺めながら苦いビールに口をつけた。
スマホがブーン、ブーンという音と共に震える。画面には、小鳥遊ひかると表示された。
「大丈夫?息してる?」
「なんだよそれ」
「落ち込んでるんじゃないかなって心配したんだもん。今日、私にも樋口君から連絡来たんだけど、やっぱり取り壊しの話はどんどん進んでるみたいだし、滝本君、息してないんじゃないかと思ってー」
話の内容とはうらはらに、小鳥遊のからかうような笑い声がスピーカーを通して部屋に響く。
「小鳥遊こそ、なかなか店で会わないだろ。喫茶店、行ってるのか?」
「あぁ。あの雨の日以来は行ってないかなぁ。行きたいんだけどね。ま、君がそこまで言うなら行っても良いかなぁなーんて。今週、お母さんの命日でさぁ。お墓参りに行くから、来週にでも行こうかな。やっぱりタッキー断ちは無理だなぁ」
「タッキー断ち?」
「ううん、こっちの話。じゃ、まったねー」
一方的に切られた僕に「どんまい」とでも言っているような視線を送る金魚は、水槽に近付くとぷいっとそっぽを向いて水草の森に入って行った。
♢ ♢ ♢
流石に11月ともなると朝晩がぐっと冷え込むようになり、夏用の布団を仕舞い、喫茶店へ向かう前にこうして毛布を干している。
窓のサッシに溜まった結露の水分を拭き、さっき金魚のお尻からはずれて浮遊する糞を網で掃除する。
部屋の壁に掛けた、チヨさんが作った黒猫と月の刺繍。
月の部分が作りかけのままだが、そのまま額に入れて飾っている。
チヨさんがここまで作った想いや、縫いかけのまま垂れた糸から彼女のぬくもりが伝わってくるようで、悩んでいる僕に「頑張って」と背中を押してくれているような気がするのだ。
「よし。行ってくるよ」
水槽を覗き込み、こちらに寄って来た金魚に声を掛ける。
今日は小鳥遊が来る日だ。
朝起きると、久しぶりのブサ犬写真と共に、お昼前に喫茶店に行くとメッセージが入っていた。
いつもの道を歩きながら見る風景のなかには、もんぺ姿のお婆ちゃんが自分の田んぼの脇に座り、水筒のお茶を飲んで休憩している。
そんなお婆ちゃんの前には、何かを燃やしているのかのろしのように細く白い煙がたなびいていた。
道端に生える草は朝露が煌めき、人のいない田んぼでは白サギが闊歩している。
祠のある林道に差し掛かると、タヌキの親子が右側の林から祠のある左の林にトトトッと駆け抜けていった。
僕が咄嗟に足を止めると、祠の傍でこちらを振り返った親子タヌキが僕の様子をじっと伺う。
ここで僕が動いたら怖がらせるかもしれないと、お互いに目が合ったまま膠着状態が続き、僕の鼻がむずむずしてきて耐えられなくなった頃、ようやく親子は石段を駆け上ってやがて見えなくなった。
威勢の良い僕のくしゃみが林中に響き渡る。
びょうと風が吹きつける。コートのポケットに両手を突っ込み、黒猫と月のある丘へと急いだ。




