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カランコロン
「いらっしゃいませ」
ベルの音の向こうで、いつものように穏やかな笑顔で迎えてくれる愛さん。
今朝はまだ誰も来ていないらしい。
いつもの席に座り、いつものように珈琲を注文する。
「ブレンド珈琲と、紫芋のモンブランですね」
今日のマスタードイエローのロングスカートは、ここ最近の町の装いに合っていて秋らしい。
窓から見える木々も葉が黄葉し始め、ここに来る途中の道も秋色に染まり始めていた。
少しひやりとしたテーブルの木目を指でなぞる。
柔らかい手触りを、二度、三度と確認するように触る。
壁に並ぶ古書が、いつにも増してしっとりとした空気を纏っていた。
愛さんが珈琲を淹れる音。カップとソーサーがぶつかる小さな音。
やがて漂う珈琲の芳醇な香り。
現実の音を、匂いを感じる度に、もうこの世にはいないチヨさんの事を思い出す。
木目をなぞっていた手をぎゅっと握り、丘の向こうで静かにたゆたう海を見る。
空と海とが一体化したような、淡いパステルカラーの風景。
凪いだ海面にきらきらと降り注ぐ白い朝陽に、鼻の奥がつんとするのを感じた。
「珈琲とモンブランお持ちしました。あの、私もお隣よろしいですか?」
「は、はい。もちろんです」
隣に座った愛さんが珈琲カップに口をつける。
そよぐ風に、愛さんの前髪が僅かに揺れた。
差し込む光の粒を纏い、絹糸のように揺れる髪はあまりに綺麗で、思わず見惚れてしまう。
「この前、急にお店を休んでしまってすみませんでした。来てくださっていたんですよね。巳影さんから聞きました」
「えっ、あぁ。気にしないでください。そもそもこのお店は定休日がないみたいですし、愛さんもたまには休まないといけませんよ」
僕の知る限り、春にここに来た頃からみても休みだったのは前回のあの日だけだ。
「お店をやっていて疲れることは無いんですよ。お客様も少ないですし、殆ど私の趣味みたいなものですから。でも、先日の件はどうしても……」
愛さんが俯く。どうしたのだろうと、その横顔をちらりと見るが、言葉にするか悩んでいるのか「えっと……」と口をもごつかせていた。
「チヨさんは、あの後どうなったかご存知無いですか?」
漸く言葉にした愛さんが、まっすぐに僕を見つめた。
いつになく不安げで縋るような瞳に、僕も手にしていた珈琲カップをソーサーの上に戻した。
「えっと……亡くなりました」
そう口にして、胸がぎゅっと苦しくなる。
ふと、愛さんにチヨさんの名前を教えたことはあっただろうかという疑問が頭に浮かんだが、今にも抑えが効かなくなりそうな気持ちがそんな疑問をどこかに追いやってしまう。
わざと大きく息を吸って、溢れ出しそうになる感情を逃すように、震える息を吐き出した。
「そうですか」
予想していたのか、愛さんは僕たちの前に並ぶ本の背表紙にそっと触れた。
「このお店の本はお客様から頂いたと言いましたが、実は全て彼女から頂いた物なんですよ」
「そうなんですか!?」
懐かしむように目を細める愛さんは「えぇ」と頷く。
「チヨさんは昔、この場所に住んでらっしゃったんです。当時落ち込んでいた私を心配して、自分は施設に入るために部屋を出るから、ここでお店をやればいいと言ってくれたんです。その時に本も置いて行ってくださったんですよ」
知らなかった。
ここにある全ての本が、チヨさんの物だったなんて。
でも何となく、チヨさんならそう言うだろうなと思って笑みが零れた。
「死ぬときに持って行けるのは想い出だけだからって言って。チヨさん、最後は穏やかに旅立てたのでしょうか」
愛さんの瞳が少し赤い。
僕は少しうるみ始めた目を誤魔化すように、天井を仰いで瞬きをした。
「亡くなった旦那さんとお子さんの名前を口にしながら……穏やかに……」
僕がそう言うと、愛さんは「良かった」と微笑む。
一筋の涙が頬を伝って、慌てて拭っていた。
本当は穏やかとは言えない。
旦那さんと子供の名前を呼びながら、最期の瞬間までチヨさんは泣いていた。
きっと今まで泣かずに生きてきたのだろう。
人前で泣くのを堪えて生きて来たチヨさんが、最期は二人の名前を呼びながら涙を流して亡くなった。
最期の瞬間と、いつも目じりにいっぱいの皺を寄せて笑っていたチヨさんが交互に重なって、目頭が熱くなる。
もう我慢が出来なかった。
涙がひとつ、テーブルに落ちる。
一気に視界がぼやけて、歪んで。
嗚咽を漏らしながら泣いた。
好きな人の隣で泣くなんて情けない。恥ずかしい。
だが、そんな感情を飲み込むほど悲しくて、苦しい。
僕が泣き止むまで、愛さんは何も言わずに優しく背中をさすってくれていた。
「すみません、ありがとうございます」
愛さんが貸してくれたタオル地のハンカチで涙を拭き、心を落ち着かせるように珈琲を飲む。
香りが良いブレンド珈琲は苦みと酸味のバランスが絶妙で、泣きすぎてカサカサになった喉にじんわりと潤いを広げ、温めてくれる。
なんとか落ち着きを取り戻し、ふぅとひとつ息を吐くと、店のドアベルが鳴る。
「いらっしゃい。すぐにミルク淹れるわね」
深い緑のエスニックな服の裾を揺らしながら、巳影さんが音もなく入って来た。
「こんにちは」
「おう」
ちらりと僕を見下ろして、軽く会釈した巳影さんがカウンター席に座る。
会釈した。巳影さんが僕に会釈をした。
「巳影さん、やっぱり良い人よね」
「……うるさい」
愛さんからミルクを受け取り、マグカップにそっと口を近づける。
「もしかして、外で待ってくれてたんですか?」
巳影さんが眉間にしわを寄せ、鋭い眼光で僕を睨みつけた。
「うるせぇって言ってる。しつこいぞ」
当たりか。
僕が泣いているのに気づいて、店の前で待ってくれていたのだ。
ぶっきらぼうで愛想は無いけど、愛さんの言っていたとおり心は優しい人なのだろう。
頬がにやつくのを手で抑え、カップの底に薄く溜まっていた冷たい珈琲を飲み干した。
「そういえば樋口ってやつが下に居たぞ。お前が来るかもしれないからって」
「本当ですか?!愛さん、あとで戻りますから、ケーキ、このまま置いててください」
僕は後で戻るという証拠に、電源を落としたスマホをテーブルに残して急いで店を出た。
「樋口さん!」
「あぁ、もう来てたんですね。小鳥遊さんが滝本さんは午後から来ることが多いって聞いてたので待ってようかと思ったんです。ちゃんと約束しておけば良かったですね」
「いえ。こちらこそ、一度先週にお約束したのに来れなくてすみませんでした」
小鳥遊に頼んで約束をしていた先週の休み。だが、その前日にチヨさんが亡くなったのでまた今度という事になっていた。
「お店の中では話しづらい事ですから。海にでも行きませんか」
樋口さんの提案で、丘を下って海に向かう事にした。
次第に波音が近くなって、潮の匂いも強くなる。
宝石を散りばめたように煌めく水面が眩しくて、高い秋の空に視線を向けた。
灯台の足元にやってきた僕たちが並んで座る海には、澄んだ水平線が遥か遠くに淡く浮かび上がっていた。
「僕ね、役場に勤めてるんですよ。そこであのマンションの取り壊しの話が出てるんです。というより、もう数年前から出てたんですけど住んでる人もいるからっていうので一度流れて、また住人が退居を始めた今のタイミングで浮上したんです」
「そんな。樋口さんだって住んでるじゃないですか。愛さんだって――」
「僕なんてすぐに他所へ移れますから。それにあの部屋、愛さんの名義じゃないんです。前の住人なんですけど、最近亡くなられて。あとは僕だけになったからって事で、ここ数日、取り壊しの話がどんどん進んでるんです。だから早く滝本さんに伝えたくて、今日待ってたんですよ」
前の住人はチヨさんの事だ。
さっき、愛さんがあの部屋はチヨさんから譲り受けたと言っていた事と繋がる。
あの店が無くなったら、愛さんはどこへ行くのだろう。
黒猫と月はどうなるんだ。
「愛さんは知ってるんですか?」
すると樋口さんは、海を見つめたまま静かに頷いた。
「先日、役場の人間連れてお店に行きましたから。その時に話もしています。愛さんは『わかりました』って言ってましたよ。それから僕らにいつも通り美味しい珈琲を淹れてくれて」
愛さんはどう思っているのだろうか。
あそこで誰かを待っているって言ってたのに。
店は趣味でもあると言っていたのだから、愛さんだって失っても構わないなんて思っているはずがない。
「僕だってなくなって欲しくないですよ。僕にとっても大切な場所です。でも……」
樋口さんが、諦めのような息を吐いた。
「どうにもならない事も、あるんですよ。いつまでも変わらずにいるって、難しいんですよね」
「おかえりなさい。あら、樋口さんはいらっしゃらなかったのですね」
「はい。また次の休みに来るそうです。あの、アイス珈琲をおねがいします」
残していた紫芋のモンブランは、なんだかあまり味わえていない気がする。
少し離れた所に仕舞われていた銀河鉄道の夜を手に取ってみた。
龍さんと正明さん、ちゃんと話せたみたいで良かったな。
それだけでも僕がここに来た意味はあっただろう。
龍さんに会えた。それは愛さんの店があったからこそだ。
前にも読んだ本の、最初のページを開く。
遠くに聞こえる潮騒の声と、さあっと木々を撫でる風の音。
アイス珈琲に浮かぶ氷が、柔らかな陽射しを通して透明な虹色を抱いている。
カラン、とグラスの中で氷が揺れる。
それら全ての音が調和して、本の世界に流れ込む僕の背中を押し、かさついていた心を少しずつ、少しずつ癒していく。
ふと本から顔を上げ、目の前の海に目を向けた。
遠洋で一直線に白い波が立っては消え。立っては消えを繰り返していた。
この場所を失うなんて考えられない。
今夜もう一度来て、愛さんとゆっくり話をしてみようか。
モンブランを食べ、皿に着いたクリームもしっかりすくう。
最後の一滴まで珈琲を飲み干した僕は、巳影さんにも挨拶をしてから店を出た。




