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雨上がりの帰り道。
喫茶店から自宅までの道を歩いている間、いつもならば草の香に鼻をひくつかせ、田んぼ沿いに咲き乱れる妖艶な彼岸花に少し感傷的になるところだが、僕はずっと道の先を見つめて無心で歩を進めていた。
歩くのを楽しむ余裕もない。足を前に出すだけで精いっぱいだった。
マンションが取り壊される?
店が無くなるって事か?
そうなったら、あの場所が無くなる。
珈琲と古書の香り。潮風がそよぐ、慌ただしい日常にぽっかりとできた陽だまりのような場所が、無くなってしまうのか?
そうしたら、愛さんはどうなるんだ?
形容しがたい感情が、次々に湧き上がる。
ふと立ち止まって、ぼんやりと周囲に目を向けた。空を覆っていた雲に切れ間が生じ、放射状の光が大地に降り注ぐ。
そんな美しい景色すらも、とても儚いものに見える。
当たり前に見ていたものが、違った顔を見せてくる。
明日も、明後日も、そこにあると思っていた幸せが壊れるかもしれない。
愛さん。僕はどうしたら良いんだろう。
胸の奥に、巨大な岩でものしかかっているような気分だ。
道の隅に目をやると、枯れたひまわりが、ぽつんとうなだれていた。
今の僕の心境を表してるみたいだな。
僕は再び歩き始める。
悩んでいても仕方ない。悲しくても、時間は過ぎる。
僕にできる事……。
とりあえず、次に樋口さんに会った時に詳しく聞いてみようか。
正面の土手から吹き抜けて来た風に、ジャケットが大きくはためいた。
♢ ♢ ♢
『明日の夕方、樋口さんに喫茶店に行くように伝えておくよ~』
仕事終わり、フロアに置いてある鞄の中でスマホが光っていた。
小鳥遊からのLINEを確認し、鞄を肩に掛ける。
「滝本君、お疲れ。明日休みよね」
「はい。リーダーも夜勤明けで二連休ですよね」
「そうよ~。今夜頑張ったら久々にゆっくりできるわぁ。二連休なんていつぶりかしら」
日中の事を記録しているファイルに目を通していたフロアリーダーのピッチが鳴った。
「はいはい?あー、うんうん」
みんなに挨拶して帰るか。
リーダーに会釈してから一室ずつ部屋を回り、最後にチヨさんの部屋をノックした。
いつもなら「はぁい」と返事があるのだが、今日は早めに寝ているのだろうか。
そっとドアを開けて僕は叫んだ。
「チヨさん!」
意識が朦朧としたチヨさんが、車いすの上で頭を垂れていた。
「どうしました?!大丈夫ですか!」
薄れゆく意識の中で、チヨさんが「あ……あぁ、それ……」と、小刻みに震える手でテーブルを指さす。
そこには、黒猫と月の刺繍をした布が置かれていた。
月はあと三分の一を残して、糸が垂れている。
僕の声を聞いたリーダーが部屋に飛び込んで来た。
サイレンと共に救急車が施設に入ってくる。ストレッチャーに乗せられたチヨさんは、あっという間にフロアを出て行った。
「どなたか付き添いの方は」
「僕が行きます」
「ごめんね滝本君、お願いね」
どうしたのかと、部屋からふらふらと出て来た他の利用者の対応をしていたリーダーに頷いて、救急車へと急いだ。
「うわっ」
救急車に乗り込み、発進してすぐに運転手が声を上げた。
「すみません、猫が飛び出してきて。大丈夫です、ぶつかる前に停まりました。すぐ病院へ向かいます」
あの黒猫だろうか。だが、今はそんな事よりも、弱弱しい呼吸をするチヨさんの事が心配でたまらない。
運ばれる最中、チヨさんは「ノリオ……」「お父さん……」と呻くように呼び続けていた。




