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「四時か……」
秋もすぐそこになり、夕陽が最後の力を振り絞るように強い西日を放っている。
夜勤明けで寝ていた僕はベッドから体を起こし、テーブルの上に放置していたコンビニのパンの空袋をゴミ箱に捨て、脱ぎ散らかしたままの服を洗濯カゴに放り込んだ。
最近はこういう自分のだらしない部分を何とかしようと思っていたのに、夜勤明けともなるとすぐにこうなってしまう。
そんな情けない僕を、水槽の中で金魚がひれをはためかせながら、不思議そうに見つめていた。
なんとなく手に取ったスマホの通知を確認するが、何も来ていない。
そういえば最近、小鳥遊からの動物ぶさいくシリーズの写真が届いていない。
いつもなら頼まずとも一方的に送り付けてくるのに。
前に樋口さんと散歩に出た後、ちょっと元気無さそうだったなぁ。
LINE画面を開き「何かあった?」と簡単な文章を送ってみた。
すぐに既読が付いたが、返事は帰って来ないままだ。
♢ ♢ ♢
「少し海辺を歩きませんか?」
喫茶黒猫と月についてすぐ、僕は片付けをしていた愛さんをそう誘った。
今夜は月が綺麗だ。台風も過ぎた海は穏やかで、どうせならゆっくり散歩でもしながら話したい。
愛さんと灯台を目指してのんびり歩く。穏やかな音を立てて寄せる波は、しゅわしゅわと小さな泡を作りながら、砂をさらって海に戻っていく。
静かな夜の海に光の道を落とした下弦の月が、澄んだ空に浮かぶ。
「月、綺麗ですね」
僕が言うと、愛さんは少し僕を見つめて「そうですね」と微笑んだ。
変なことを言っただろうか。何気ない会話のきっかけだったつもりなのに、恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「最近、小鳥遊は来てますか?」
「えぇ。今日の午前中にいらしていましたよ。お昼には帰られましたけど」
愛さんは答えてくれたが、頭の中では「違う、今はそういう事を話をしたいんじゃないのに」と、もう一人の僕が頭を抱える。
「今朝は樋口さんが職場の方と一緒にいらっしゃいましたね。小鳥遊さんも驚いたのか、樋口さんたちがいらしてからすぐ帰られていまいましたよ」
「へぇ……職場の人とですか」
そういえばら樋口さんは何の仕事をしているのだろう。
「巳影さんは、相変わらず不愛想に座ってましたけど。そういえば彼、滝本さんは来ないのかって言ってましたよ」
「え?巳影さんがですか」
「なんだかんだ言って、滝本さんのこと悪く思ってないんじゃないかしら。良い人そうだって、前もぼそっと言ってましたから。ふふっ、もっと素直になればいいのに」
あの巳影さんが、僕を良い人そうだって?信じられないが、あのぶっきらぼうな人がそう言ってくれているなんて、ちょっと嬉しい。
顔がにやけそうになったのを誤魔化すように、両頬を撫でた。
夜の闇にそびえる白い灯台。
足元のコンクリートでできた堤防に、たぷんたぷんと波が当たる音が心地いい。
潮風が、隣に立つ愛さんの長くふわふわとした髪を撫で、柔らかな頬や額が露になる。
それを気付かれないよう横目で見ていた僕は、少し恥ずかしくなって暗闇に浮かぶ水平線に視線を逸らす。
「この前の鶴、職場の利用者様に喜んでいただけました?」
愛さんが思い出したように尋ねた。
「えぇ、まぁ。亡くなった息子さんに宛てて作っていたものなんですけど、記憶が行ったり来たりしているみたいで。今は本人も何のために作ったのかわからなくなって、部屋の壁に飾ってありますよ」
あれからチヨさんは千羽鶴を完成させたものの、息子のノリオ君が亡くなった事を理解している状態に戻ってしまっている。行き場を失った鶴たちは、ベッドの傍に飾ることにしたのだ。
今ではまた、旦那さんの写真にお茶を供えることから一日が始まる生活に戻っている。
「滝本さんは優しいんですね」
灯台を見上げていた愛さんが、僕に向かって優しい笑顔を向ける。
愛さんの笑顔が初めて出会った日のものと重なって、一目惚れした時の心境が蘇る。
「い、いえ。そんな……。僕のは仕事ですし、他の職員だって同じような事やってると思いますよ」
「あら。それではきっとその職員さんも優しいんですよ。仕事場を離れてでも利用者様の為に鶴を折るんですもの。心が無いとやろうと思わないんじゃないかしら。滝本さんのような方が他にもいらっしゃるなんて、優しい人が沢山いる施設なんですねぇ。素敵ですね」
愛さんの言葉ひとつひとつが、僕の鼓動を速くする。
「愛さんはいつからあの場所で喫茶店をやっているんですか?」
愛さんは、「んーと……」と少し困ったような表情を浮かべる。
「ずっと前から、でしょうか。元々あそこに住んでいらっしゃった方がいて、場所を譲って頂いたんです」
「へぇ、そうなんですか」
しまった。自分から話題を振っておいて、会話が途切れてしまった。
だが、そう思っているのは僕だけなのか、愛さんは気にしていない様子で足を海に投げ出すようにして座った。
「じゃあ、どうして喫茶店を始めようと思ったんですか?」
僕も同じように愛さんの隣に座り、黒い海の向こうを見つめる。灯台から真っ直ぐに伸びる光と、月光が交わる。
「人を待ってるんです」
愛さんのしっとりとした声が、波音に溶ける。
「だけど、もう忘れてしまったみたい。私との約束も」
彼女の声が寂しそうで、少し悲しみを帯びていて。
僕はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
「あら?」
突然、愛さんがさっき歩いてきた砂浜の向こうを振り返った。
「どうしました?」
あまり目が良くない僕には暗闇が広がるばかりだ。
じっと耳を澄ましてみたが、波がざぁ、ざぁと寄せては引く音が聞こえるだけだ。
「いえ、何でもないです」
愛さんは可笑しそうに、砂浜の向こうを見ていた。




