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「滝本さん、今日はもう帰るの?」
夕飯後、チヨさんが淹れ歯を洗って水に浸けると、頬がこけ、口がすぼんだ状態になった。
九月になり、気持ち良い風が窓からさらりと流れ込む。
施設の周りに立つ木々の匂いに混ざって、野焼きの懐かしい香りがした。
「はい。明日は遅出なのでお昼前に来ますよ。チヨさんは明日は通院の日ですね」
「そうだったかしら。自分の予定も忘れちゃうなんて嫌ねぇ。私、ちょっと本を読みたいから、このままで良いわ」
車いすを本棚の前つけたチヨさんは、「またね」と手をひらひらと振っていた。
エレベーターを待っていると、アキちゃんと正明さんが東フロアから出て来た。
「お疲れ様ですー」
アキちゃんがにこやかに手を振る隣で、正明さんが眉間に皺を寄せたまま会釈した。
僕が「どうしたの?」と聞く前に、アキちゃんが「いつものです」と正明さんに気付かれないよう口をぱくぱくさせて言った。
時刻は七時だ。今夜も愛媛に帰ると言っているのだろう。アキちゃんは慣れた様子で正明さんを共同スペースに誘導していく。
きっと僕の知らないうちにもう何度もこういうやり取りをしているのだろう。
ついこの前まで、あたふたしていたアキちゃんが少し頼もしくなっている。
なんだか正明さん担当みたいになっているアキちゃんに、その背中を見送りながら笑みが漏れた。
エレベーターに乗り込み、職員ロッカーのある地下一階のボタンを押す。
そうだ。正明さんの息子さんの話。
今なら急げば会えるかもしれない。
僕は着替えを済ませ、いつもより早足で喫茶店へと向かった。
カランコロン
重い扉を開けて、軽やかなベルの音が鳴り響く。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで巳影さんのミルクを淹れていた愛さんが、にっこりと迎えてくれた。
「おっす」
巳影さんが会釈した。しかも、言葉を発して。僕はあまりにもそれが嬉しくて、思わず馬鹿にでかい声で「こんばんは!」と返してしまい、結果、また巳影さんに怪訝な顔をされてしまった。
愛さんは「あらまぁ」と、嬉しそうに僕たちの顔を交互に見ていた。
「久しぶりだね」
「龍さん!良かった、話がしたかったんです」
当初の目的を思い出し、僕は龍さんの隣の席に座る。
龍さんは「どうかしたの?」と、少しだけ珈琲カップを自分の方に寄せた。
「そう……世の中は広いようで狭いなんて言うけど、本当なんだね。その人は僕の父だよ」
「正明さんは面会の人もいらっしゃらないんです」
僕が言うと、正明さんは「そうだろうね」と苦笑した。
「母は認知症で、父の面会になんて行ける状況じゃないから。でも父はまだ愛媛に帰りたいんだね」
「龍さんが帰ってきているかもしれないからと仰っていました。謝りたいんだって。自分が作家になる事に対してプレッシャーを与えてしまったんじゃないかって、気にしていらっしゃいました」
すると、龍さんの眉が反応した。
「いつも夕方の六時になると愛媛に帰ろうとしています。今日もそうでした。龍さんが帰っているかもしれないからです。それと、正明さんも言ってました。息子に銀河鉄道の夜を読み聞かせていたって。凄く、凄く幸せで懐かしい想い出に浸るみたいに。だから、その……」
黒く凪いだ海がのっぺりと横たわる。
秋の気配を感じる澄んだゆるやかな風が、龍さんの前髪を揺らす。
「その気になれば会いに行けるのに、やっぱりまだ父に会うことで、夢を諦めたことを再確認するのが怖かったんだ。人生は一度きりだ。諦めて、自ら捨ててしまった事は戻ってこない。だけど……そうだね。裕二君から父の気持ちを聞いて、会いに行くべきだと思ったよ。それに、僕もこの店に来るようになって、人生に残された時間というものを随分考えるようになっていてね。父ももう歳だし、近いうちに行ってみるよ。ありがとうね」
残っていた珈琲を飲み干した龍さんは「君に会えて良かった」と、僕の肩を叩き、壁に立て掛けていた白杖を手に、店を出て行った。
「俺も帰るわ。またな」
愛さんにカップを渡した巳影さんが席を立つ。
「僕もそろそろ失礼します」
巳影さんに冷めた目で睨まれ、僕は咄嗟に肩をすくめた。
「一緒になんて帰らねぇぞ」
「わ、わかってますよ」
なんだ。よくわからないけど、少し距離が縮んだのかと思ったのに。




