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「チヨさん、寝る前のお薬お持ちしましたよ」
「あら、いつもありがとうねぇ」
午後九時。今夜は昨日の台風が去り、静かな夜だ。他の利用者さんもほとんどが布団に入ったこの時間。
チヨさんは針と糸を裁縫箱に仕舞って、作りかけの黒猫と月の刺繍した布をテーブルに伏せた。
「これは完成してから見せてあげるからね」
「それは楽しみですねぇ。でも無理はしないでくださいよ。今夜はもう休んでくださいね」
薬を飲むチヨさんを見守り、持って来た血圧計と酸素濃度を測るパルスオキシメーターをケースから取り出す。
「もちろん。ちゃんと寝ますよ」
空のコップを受け取り、布団に入るのを手伝う。
血圧と酸素濃度をメモに取ってから、部屋のカーテンを閉める。
棚に伏せられていた旦那さんの写真は、今夜はきちんと立てられていた。
「何か良い事あった?」
部屋を出ようとした僕にチヨさんが嬉しそうに尋ねた。
明日、愛さんと夜に会う事を思い出して、僕はうっかり照れを顔に出してしまったらしい。
恥ずかしくて、機械類をケースに片付けるのにかこつけて俯いた。
「若いってのは財産よねぇ。でも時間は有限よ。後悔の無い選択なんてできるものじゃないんだから、悩むよりも楽しんで」
チヨさんは僕に手を振って布団を胸まで引っ張り上げる。
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
僕は電気を消して部屋を出た。
「おやすみ」
締めた扉の向こうから、チヨさんの優しい声が聞こえて来た。
「滝本君、東フロア行って来てくんない?この前入った新人の子が夜勤で来てるんだけど、大変みたいなのよ。私、今夜中にやらなきゃいけない事務仕事も残っててさぁ。こっちはみんな寝てるし、ちょっと手伝ってきてほしいんだけど」
「はい、わかりました」
シフト表では、東フロアはアキちゃんが夜気のようだ。
東フロアに入るが誰もいない。電気が点いて僅かにドアが開いていた奥の部屋をノックしようとすると、年配の男性職員がポータブルトイレを持って出て来た。
「あっ、来てくれたの!ちょっとこっち手離せないから、アキちゃん見てきてくんない?そっちの3号室にいるから。まだ洗い物も終わってないんだよぉ」
泣き言を言いながら出ていく職員の背中を見送り、僕は角部屋の三号室の扉をノックした。
扉には、正明さんのネームプレートが掛けられていた。
「あれ?」
部屋は空だ。正明さんも、アキちゃんもいない。
首から下げたピッチという昔ながらの携帯で、アキちゃんに電話をかけた。
「はい、下島です」
アキちゃんは電話口でこそこそと喋っているのか、随分と声がこもっている。
「ヘルプで来てて正明さんの部屋にいるんだけど、アキちゃんも一緒?どこにいるの?」
「す、すみません!どうしても正明さんが外に出たいって言うもので……流石に施設からは出られないので、同じ階の共同スペースのベランダにいます」
僕はとりあえずベランダはまずいので部屋の中に戻ってとだけ伝え、溜まっていた洗い物を済ませた。テーブルに放置されていた洗濯物を畳む。
戻って来た職員に事情を話すと「こんな時間に勝手に出歩かれちゃ困るんだって」とイラついた様子で後頭部を掻きむしっていた。
「だけど仕事に追われるよりも先に、利用者さんの気持ちに寄り添うのも教えなきゃいけない事のひとつですし。それが自然に出来るのはアキちゃんの良い所ですよ。とりあえず、戻っても叱らないであげてください。アキちゃんにはフロアに戻るよう伝えますし、正明さんも連れてきますから」
僕はそう言って頭を下げてから、二人がいる共同スペースに急いだ。
この階にある南・東・西のフロアの利用者さんが交流することのできる部屋だ。
日中はいつもここでカラオケ大会やら行事が行われているが、夜間の今はがらんとしている。
「滝本さん!ごめんなさい、その……」
「アキちゃんはフロア戻ってて。まだ夜勤の仕事で教わらないといけない事もあるだろうし。正明さんは、僕が連れて行くから」
慌てふためくアキちゃんが必死に謝るのを制止し、ソファに座ってベランダを眺めている正明さんの隣に座った。
「昨日は台風が凄かったですけど、今夜は静かですね」
「えぇ。ここは月も星も綺麗に見えて良い。ベランダは危ないからとお嬢さんに言われたが、ちょっと外の空気が吸いたくてね。ご迷惑をおかけしました。叱らんであげてください」
「大丈夫ですよ」
僕がそう言うと、正明さんがほっとしたように「良かった」と、左の口角を持ち上げて笑顔を浮かべる。
正明さんは静かに夜空に目を向ける。
真っ暗な部屋で、月光が正明さんの横顔に薄く白い光を当てる。
時計の音すらない、自然の柔らかな光がそそぐ清らかな空間に、ぽつりと言葉を溢す。
「私はもう愛媛には帰れんのですかねぇ」
少し寂しそうに。切なそうにつぶやく。
「息子が帰ってるかもしれないんでね。あの子の電話番号も知らないし、歳取ったからか、家の電話番号まで忘れてしまって。困ったものです」
それから正明さんは、ぽつり、ぽつりと自身の事を話してくれた。
「息子に謝りたくてね。あの子は優しいから、きっと私の事を気遣って帰って来られないんです。私もあの子も本が好きでね。私自身、若い頃に作家を夢見たもんです。叶いませんでしたがね。ただ、いつからか息子は作家を志すようになり、35歳でめでたくデビューも出来たんです。だけど、だけどねぇ」
正明さんが、わかりやすく肩を落とす。
「病気になってしまって。目が見えなくなったあの子は作家も辞めてしまったんです。気付いたら連絡もよこさなくなった。私が心配して電話をかけても、家に行っても、会いたくない。話したくないと。きっと作家になった事を私が喜び過ぎたから、作家を辞めた事で落ち込むとでも思ったんでしょうなぁ」
僕は小さく「そうですか」と頷いた。それで愛媛に帰らなきゃといつも必死だったのか、と納得した。
「いつもかみさんが夕飯を用意する間、息子の一番好きな本を読んでいたんです。宮沢賢治の銀河鉄道の夜をね」
僕はその言葉に「あれ?」と疑問を抱いた。
銀河鉄道の夜を毎日読んでいたって話、僕も聞いた事がある気が……
「どの程度目が見えていないのか、私は会っても貰えないからわからないんですけどね。私と妻が好きだった芥川龍之介から一文字取って『龍太』なんて付けてしまって、あの子にプレッシャーを与えてしまった部分もあるのかもしれません」
「りゅう、た?」
僕が言うと、正明さんは「なにか?」と不思議そうな表情になる。
もしかして、龍さんのことじゃ――
「息子をご存知ですか?」
「い、いえ」
思いっきり動揺が顔に出ていたような気がするが、暗さのお陰でバレなかったようだ。
「なんでもないです。なんでも……」




