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両サイドを田んぼに囲まれた、長い長い田舎の道。
街頭も殆ど意味を成していない、暗い道を黙々と歩き続ける。
三方を囲む山々は夜の闇にシルエットだけがぼんやりと浮かび上がり、濁りの無い白い満月が、夜空に光を滲ませていた。
長い直線の道を抜け、山沿いに左へ大きくカーブする。そこから更に真っすぐに続く道を進み、今度は右に曲がる道へ進むと海を望む丘に出る。
ふわりと海の匂いが流れて来た。
「流石に八時は営業してないか」
喫茶黒猫と月のあるマンションを見上げる。愛さんが水をやっていた三階の窓は白いカーテンが閉められていた。
明日の仕事も早い。開いていたからと言ってのんびり珈琲を飲む時間があるわけでは無いが、もしかしたら挨拶くらいできるかもと淡い期待をしていた自分がいる。
静かに佇む満開のミモザを見上げ、ひとつため息を吐いてから、ざん、ざんと音を立てる海へと歩き始めた。
緩やかに延びる坂を下る。少しずつ、波の音が近付く。
堤防の先に建つ白亜の灯台が、黒い海にまっすぐの光を指し示している。
打ち寄せては、しゅわしゅわと砂を巻き込み海に引いていく波。
僕は砂にお尻がつかないように、その場にしゃがむ。
夜の真っ暗な海は、まるで向こう側に黒い幕でも下りているようだ。
ぼんやり浮かび上がる水平線を見ていると、途端に吸い込まれるような得も言われぬ恐怖が押し寄せ、慌てて立ち上がった。
「おや、こんな時間に人がいるとは」
不意打ちの声に、情けない悲鳴を上げる。
「急に声を掛けてすまない」
振り返ると、50代後半くらいの男性が立っていた。
しゃきっとアイロンのかかった皺一つない白いズボンに、グレーのジャケットの紳士的な姿。
自分が今すぐにでも布団に入れるスウェット姿だったことに気付いて、顔が赤くなるのを感じた。
「す、すみません」
慌てふためく僕を気にも留めず、男性は砂に汚れる事も気にしない様子でどさりと胡坐をかく。
そんな彼が傍らに置いたものに目を疑った。
杖だ。目が見えない人が、歩く時に使う白杖だった。
「それって……」
「あぁ、僕はあまり目が視えていなくてね。あまり、だから全くでは無いんだよ。夜に出歩くのは危ないんだけど、たまにはそういう気分の日もある。誰もいない夜の海辺に一人でいた君にはわかるんじゃない?」
勿論わかる。
色々と納得いかなくてモヤモヤしたり、考えが纏まらない時もそうだ。
夜風に当たりたい。静謐な空気を感じたい。体の中にたまったどす黒い毒を洗い流したい。
そう思うと、決まって僕は散歩に出る。
「服、汚れちゃいますよ」
僕のよれよれスウェットならまだしも、彼のきちんとした服は汚れて良いとは思えない。
「あぁ。服はいずれ汚れるものさ。君のような優しい青年に、こうして隣に座らせて貰える幸せに比べたら大した問題じゃないよ」
どれくらいの間こうしていただろう。
それからは何を話すでもなく、二人並んでざぶんざぶんと打ち寄せる波音を聞いていた。
「さ、私はそろそろ帰ろうかな」
何の切っ掛けも無く、男性が白杖を手に立ち上がった。
「ご迷惑でなければお送りします」
「いや、大丈夫だ。自分の面倒は自分で見たい質でね。ヘルパーさんに手伝ってもらう事も多いけど、こんな性格だから、時間が掛かっても出来るだけ自分でやりたいんだよ。その代わり、何でも早めに動きださないと間に合わないんだけどね。君に会えて良かった。いつもなら珈琲を飲んだらまっすぐ帰るんだけど、今日はここに来て良かったよ」
「珈琲?」
もしかして、と思ったらやはりそうだ。
男性は黒猫と月の方を指して「行きつけの喫茶店があるんだ」と教えてくれた。
丁度僕が店の前に着いた時間が閉店時間だったらしい。
彼は、夕方から夜にかけてあの店によく行くのだと教えてくれた。
「じゃあね。君も気を付けて帰りなさい」
「はい。ありがとうございました」
名前聞きそびれたな。
白杖を手に歩いて行く男性の背中は、やがて夜の闇の中へと溶け込み、見えなくなった。




