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「あれー、今日お休み?」
喫茶店のドアの前で貼り紙を見ていた僕の背後から、小鳥遊がやって来た。
階段を上って来る小鳥遊の後ろで、巳影さんがこちらを見上げていた。
九月も終わる日の午後。急に降りだした雨に、傘を持たない巳影さんは全身ぐっしょりと濡れている。
「今日は用事があるんだとよ。待ってたって帰って来ねぇぞ」
小鳥遊が「えーっ、せっかく来たのにぃ」と子供のように頬を膨らませた。
「じゃあ仕方ないから、ここでちょこっとお喋りでもしようよ。このまま帰るの悔しいじゃん」
小鳥遊が傘をくるくると巻いてボタンを留める。
傘先から落ちる雫がコンクリートに黒いシミをつくる。
冷たい階段に座り「ほら、こっち」と、自分の隣を叩いた。
なんの根拠もなく「きっと大丈夫だろう」と高をくくっていた僕は傘も持っていない。雨宿りをする他無い僕は、お尻のポケットからスマホと財布を取り出し、小鳥遊の隣に腰を下ろした。
「巳影さん、それ以上濡れたら風邪ひきますよ」
「関係ねぇだろ。余計なお世話だ」
「そんな事ないですよ。愛さんが用事でいない事知ってたんですよね?なのにここに居るって事は、僕たちが来るかもしれないと思って待っててくれたんじゃないですか?」
小鳥遊は「え、そうなの?」と、目を丸くする。
僕が来た時には既に巳影さんはマンションの前にいたのだ。ミモザの樹の下で、雨宿りをしているところだった。
さすがにこの雨は、樹の下ではどうにもならなかったようだが。
「うるせぇ。自意識過剰だっての」
巳影さんは鼻であしらうと、振り返ることなくマンションの敷地を出る。
「ありがとうございます!」
僕の言葉に、小鳥遊も立ち上がって「ありがとねー!」と叫ぶ。
だが巳影さんは背を向けたまま歩いて行ってしまった。
「最近どうしてたんだ?珍しく連絡も殆ど無かっただろ」
「あー……なんかねぇ、色々あったのよ。でもやっぱりタッキーの顔見たら元気出たわ」
「おい、まだそのあだ名諦めてないのかよ」
小鳥遊は悪戯っぽくにひひと笑うと、足を延ばして天井を仰いだ。
「私、やっぱり君の隣が一番落ち着くのよねぇ」
なんだよそれ。思ったが、言葉にせずに飲み込んだ。
「私をこんな風にした君の罪は重いよ」
「罪って、別に何もしてないだろ」
「……ふぅん、そっか。でもしたんだよ。何気なく言っただけかもしれないけど、私はかなーり救われたの。ほら、高校生の時にお母さんのお葬式の後、滝本君にお礼の電話したでしょ。私が泣いてるからって、電車降りてわざわざ戻って来てくれたじゃん。あれ嬉しかったんだよねぇ。当時は喜ぶ余裕は無かったけど、凄く心強かったんだよ」
『参列してくれてありがとう』
電話の向こうの小鳥遊の声は、少し震えてるように聞こえた。葬式の間は気丈に振舞っていたのだろう。全く泣いていなかった彼女の声が、今にも消えてしまいそうなくらい弱弱しくて、僕はあとひと駅で地元につく電車を降りて葬儀場に戻ったのだ。
「つらいならそう言えって言ってくれたの覚えてない?寂しいなら言えば良いんだって。言葉にしなきゃ、気付けない事もある。僕はどこにも行かないからってさ。僕と小鳥遊の仲なんて、もう腐れ縁だろって。覚えてないかぁ。君との事があったから、初めて樋口君に会った時も『どうしたんですか?』って声掛けたんだよ。つらい時に気に掛けてもらえた事で、私は凄く助かったからさ」
もちろんそう思っているのは事実だが、あの時の言葉をそんな風に大人になった今も覚えているとは知らなかった。
中学は別だったが、高校で同じクラスになった小鳥遊。
大人しくて、休み時間も常にひとりでいる僕とは正反対の、明るくてクラスの中心にいるような小鳥遊は、たまたま同じ剣道部に入部した。
新入部員の殆どが経験者だったなか、全くの初心者だった僕たち二人はいつも一緒に素振りをしたり、お互いの癖を見ては指摘し合い、時にはライバルにもなり、苦しい稽古や合宿を乗り越える相手になっていた。
教室で小鳥遊に話しかける事はしなかったが、彼女の方はことある毎に僕に声を掛け、たまに男子から弄られている僕を見たら、相手の男子に怒っていた。
そうやって気に掛けてくれていた小鳥遊だからこそ、彼女の唯一の肉親だった母親の死で悲しんでいるのを放っておけなかった。
葬儀中は、見た事も無いくらい張り詰めた空気を放つ小鳥遊に近付けなかった。
正直、帰るのも迷ったくらいだったが、ひとりになりたい時もあるのかもと、電車に乗ったのだ。
だが、電話をかけて来た小鳥遊の声は、今にも心が壊れそうなのを必死で堪えているようだった。
『参列してくれてありがとう』と言ったその言葉の裏に、助けてという声を聴いた気がした。
そんな僕たちは高校を卒業して別々の道を歩むことになっても、縁は切れなかった。
寧ろ、毎日いろんなくだらないLINEのやり取りをしたり、電話をしたり。
高校時代と何も変わらない友情が続いていた。
「あれだね。自分は大切な想い出として覚えている事を、相手はあまり気に留めていないのって、案外寂しいものだねぇ。いや、そういう事もあり得るだろうなとは思ってたんだけどさ」
すると小鳥遊は「あー、やめたやめた」と、空気を変えるように手を二度叩く。
「辛気臭いからこの話はおしまーい。それにしても、せっかく雨のなか来たってのに、お店おやすみで残念だったねぇ」
「そうだな。……ん、なに?」
階段の向こうに見えるミモザを見つめながら僕が頷くと、隣で小鳥遊が僕の横顔を見つめ、自嘲めいた笑みを浮かべた気がした。
「いや、べつにー」
小鳥遊は肩をすくめ、鞄から取り出したスマホに指を滑らせた。
「樋口君から聞いたんだけどさ」
スマホに視線を落として文字を打つ仕草をしながら、淡々とした口調で言う。
だが、次に口にした言葉の内容があまりにも衝撃的で、僕の世界から音が消えた。
雨のせいで灰色の景色。無機質なコンクリートの床。
それら全ての要素が集まって、僕はまるでモノクロの世界にいるような錯覚を覚えた。
「このマンション。取り壊されるかもしれないんだって」




