4
風呂上がりの温もった体に秋の夜風がひんやりと肌寒くて、羽織っていたジャケットを身体にぴったりと纏う。
藍色に染まる空に、まるまるとした満月か浮かんでいる。
山の向こうに沈んだ太陽が、濃厚なオレンジ色で山並みを縁取ってた。
昼間に草むしりをした祠の前で立ち止まる。
静謐な林に佇む祠はやっぱり何となく神々しくて、まだ神様がいるんじゃないかと思わせる雰囲気をもっていた。
カサッと数メートル先の草が擦れた音がして、身体が小さく跳ねた。
足音を立てないよう後ずさりし、目を凝らして何もいない事を確認する。
またあの蛇が出てきたら堪らない。
僕は急いで喫茶黒猫と月へと向かった。
「愛さん、こんばんは」
「あら、滝本さん。夜も来てくださるなんて思ってなかったので嬉しいです。いらっしゃいませ」
嬉しそうにお水を用意する愛さんの向こうに、いつもの席で珈琲を飲む龍さんの姿があった。
「龍さん、こんばんは」
「やぁ、会えて良かった。お礼が言いたかったんだ。本当にありがとうね。父と会う勇気をくれた君には感謝しかないよ」
「いえ、そんな。正明さんも、龍さんに会えて喜んでいらっしゃいましたよ」
「ははっ、そうか。まぁ、これからは定期的に会いに行くことにするよ。今日は僕がご馳走するよ。お礼がしたいから、良い?」
促されるまま、龍さんの隣の椅子に座る。
珈琲を頼むと、龍さんが「それだけで良いの?遠慮しないで」と言ってくれたが閉店時間も近い。今から食べ物を頼むのも気が引けると思って断ろうとしたが、そんな僕を察したのか愛さんが「気にしないでください。材料が余るのも勿体ないですから」と背中に触れた。
その感触が柔らかくて優しくて、僕はうっかり赤面してしまい、メニューもろくに見ないまま適当に文字を指をさして「ナポリタン」を注文してしまった。
珈琲を淹れる音は、なんて心地良いのだろう。
穏やかにたゆたう夜の海。愛さんが珈琲を淹れる音、食器の音、ひとつひとつが何物にも代えがたいBGMとなって僕を癒す。
この場所が幸せだと思えば思う程、樋口さんの話がより生々しく突きつけられる。
愛さんが淹れてくれたブルーマウンテンの香りと温もりが、草むしりという労働を終えた僕の身体に沁みる。
フライパンでジュッっと焼けつくケチャップの音と美味しい匂いに、これでもかと言わんばかりに腹の虫が鳴いた。
「愛さんのナポリタンは絶品だよ」
龍さんが言うと、フライパンからお皿に盛りつけながら愛さんが照れたようにはにかむ。
運ばれてきたナポリタンは、輪切りのピーマンと玉ねぎ、ひき肉で作られたものだった。
バターの香りがして、濃厚なケチャップと野菜の甘味、食べ応えのあるお肉が太めのパスタに絡む。
どうして今まで頼まなかったのだろうと悔やまれるほど美味しくて、あっという間に平らげてしまった。
「裕二君は、ここが無くなるかもしれない事は知ってるんだろう?」
食べ終えて汚れた口元を拭いていた僕の手が止まった。
「ご存知なんですか」
「さっき愛さんから聞いたよ。でも巳影さんには内緒にしておいて欲しいと頼まれてね。少し気の毒な気もしたけど仕方ないかもしれないね。彼は誰よりも愛さんの事を気に掛けているみたいだから、こんな話を聞いたらきっと樋口さんに怒るかもしれないし」
食器や調理器具を片付ける愛さんはいつもと変わりない。
洗い物を終えていつもの椅子に座り、スケッチブックと水彩色鉛筆を取り出して絵を描き始めた。
愛しいものを見るような眼差しを筆先に注いでいる。
ふと彼女と目が合いそうになって、慌てて窓の向こうに顔を逸らした。
「そう言えば、父に会いに行った帰りに施設の前で猫に会ったよ。見送りに来てくださった職員の方が言うには黒猫らしくて。なんだか懐かしくなったよ。あの辺りに住み着いてる野良猫なのかな。僕が君くらいの年齢の頃に、このマンションの前で黒猫に会った事があるんだけど、鳴き声がよく似ていてね。同じ猫かと思ってびっくりしたよ。もう20年以上も前の話だから、そんなわけ無いんだけどね」
猫の寿命がどれほどなのかわからないが、流石に龍さんが出会った20年前の猫は、あんなに若々しくないだろう。
この店の前で何度か見かけた黒猫を思い出す。
近頃どちらの黒猫も見かけないがどうしているのだろうか。
「僕も何度かこの店の周りで黒猫を見ましたよ」
「そういえば夏頃にも一度そんな話をしていたね。じゃああの子の子供とかかなぁ。そうだと嬉しいな」
カタン、と愛さんが色鉛筆を落とした。
「あ、ごめんなさい」
慌てて立ち上がった愛さんの肘が、傍に置いてあった水の入った紙コップを倒した。
「大丈夫ですか?手伝いますよ」
「良いんです、大丈夫です。ごめんなさい、お話の邪魔をしてしまって」
床を拭き、ようやく落ち着いた愛さんは色鉛筆を片付けてスケッチブックを閉じてしまった。
「今日は何を描いていたんですか?」
「お二人の後ろ姿、です。色の続きはまた後でゆっくり塗ります」
龍さんの代わりにスケッチブックを受け取り、描いていたページを見せて貰った。
この短時間でしっかり僕たちの姿をスケッチし、色を塗り始めていたところだったようだ。
「愛さんも黒猫に会った事があるんですよね?」
僕が訊ねると、驚いたように「えぇ、まぁ」と笑顔を浮かべた。
「もしかして、この辺りに黒猫が住み着いていたから、お店の名前も黒猫と月にしたんですか?」
「え?そうですね……はい」
言葉を濁しながら、愛さんはスケッチブックを大事そうに抱える。
「黒猫と月は確かに画になる。そしてこの店と、愛さんの優しい人柄が合っていて、とても居心地が良い」
龍さんににっこりと微笑まれて、愛さんの頬がほんのりと赤く色づく。
「ありがとうございます」
胸に抱いたスケッチブックを握る手にぎゅっと力を籠め、照れたように苦笑していた。




